第29話 新たな戦い
周囲を見渡すと、人通りのない暗い夜だった。
先程までの騒がしさが嘘のように静まり返り、私に孤独を突き付けてくる。
建物は古びるか或いは新しく建て替わって、一瞬の内に超えて来た時間の長さを知った。
正しく時渡りの腕輪が動いていれば七年が経過している筈だった。事件の起きる十年前丁度にしなかったのは下準備が必要だったからである。
少し前まで私の目の前にいた人々は今、何処で何をしているのだろうか。
興味はあったものの、確認する訳にはいかなかった。此処には私を知る者が多すぎる。
「……見つかる前に、立ち去らないと」
時渡りの腕輪は時間を越えても場所を変えられる物ではない。
一人月の下を走り出す。最初は軽く、次第に見えない敵から逃げるかのように必死に。
呼吸は荒く胸は息切れで苦しくなったが、構わず前へ前へと進み続ける。
大丈夫。私はやれる。カシュパルと同じように、ヴィルヘルムスの運命も変えられる。
けれど決意の内心とは裏腹に夜風の様に寂しさが胸に吹いて来る。もう、あの輝く紫の目を見られないと知っているから。
私は奥歯を噛み締め、ただ只管足を動かし続けるしかなかった。
あれから三年が経過した。
伯爵令嬢、王族付き侍女のサーレラ・エステル。ヴィルヘルムスの生みの親である彼女に、いよいよ介入する時がやってきた。
私は人目の少ない森に囲まれた街道に息を殺して待機していた。過去の資料と同じ運命を辿っているなら、この場所を彼女を乗せた馬車が通過する筈である。
エステルの父親であるサーレラ伯爵は娘の罪を知り、縁戚であるニクライネン侯爵家に助けを求めた。
結果、ニクライネン侯爵家は軟禁を条件にエステルの命を保護する事を約束する。
この移動はその軟禁場所への移動の道中であり、そして王族を誘惑した大罪人を殺すべきと主張したカルペラ公爵家の刺客が襲撃する地点であった。
カルペラ公爵は王族達が王宮に閉じこもり、政治を意のままに操れる現状に欠片ほども変化をもたらしたくなかったのだ。人間と王族の間に生まれた子供が、いつか表に出て来て民衆の前で口を開くのを望んでいなかった。
ヴィルヘルムスが生まれた後ならば、神族の血が彼自身を守るだろう。普通の人間が殺せる相手ではなく、また信仰心が邪魔をするに違いない。成長し意思表示出来るようになれば、母親をも守れるに違いない。
けれど生まれる前であれば無力でしかなかった。
カルペラ公爵はヴィルヘルムスが誕生するまで、常にエステルの命を狙い続けたという。
失敗は許されない。この襲撃を逃せば強固な警備が敷かれた軟禁場所にエステルは閉じ込められてしまう。
カシュパルの時とは違い、今回は多数の敵の目を掻い潜ってやり遂げなければならなかった。
自分を信じるしかなかった。私はこの為にずっと戦いの中に身を置き続けてきたのだから。
蹄の音が聞こえてくる。やがて遠くに周囲を馬上した騎士に囲まれたエステルの馬車が現れた。
騎士の数は六人。多すぎないのは人目につかないようにしているからだろう。
いつ襲撃があるのかと目を凝らして待っていると、騎士の馬の一頭が突然嘶いて棹立ちになる。矢で射られたのだ。
「かかれ!」
号令と共に黒づくめの男達が十数人現れ、馬車に襲い掛かっていく。
始まった。
私は冷や汗をかく程に緊張しながら、手の中の煙幕弾を握りしめた。
騎士達は馬車を守ろうと剣を抜き、あっというまに周囲は混戦状況に陥ってしまった。
この戦いは放っておけば騎士達が勝利する戦いである。本来の任務であれば、この黒づくめの刺客達と共にエステルを殺害するべきだ。
けれど私は勝手にエステルを生かそうと決めてしまった。
カシュパルを人間を愛する人に変える事が出来たのだから、エステルとヴィルヘルムスの運命も変えられない筈がなかった。
今!
