喫煙所

 会社の喫煙ブースで、タバコを片手にスマホに視線を落とす。

 昨晩、あのあとすぐに帰ってきた妻は、いつもと何も変わらない様子で、疲れたからと風呂に入って寝てしまった。顔を合わせた時間はほんの三十分程度。

 オレの仕事がまだ忙しかった年末くらいから、妻はいつもパソコンやスマホを気にしていた。

 今ではたとえ早く帰ってきても、ろくに会話もない。と言うか、バツが悪くて話しかけられない。


 バカなことをしたと思う。こんな風になるのなら、もっと妻との時間を大切にすればよかった。なんて、後悔ばかりが募る日々。

 込み上げてくるやるせなさを、タバコの煙と一緒に思いっきり吐き出す。

 これで胸のモヤモヤが消えてくれれば清々するのに。

 いっそのこと、妻に聞いてしまおうか。

 しかしそんなことをすれば、53ちゃんねるで徹底的に責め立てられるに違いない。もっと泳がせて証拠を固めてからでも遅くはない、と。

 そんなことをしているうちに、本当に取り返しがつかなくなってしまうような気もするが。


 いけない。もうこんな時間だ。

 物思いにふけっている場合ではない。

 仕事に戻らないと。

 顎にさげていたマスクで口を覆い喫煙ブースから出ると、廊下の向こうから企画広報課の女性社員たちがこっちへ向かって歩いてくる。

 オレはフッと顔を逸らす。

 年々隅に追いやられる愛煙家。喫煙直後の自分は、タバコを吸わない人間からすると気分のいいものではないだろう。


「前園さん」

 思わず振り返ると、グレーのタイトスーツを着た薄いピンクのマスク女性が、綺麗なセミロングの髪を揺らしこっちへ小走りに駆けてくる。


「みんな、先に行ってて」

 女性社員たちは「しょうがない」とでも言いたそうに小さく肩をすくめると、ひらりと片手を振って廊下を歩いて行ってしまった。


「篠田さん、何か用?」

 他の社員の前で急に話しかけられて、少し不機嫌に顔をゆがめる。

 彼女――亜紀の顔色を伺いながら。

 亜紀はそんなオレを見て、面白くなさそうに眉をひそめた。


「ふたりの時はいつもみたいにアキリンって呼んでよ」

「ちょっ、ヤメッ! そんなこと誰かに聞かれたら……」

「いいじゃん、別に。みんな知ってるんだから」

 亜紀はぷぅっとピンクのマスクを膨らませる。


 何を知ってるって? 考えただけで震えてくる。

 第一、会社では安易に話しかけない約束だ。


「急用ならLINEでいいだろ?」

「用ができた瞬間にちょうど合ったから話しかけたのに、わざわざLINE?」

「面倒でもそうしてくれ。この会社はうるさいんだから」


 少しばかりうつむく亜紀の表情はマスクでよく見えない。

 大きなたれ目のジトッとした視線だけが、執拗にオレに絡みつく。

 マスクの下の口は、きっとへの字に歪んでいるに違いない。


「で、用って?」

「二月の連休に温泉行こうよ。どうせ仕事もヒマでしょ? 花先輩が旅館の招待券くれるって言うから。もちろん、ヒロリンとふたりっきりで」

「温泉、だと?」

「うん、ゆっくりこれからのこと話さないと、ね」


 これからって……

 屈託なく笑うその瞳に宿るのは天使かはたまた悪魔か。オレの心を執拗に掻き乱す。

 胸元にすり寄ってくる亜紀の肩をガッシリ掴んで引き剥がすとそっぽを向く。

 こんなところを誰かに見られでもしたら、あとで何を言われるかわかったもんじゃない。


 しかし温泉、か……

 ここ最近の心が疲弊した生活を考えると、温泉でゆっくりするのも悪くない。いや、格好つけた。ハッキリ言って、行きたい。

 雪化粧の温泉宿。ゆったりとした時の中で、日ごろ味わえない絶品料理に舌鼓。

 腹が膨れたら今度は露天風呂だ。慌ただしくも荒んだ日々の疲れを綺麗さっぱり洗い流す。

 そして夜はもちろん……ふふっ、ふふふふふ。最高じゃないか。

 疲れを取りに旅行したのに、逆に疲れるわ。


 だがその前に、オレには片づけなければいけない問題が残されている。

 オレの視線に気づいた亜紀はキョトンとして、かわいらしく小首を傾げていた。

 そんな彼女を前に、早く決着をつけねばなるまいと心に誓った。

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