ひとりの部屋
「黒に決まってる……か。なにやってんだろ、オレ」
深い深いため息をひとつ、暗い部屋でモニターを見ながら独り言ちる。
リズミカルにキーボードを叩く手が、モニターの白い光でまるで冷たい蝋人形のようにも見えた。
モニターのポップアップメニューの右隅には二十三時ちょうどのデジタル文字。
自分ひとり、他には誰もいない部屋。
自分ひとり、他には誰もいない家。
妻はまだ、仕事から帰ってこない。
最近の平均初婚年齢からするとかなり早い二十五で結婚し、あれよあれよという間に二十八。
妻は大学時代の後輩でひとつ下。創作系サークルのアイドルだった。いや、オレにとっては今でも妻はアイドルだ。
子供はいない。そんな主義を貫いているワケでもないが、コウノトリもやってこなければ、知人にキャベツ農家もいない。
大学を卒業してすぐ就職した会社も時代の流れにしがみついてそこそこ成長し、毎年入社してくる新人を従えチームを引っ張る程度には昇進もした。
時間は無限だと信じて疑わなかった学生時代より、自由な時間に制限があるのがネックだけれども、毎日そこそこ楽しくやってきた。と思っていた。
何がいけなかったのか。仕事仕事で家庭を顧みなかったせいなのか、はたまた久しぶりの休日に趣味の釣りに出かけていたことが原因なのか。
月に一度……いや、二度? 三度くらいの心の休養だったのだけれども。
釣れれば晩の食卓がにぎやかになり、釣れなくてもストレス解消になる。
それでまた一週間働く気力が湧いてくるのなら、そんな時間も必要だと思っていた。
今思えば、そのせいで妻との間にすれ違いが生じてもおかしくはない。
ずっと気づかないふりをしていた。
結婚という契約の上に胡坐をかいていた。
つまりどういうことなのかと言うと……
妻に浮気をされてるっぽい。
いや、あくまで『っぽい』と言うだけで確かではない。
現場を目撃したワケでもないし、かといって調べたワケでもない。もちろん、「浮気をしているだろ?」なんて聞いてもいない。そんなこと、聞けっこない。
オレは妻を信じたい。いや、信じているのだ。
しかし日常が、こんなにも不確かなものだとは思いもしなかった。
会社での地位も上がってきたというのに、このコロナ禍だ。
簡単に言えば、仕事が暇になった。
これでやっと、家でゆっくりできると思った矢先のことだった。
妻が変わってしまっていた。
毎日毎日、仕事、仕事、仕事、仕事。今日のように十一時を過ぎることもある。
そんなにも仕事をしていると大変だろうと、休日に温泉にでも行かないかと誘ってみた。しかし妻は、「おしごとが忙しくて今は無理だってば」とあきれたように……
オレと仕事のどっちが大切なんだと、聞いてしまいたく……いや、少女漫画か!
画面を流れていく掲示板の言葉にすっかり打ちのめされる。今まで家庭を顧みなかったオレに妻を責める資格はない。なんて空耳が聞こえてくるようだ。
まったく、相談するつもりで掲示板に立ち寄ったというのにこのザマだ。
こんなことを知人に相談できるはずがない。かと言って、どうすればいいのか調べようと思っても雲を掴むような話だ。
ググる――それはある程度の土台があって為せる技であり、まったくの無知が知識を得るには先人に学ぶのが最も手っ取り早い。
その先人は、『嫁の浮気質問箱』スレにいる。
オレが以前から常駐している掲示板、
前々から単純に物語として楽しんでいたが、よもや自分が当事者としてここを訪れることになろうとは思いもしなかった。と言っても、相談らしい相談はないのだが。
妻はまだグレーだ。
これと言った確証がない以上、法テラスへ行くのは時期尚早というもの。
「妻が浮気しているかもしれないんですけど」と弁護士に相談する阿呆もいるまい。
ならば、探偵――と言いたいところだが、流石にいきなり興信所は足が竦む。
浮気調査に関しては『一日いくら』なので、この日に浮気していると言う確証がないととんでもない金額をゴミ箱に捨てる羽目になる。と、掲示板に書いてあった。
生活に困っていないとは言え、老後遊んで暮らせるほどの貯蓄があるワケでもないのだ。
ありがとう、53ちゃんねる。そしてその住人たち。
あなた方のおかげで、オレは無駄な出費もなければ無駄な行動もしなくて済む。
まずやるべきことは、可能な限りの身辺調査。
妻がまだ帰ってこないのなら、帰ってくる前にやれることをやるだけだ。
それとなく職場に電話してみる、か。いや、いくら部署が違うとは言え同じ会社だ。身内の恥を自ら世間様に広める必要はない。それは最終手段だ。
かと言って、スマホにGPSなど入っちゃいない。
妻の行動を探るために出待ちをしようにも、会社の出入り口は一か所ではない。もしすれ違ったら大事だ。危ない橋は叩いても渡るべきではない。
ならば次は、怪しいものがないかどうか家探し、か。
しかし常識的に考えて、家探しくらいで足がつくような真似をするだろうか?
もし仮に、あくまで仮に、オレが浮気をしたとする。
その証拠をちょっと探した程度で見つかる場所に置くなんて、どう考えても愚の骨頂だ。むしろ、家になんて置かない。スマホやパソコンのメールも逐一削除する。
これでもし証拠が出てきたら、妻の神経を疑う。
緊張感がなさすぎだ。どこまで頭の中がお花畑だって話だ。
自分の愛した妻が、そこまで浅はかな女だとは思いたくない。
これでもし本当に妻が浮気をしていたら……
激しく首を振る。
恐れるな。これはただの確認だ。
妻のタンスを開けてみる。
上段の小さな引き出しにある小物入れの中に、いくつもの貴金属やアクセサリー類。知らんぞ、オレは。この指輪も、ブレスレットも、ネックレスも。見たことがない。
下の段の大きな引き出しに入った服も、だ。
いつ買ったんだろう、こんなに派手なワンピース。いったいどこに着ていくと言うんだ?
他には……
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