8.5 戦後処理と再会

 オルレアン包囲戦「ほぼ勝利」の知らせを受けて、ジャンヌに指定されたトゥールに向かう途中、イングランド軍が全軍撤退したという続報がもたらされた。


「完全勝利おめでとうございます!」

「やはりあの少女は神の使いだったのか!」


 ジャンヌ・ラ・ピュセルの評判はとどまることを知らない。


「戦勝祝いの本番と論功行賞はトゥールに着いてからになるが、後方支援のみんなも大義であった!」


 戦勝祝いのプレ晩餐会から抜け出すと、私は徹夜で大量の書簡をしたためた。

 シャルル七世を支持する各都市と有力者に向けて、オルレアン包囲戦のこれまでの経緯と最終結果を報告しなければならない。


「ニシンの戦いで敗北したものの、ジャンヌ・ラ・ピュセルと名乗る少女の助言を受けて、オルレアン包囲戦は劇的な勝利を遂げた。……どう思う?」


 顔を上げて、ここにいない助言者を思い浮かべる。

 文書作成に定評のある詩人アラン・シャルティエは最近体調を崩しがちで、遠出には同行させずに、自宅で養生するように申し付けている。


 書簡の原本を書記官に渡して複写コピーと発送を命じると、次の戦後処理に取り掛かる。


 論功行賞は、ジャンヌをはじめ、デュノワやブサックたちと合流してからになる。戦争で犠牲は避けられないが、少なくとも顔見知りの身近な重臣たちが無事だったことで、私は心底ホッとしていた。


「さて、本当に深刻なのはこっちだな……」


 こんもり溜まった紙束の山はすべて会計帳簿で、項目ごとに分類されている。

 こまかい帳尻は会計士たちに任せるとして、私はオルレアン包囲戦にかかった戦費の試算値に目を剥いた。


「11万リーブル……!」


 ちなみに、読者諸氏の時代の通貨で換算すると、1万リーブルは3500万〜3億5000万円くらいだ。


 王室費から捻出できるのはせいぜい4万リーブル程度だろう。

 ただでさえ財政難な上に、フランス各地でつねに戦争が起きている。王家の矜持を維持しながら、食費や衣服代を限界まで切り詰めても全然足りない。


 かといって、戦費の残額を領主不在のオルレアンにすべて押し付けるのは酷だ。有力な商人・資産家たちに、フランスの将来性を示して多額の資金を提供してもらわなければならない。戦勝報告を急いで発送するのは、彼らとの駆け引きを見据えての行動だ。


「商人たちにとって『オルレアンの復興事業』が魅力的に映るといいんだけどなぁ……。私の文章力でうまく伝えられているのか、いまいち自信がない」


 くぁっとあくびをして、背筋を伸ばす。

 仮眠を取るか、もう少し仕事を頑張るか悩ましい。

 夜間の事務作業は、暖炉とランプの燃料を無駄遣いしている気もする。しかし、日中はトゥールに向けて移動しなければならないから、夜のほうが集中できる。


 華々しい戦いの裏では、地道な政略とこまやかな連絡が不可欠だ。

 正直なところ、ランスでの二度目の戴冠式よりも、目先の資金繰りのほうがはるかに重大事だった。





 結局、トゥールに到着したのは5月13日。

 ジャンヌからあれほど「すぐに来い」と言われたのに、書簡の大量執筆と発送作業に手間取ったため出遅れた。


「王太子さまーーー!!!」


 町に入って滞在先へ向かう途中、老軍馬ポレールに騎乗したジャンヌが早足で駆けつけた。だいぶ乗馬に慣れたようだ。


「早いな」

「えへへ、二日前から待ってました。……あ、いけない!」


 ジャンヌははっとして、騎乗したまま帽子を脱ぎ、ぎこちなく会釈した。

 本来は下馬するのが正式なマナーだが、少し無作法なところがいかにもジャンヌらしい。誰かが非礼を咎めて恥をかかせる前に、私はジャンヌのやり方に合わせて、騎乗したまま帽子を脱いで一礼した。こうすれば誰も文句を言えまい。


 滞在先の司教館まで、ジャンヌは自慢の白い軍旗を掲げて誇らしげに私を先導した。


「着きましたよ!」


 ジャンヌとともに、総司令官デュノワ、ブサック元帥、アランソン公たち幹部一同が集まっている。


「うむ、大義である」

「えっ?」

「お礼を言ったんだよ。きょうの出迎えもオルレアンのことも」

「……はい!」


 馬を預けて中庭をともに進んでいく。

 シノン城で初めて謁見したときはまだ寒かったが、5月のフランスは一年を通じてもっとも気持ちの良い季節だ。時間の流れは早い。


「負傷したと聞いたが、具合はどうだ?」

「いいえ!」

「えっ?」

「ケガなんかひとつもしてませんよ」


 ジャンヌはひきつった笑顔を貼り付けて「負傷していない」と言い張り、負傷した肩に伸ばしかけた手をあわてて引っ込めた。


「あたしは神様に守られてるから大丈夫なんです。奇跡を証明するって言ったでしょ。だから全然……」


 そう言いながら、言葉とは裏腹にぽろぽろと涙をこぼした。


 ジャンヌは純朴すぎるからうそをつけない。真相は明らかだ。

 しかし、ジャンヌは「王太子の戴冠」を実現させたいと本気で考えていて、頑なな私を動かすために「オルレアン包囲戦の勝利」を約束した。だから、私が心変わりすることを恐れて、必死に取り繕っているのだ。


「わかった。ジャンヌを信じるよ」


 ジャンヌの真摯な気持ちを尊重するならば、「ジャンヌは神の加護を受けて奇跡を起こした」というに乗る以外に選択肢はない。


「ジャンヌの『声の主』に、私からも感謝を伝えたい。君が無事で本当によかった……。よく頑張ったね、ありがとう」


 ジャンヌは嗚咽をこらえながらこくりとうなずいた。

 私は幼児をなだめるように髪を梳きながら、ふと昔話を思い出した。


「言い伝えによると、昔のフランス王は傷を治すを持っていたらしい。私が少しでもその力を受け継いでいるなら……」


 さきほどジャンヌが触れようとした肩に手を伸ばすと、いたわるように何度か撫でた。ジャンヌは目を閉じ、しばらく無言で身を任せていたが、涙の跡を拭うと小さな声で「ここもちょっとだけ」と言って、両手で顔をおおった。


「ここ?」


 空いているのは額だけ。耳が赤い。

 私はジャンヌの前髪をかき分けると、眉間に触れて優しいキスを落とした。




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