7.6 神との契約(1)

 キリスト教国において、大きな城には礼拝堂がつきものだ。

 格式張った礼拝堂の他に、各施設の部屋ごとにシンプルな「祭壇」も用意してある。


 レイアウトに特別な決まりはないが、大抵の場合、キリスト像を刻んだ十字架を掲げ、 左右に燭台を置く。あとは家主・部屋主の好みで天使や聖人をかたどった肖像を並べたり、花を飾ったりする。


 いついかなる時でも神の存在を忘れないために、自分自身を戒めると同時に、神の加護を信じて祈るための小さな空間だ。この物語を読んでいる読者諸氏の国・地域の風習で例えると「神棚」みたいなものかもしれない。


 暖炉に火を灯して振り返ると、ジャンヌは控室の片隅に掲げられていた祭壇の前でひざをつき、祈りを捧げていた。

 本心からの行動なのか、神秘を演出するパフォーマンスなのか。

 疑念は尽きないが、私もあらためて居住まいを正し、胸の前で十字を切った。


(神の使者か、悪魔の使いか……。この少女の真偽を見極めることができますように)


 神の加護を祈り、顔を上げるとジャンヌが私を見つめていた。


 さきほど大広間で、先導する案内人から外れて私の前までやってきて、瞳の中を覗き込むようにじっと見ていた。


 言葉や礼節を知らない「幼い子供」はきゃっきゃと元気に遊んでいたかと思えば、ふと、意思や感情のない「無垢な瞳」で何かを凝視していることがある。

 ジャンヌのこういう振る舞いは、そんな幼児おさなごを彷彿させた。


「さあ、話をしよう。私だけに伝える大切なメッセージがあるのだろう?」


 先手を打って、私から対話を促した。

 内心では、神秘性をかき立てる振る舞いに惑わされないようにと気を引き締めながら。


「ジャンヌの神は、何をおっしゃっているのかな?」

「やさしい王太子さま、どうか怒らないで聞いてくださいね」

「約束しよう」

「神様は、フランス王国は王太子さまのものではないと言っています」


 いきなりぶちかましてきた。


「なるほど」


 ……確かに、これは人前で軽々しく口にできるメッセージではない。

 ある意味、非常に不敬で非礼なメッセージだ。シャルル七世を支持する人たちが聞いたら怒るだろうが、私は面と向かって言われているにもかかわらず、不思議と腹が立たなかった。


「そうか。神はそう仰せなのだな」


 数ヶ月前、私は真冬のさなかにひそかに三つの祈りを捧げた。

 ジャンヌのメッセージは、あの祈りに対する神からの返答かもしれないと思った。


(やはり私は王位にふさわしくないのだ)


 もっと動揺するかと思ったが、呼吸も鼓動も落ち着いている。

 ジャンヌの肩越しに祭壇を見つめながら、私は穏やかな心で、神の意志を受け入れようとした。


「フランス王国は王太子さまのものではないですが、イングランドのものでもないです」


 ところが、ジャンヌのメッセージはまだ終わっていなかった。


「うん……?」

「この世界にあるすべてのものは神様のものです」


 風向きが変わった。

 ジャンヌはどうやら「神の摂理=プロビデンス」のことを言いたいらしい。

 神学における森羅万象の概念である。聖職者にとっては常識だが、山育ちの無学な少女の口からこういう話題が出てくるのは意外だった。


 正直なところ、私は王侯貴族や騎士よりも修道士の方が向いているという自負がある。

 ジャンヌは私に神学論争を挑みたかったのだろうか?

 いや、そんなことより、読み書きさえできない少女に、複雑な神学・哲学を教えたのは誰だ? ジャンヌにささやく「声」の正体、背後に潜む黒幕は誰だ?


「だから、フランス王国は神様のものですと紙に書いてください!」


 疑惑を抱いたのもつかの間、ジャンヌはさらに奇妙なことを言い出した。


「ええと、つまりこういうことか? フランス王国の土地権利書を神に捧げよと?」

「はい、それです。今すぐに書いてください!」


 ジャンヌは力強くうなずいた。

 私は、針子がちょっとした裁縫仕事をする時に使う小ぶりな椅子を引き寄せると、暖炉の明かりを頼りに即興で公文書を作成した。


「言われた通りに書いた」


 広げて見せると、ジャンヌは困ったようにつぶやいた。


「わかりません。あたしは字が読めないんです」

「それでは、読み上げよう」


 フランス王が国土の所有権を放棄するなどと書かれた公文書が外部に広まっては一大事だが、ごっこ遊びのようで、私は少しおもしろくなってきた。


「これでいいか?」

「神様が、日付と署名も書くようにと言っています」

「……本当に?」

「本当です」


 半信半疑だったが、言われるままに追記した。


「ジャンヌの神は、王国の法についてよくご存知だね」

「神様が知らないことはひとつもありません」

「全知全能の神が統治してくださるならフランス王国は安泰だ」

「はい、間違いありません!」


 ジャンヌは大真面目で、私は笑いを噛み殺しながら署名をしたためた。

 馬鹿にしているのではない。私は明らかにこの時間を楽しんでいた。

 ジャンヌとの対話は、理屈をこねくりまわす高度な神学論争とはかけ離れていたが、ある意味、真理に違いない。


「さあ、これでいいだろう」


 こうして、フランス王国の土地権利書ができあがり、私は「神の使者」であるジャンヌ・ラ・ピュセルにそれを託した。ジャンヌはうやうやしく受け取ると、控室の祭壇に向かって権利書を捧げた。

 しばらく祈りを捧げると、ジャンヌは再び権利書を取り上げて、私の前に戻ってきた。


「この世界にあるものはすべて神様のものです。フランス王国は王太子さまのものではないし、イングランドのものでもない……。だけど神様は、やさしい王太子さまにこの王国の未来を託すと言ってます」


 ジャンヌはひざをつくと、きらきらした無垢な瞳で私を見上げた。


「どうかこの権利書を受け取って、この国の王様になってください!」


 そういうと、インクの乾き切っていないフランス王国の土地権利書を広げて、まだ事態を飲み込めない私に向かって捧げた。


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