馬車から混戦の為人が遠ざかった瞬間を見逃さず、用意していた大量の煙幕弾を馬車の周辺にまき散らす。
「うわ!」
「何だこれは⁉」
襲撃してきた筈の刺客達も予想していない事態に狼狽える声を上げた。
私は混乱に乗じて急いで馬車に駆け寄り、扉を開け放つ。
……幼い。
飛び込んできたエステルの容姿に、思わず眉を寄せた。記録で見た似顔絵よりも、目の前で震える肉眼で見たエステルは若々しく見える。
そう。彼女はまだ、たったの十七歳だった。
エステルは怯え切って目を限界まで見開き、突然現れた不審な女に声も出せないようだ。
「エステル様。失礼します」
今此処で問答をするつもりはない。状況は切迫していて、今も瞬間毎に火が燃え広がるように危険な状況に私を追い込んでいく。
だから薬剤を沁み込ませた布を噛ませて彼女を担ぎ上げた。くぐもった悲鳴が聞こえたが、それに構う余裕がない。
煙に乗じて森の中へと急いで駆けこんだ。エステルは薬が効いてきたのか、抵抗する力が抜けてくる。
脱力した人間の体は重いが、嘆く暇はない。暫く走れば木に繋がれた馬が見えてきた。
鞍にかけていた大きな布で荷物の様に彼女を包み、馬上に乗せる。私も急いで飛び乗り、勢いよく馬の腹を蹴って森の中を駆けさせた。
早く、早く。
騎士達や刺客達に囲まれてしまえば、私の実力では到底敵わないだろう。
この森には罠を幾つも仕掛けておいた。それがうまく作動して、簡単に追いつかれなくする事を願うしかない。
飛んで来た矢が肩に刺さった。焼ける様にその場所が熱く感じる。
「ぐ、」
奥歯を噛み締めて痛みを堪えた。馬に当たらなかったのが幸いだと思うべきだ。
その内に渓谷に架けられた橋が現れ、渡り切った所で礫を放つ。
ドォンッ
礫に刻まれた魔術が炸裂し、バラバラになった橋の残骸が谷底へと落ちて行く。
追って来た刺客達は此処に来るまでに罠で数を減らしたようだ。彼等が橋を壊され対岸で立ち止まるのが見える。
今の内に距離を稼がなければ。
私は前を向き、追われる恐怖を感じながらも振り返らずにただひたすらに馬を走らせ続けた。
走りに走り続け、漸く少しだけ安心する事が出来る。此処までくれば、どちらの方面に逃げたか当てるのは難しいだろう。
眠るエステルを確認する。顔だけ出させた彼女の顔色は悪くない。妊婦の彼女の体調を悪化させなかった事にほっとした。
馬の速度を落としながら進めると、事前に使おうと決めていた小さな山小屋が見えた。山小屋の主が今の時期使用しないのも確認している。
私は馬から降り、エステルをその山小屋の簡易ベッドの上に横に寝かせた。薬は強いものではないから、その内に目が覚めてくるだろう。
「はぁ……」
腰を床に降ろすと麻痺していた疲労感と、射られた肩がじくじくと痛んでくる。
山小屋には事前にある程度の物を準備しており、傷口の手当をする為の物もその中にあった。
私は上半身の服を脱ぎ、矢を自分で引き抜いた。エステルが怖がるだろうからその前に処置をしようと急いだが、滲んでくる血が中々止まらない。
布が動く音がして視線を向けると、既にエステルの目が覚めてしまっていた。
金色の髪と翡翠の目をした美しい貴族の娘は、目を見開き恐怖に震えながら私を見ていた。
「あ、貴女は……?」
怪我の処置をしている場合ではないな。
傷口を諦めて、私はなるべく友好的に見えるように笑顔を向けて彼女に挨拶をした。
「はじめまして。サーレラ・エステル様。私はセレナと申します。貴女にご提案をしたく、このような強引な手法を取ってしまった事、まずは謝罪いたします」
私は騎士の礼を間抜けな恰好でする。剣を握っていない事と余りにも無防備な恰好をしていたからか、エステルの顔から少し恐怖が和らいだ。
「提案……ですか」
「はい。その為にご説明頂く時間を少し頂きたい」
エステルは唾を飲み込み緊張した面持ちで頷いたが、血を流し続ける私の肩を指さして言った。
「分かりました。その前にどうぞ、そちらの手当をなさって下さい」
思っていたより優しい人だ。
私は命を懸けて助けようとしている人が善人である事を知り、少し心が明るくなる。
「感謝いたします」
血を吸って赤くなった布を捨て、新しい布を当てがった後に包帯で肩を巻いていく。
自分で片手で巻くのだから当然綺麗に巻ける訳がない。
奮闘する私を、エステルは一歩も近寄らないまま只管に見つめるのだった。
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