鉄条網
仲津麻子
第1話鉄条網1
また今夜もここに立っている。
布団に入り、目をつぶると、いつもここ来ていた。
袋小路のような狭い空間の、行き止まりにあるのは、トゲトゲの鋭い爪を編んだような鉄の柵だ。
高さは私の背より少し高いくらい。地面から二十センチくらいのところで、ところどころ黒い柱で地面に留められている。
あたりはコンクリートのように灰色で、つま先立ちして塀の向こうを
塀から向こうの景色は、切り取られてしまったかのように、何も無いのだ。
背伸びしてダメなら、と、私は身をかがめる。
でこぼこした硬い土の上に膝をつき、顔を土にこすりつけるようにして、塀の下のすき間から、向こう側を見ようと試みる。
しかし、灰色の空間のはるか先に、何かを認めたと感じた瞬間、凍りつくような強い恐怖に捕らわれて、身を起こすのだった。
そして、いつも目が覚める。
恐怖はまだ体じゅうに残っていて、肩のあたりが勝手に震えていた。じっとりと冷たい汗が、額から頬にたれてくる。
私は深く息を吐き、気持ちを落ち着けてから、再び布団をかぶる。今度は自然と深い眠りに落ちて、気が付けば朝になっていた。
あの場所に行くのは、一晩に一度きりだ。
いつからだったのかわからない。気がついたら、いつのまにかそうなっていた。
一度は、あの袋小路のような区画から抜けられないかと、後を向いて走ってみたことがある。
私が立っている場所の背後は、小石が敷き詰められた砂利道が続いていて、暗闇の中に街の灯りが浮かんでいた。
しかし、数十歩も走らないうちに、透明な壁に阻まれて進めなくなってしまった。
前にも進めず、後戻りもできず、ただ鉄条網の柵に向き合うしかなかったのだ。
かがんで下から覗いた時にだけ感じられる何かは、最初ごく微かな気配だったが、日を重ねるうちに、強くなってきていた。
それにつれて、私が感じる恐怖も増してきて、最近では、体が張り裂けそうなほどの衝撃となって襲いかかってくるようになった。
十日ほど前からは、息づかいが聞こえるようになってきた。ハアハア荒い息を吐き出すような気配が、日に日に近づいてくる。
確かに、何か生き物が近づいて来ているのだと感じる。
そして、また今夜も、ここに立っている。
トゲトゲの鋭く冷たい爪は、相変わらず私の前に立ちはだかっていたし、コンクリートのような灰色以外、なにもない空間は、かすかな影さえ映していない。
風は流れるのをやめ、生暖かい空気が体のまわりに滞って、ジメジメした不愉快な肌触りが苦しかった。
ハアァと、耳元で息を吐くような気配を感じた。だんだん近づいてきていた息づかいは、とうとう、すぐそこまで迫っているようだった。
私はいつものように、つま先立ちして、塀の上から覗いてみる。さらには、ジャンプして高い位置から見下ろそうとしてみる。
予想通りに、上からは灰色の空間があるだけだった。
次に…… ゆっくりと身をかがめる。
嫌だ、と、思った。
この先は見たくない、心が猛烈に拒否していた。
脳は懸命に拒絶して、膝を立てて立ち上がろうと命令を下しているのだが、体はそれに気づかないのか、それとも、気づいていても無視しているのか。
私の中で、二つの意志が引っ張り合いをしているようだった。体が引き裂かれそうとは、こういうことを言うのか。
メリメリとでも音がしそうなほど、体のあちこちから痛みが襲ってきた。堪えきれず、私は地面に両手をついて、うずくまってしまった。
ふと視線を感じたので、横を向く。そこには塀の下のすき間があった。
ビクンと、体が跳ねた。
すき間から、アーモンドの形の目が一つのぞいていた。
もう片方の目は地面についているのか、隠れていたが、どう見ても人間の目だった。
まなじりには小さな泣きぼくろ、鼻の上には薄らとソバカスが浮いていた。
これは、私の顔だ。
当然、自分で自分の顔は、直接見たことはないが、鏡に映った自分の面影とそっくりだった。
塀の向こうにいる何者かは、少し顔を上げたらしく、無表情な目が消えて、赤黒い唇が大写しになった。唇の両端がグッと持ち上がり、声もなく笑っているのだと言うことがわかる。
私は、なすすべもなく、自分に似た何者かの動きを眺めていた。
体のどこもここも固まってしまい、地面の上についた指の一本さえ、動かすことができなかった。
やがて、コンクリートのような灰色の向こうから、白く長い腕が伸びてきた。
ジワジワと私の目の前の地面をさくり、やがて、見つけ出した。
相手の指が、私の冷たくなった指に触れると、体じゅうの血が、猛烈なスピードで、その接点へ向かって引き寄せられて行くような感覚がした。
めまいがした。目の前が白く煙って、何も考えられなかった。
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