5.8 汚れた手を重ねて(3)頼みごと

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 リッシュモンは暗い表情でしばらく私を見下ろしていたが、ふいと視線を逸らした。


「なぜ、私にそんなことを……?」


 ずれた寝具を肩に掛け直しながらたずねる。


「長い間、イングランドはフランス王位を欲していた。だが、ここ数年の戦いはそれだけじゃない。ベッドフォード公もブルゴーニュ公もシャルル七世を恨んでいる。二人の私怨が、戦意の根源になっている」


 ならば、私がいなくなれば——、と思った。


「私を殺せば、恨みの対象はなくなる。憎しみの連鎖は終わり、ひいては戦争も終わる」

「あなたの命を差し出すことに納得しない者もいるでしょう。元はと言えば、英仏の戦いは数代前の王位継承が発端で、フランスの内戦は王弟と無怖公ふたりの争いにすぎなかった」

「そうだ。みんな忘れているのに、貴公はよく覚えているな」

「本来、あなたは争いの当事者ではなかった。ひとりで何もかも背負いすぎです」

「そうだ。今、生きて戦っている人間の中に、争いの発端となった当事者はいない」


 いや、母のイザボー・ド・バヴィエールは現在生きている唯一の当事者だ。

 王弟と無怖公が争うことになった発端で、内戦の元凶だ。

 彼女の恨みもまた、私へ向いている。


「人の感情とは難儀なものだ。怒りや悲しみ、憎しみや恨み、そして欲望や野望……。それらは親から子へ、または兄弟へと継承されていく」


 他人を恨むのではなく、自分が産んだ息子を恨む心境はどんなものだろう。

 私には理解も想像もできない修羅の道だ。


「そうです。あなたが死んだら、別の誰かが悲嘆と憎悪を次代へ継承する……」

「それが、そうでもないんだ」

「どういう意味です?」

「私は母から憎まれ、息子からも嫌われている」

「王太子があなたを嫌っていると?」


 私はこくりとうなずいた。


「息子のルイは五歳になったばかりだが、すでに自我を持っていて賢い。そして、明らかに私を嫌っている。私が死んだところで誰かを恨むことはないさ」


 悲観的に聞こえないように、私は努めてさばさばと語った。


「そんなに憐れむなよ。むしろ好都合だと思っているくらいだ。私は自ら望んで命を差し出す。これで戦争はおしまい、めでたしめでたし……という寸法だ」

「あなたの考えはわかりました。ですが、なぜ私に手を下させようとするのです?」

「なんていうか、これまでの忠義に対する礼代わりだ」

「そんな御礼は要りません」

「イングランドでもブルゴーニュでも、貴公が再仕官するときに私の首があればいい手土産になるだろう?」


 リッシュモンは絶句した。

 彼の顔色の変化に気づかず、私は話を続けた。


「イングランドのベッドフォード公とブルゴーニュ公、両陣営のトップに顔が利くのは貴公くらいだ。もし、私の遺志を汲む気があるなら、これ以上フランスを侵攻しないように貴公の力で働きかけてくれ。あと、シャルル・ドルレアンが早く帰国できるように」


 ついでに、遺言を託した。


「それは、命令ですか?」

「まあ、そんなところだ」

「できないと言ったら?」


 しばし見つめ合った後、一呼吸置いて、私はため息をついた。


「……失望する。貴公は見込み違いだったかと」


 言い終わる前に、世界がぐるりと反転した。


 天井の梁が見える。声をあげる間もなく、私は一瞬でベッドに仰向けになっていた。負傷した右手は、リッシュモンの左手につかまれて、頭上で縫い付けられたように組み敷かれている。

 動けないことに戸惑っていると、馬乗りになったリッシュモンがぞっとするほど昏い目で私を見下ろしていた。そして、空いた右手が伸びてきて私の首を締め上げようと——。


(やられる……!)


 動物的な本能なのか、反射的に恐怖を感じた。

 しかし、すぐに理性を取り戻し、私の内面に穏やかな諦観が広がる。


(馬鹿だ……。今ここで殺してくれないかと頼んだのは、私じゃないか……)


 誘ったのは私だ。

 リッシュモンは私の願いを叶えようとしてくれている。

 感謝こそすれ、怯える必要はない。


「後生だ。あまり痛くするな……」


 最後の願いをささやくと、私は首を絞めやすいように少し上を向き、静かに目を閉じた。


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