第2話

 


 岩城は新幹線の中で、事件の経緯を整理していた。


 死体検案書には、“死因は扼殺やくさつによる窒息だが、扼痕やくこんが二箇所にあるため一度息を吹き返し、その後にもう一度首を絞められた。それにより死亡に至った可能性がある”とあった。その件について逮捕した二十四歳の会社員、山田将希やまだまさきに問いただすと、「頭がパニクっていて、何度首を絞めたか覚えていません」と答えた。それが当然だろう。理性を失っている状態で自分の一挙一動を覚えている方が不自然だ。そう納得すると、ほのかな恋慕を抱く梓に思いを馳せた。四十を過ぎた岩城は離婚歴がある独身者だった。一人の男として興味のある女に恋愛感情を抱くのは自然なことだ。ーー


 それは、車窓を流れる暮れなずむ空を眺めている時だった。岩城はハッとした。山田将希を逮捕した気の緩みで肝心なことを忘れていた。……ドアノブに付着していた忠嗣の指紋だ。どうして忠嗣の指紋が付いていたんだ……? 被害者と関わりがあるのか? そんな疑問を抱きながらも、山田将希本人が殺しを自供したんだ、今更ほじくり返す必要もない。強盗に入ろうとした時にでも付けたのだろう。と誤認逮捕を払拭するかのように岩城はそう結論付けた。



 〈小料理 千鳥〉の暖簾から中を覗くと、割烹着の梓と板前が晒し場で手を動かしていた。引き戸を開けると、二人の視線が同時に向いた。


「いらっしゃいませ!」


 同年代に見える板前が愛想よく迎えた。だが、梓は対照的に無愛想な顔を向けていた。


「まだ、何か?」


 そばに来ると、小声で訊いた。


「いいえ。今日は客として来ました」


「そうでしたか。それは失礼しました。さあ、どうぞ」


 一変して笑顔になると、奥のテーブルに案内した。板前を一瞥いちべつすると、歓迎する表情でお辞儀をしていた。岩城はそれに応えるように会釈をして席に着いた。


「お飲み物は?」


 梓はおしぼりを渡すと、お品書きを開いた。


「ビールにするかな」


 背広のポケットから煙草を出すと顔を上げた。


「かしこまりました」


 梓は一礼すると離れた。


 時間が早いせいか、客は他にいなかったが、おもむきのある落ち着いた店だった。


「さあ、どうぞ」


 割烹着を脱いできた梓は、暖簾の色と似た苔色の着物を着ていた。梓が注いでくれたビールを一気に飲み干した。


「まぁ、美味しそう」


 梓がクスッと笑った。


「美味しいですよ、事件も解決して。ご存じでしたか?」


「はい。ニュースで」


「この度はご迷惑をおかけしました」


 頭を下げた。


「いいえ。それが刑事さんのお仕事でしょうから」


「ありがとうございます。そう言ってもらえると助かります。それで、今回のお詫びに食事をご馳走ちそうしたいんですが」


「えっ、今日ですか?」


 少し驚いた顔をした。


「いいえ。いつでも構いません。時間がある時に電話をください。これ、電話番号です」


 岩城は、名前と電話番号を書いた紙切れをポケットから出した。梓はそれを受け取ると、


「……お電話します」


 と柔らかい笑みを浮かべた。


「待ってます」


 岩城は期待を込めた表情を向けた。間もなくして客が来た。刺身盛や金目鯛の煮付けなど海の幸を堪能すると、忙しくなった店を切り盛りしている梓に言葉もかけられないままに店を出た。岩城は梓に未練を残しながら新幹線に乗った。ーー



 だが、一週間経っても二週間経っても梓からの電話はなかった。業を煮やした岩城は熱海に向かった。電話一本で事は済む。だが、その電話で真相を知るのが怖かった。何か得体の知れないものがうごめいているようで。ーー新幹線の中で、岩城は〈小料理 千鳥〉での梓との会話を振り返ってみた。電話をくれるように言った時も嫌がる様子はなかった。だから、嫌われているということはないはずだ。だったらなぜ、電話を寄越さない。岩城は子供のように腹を立てていた。



 熱海に着くと、一刻も早く梓に会いたかった岩城はタクシーを拾った。ところが、窓に明かりはなく、表札もなかった。焦る気持ちから何度もチャイムを押した。だが、家の中からチャイム音が聞こえるだけで、応答はなかった。夕闇と同化したその古い佇まいはまるで廃墟のように物悲しかった。不吉な予感がした岩城は〈小料理 千鳥〉に急いだ。暖簾越しに見ると、板前の姿しかなかった。


「梓さんは?」


 戸を開けるなり訊いた。


「あ、先日はどうも。梓さんは辞めましたよ」


 板前はあっけらかんと答えた。


「辞めたって、いつ?」


 岩城は早口でまくし立てた。


「先月です」


「突然ですか?」


「いいえ。ひと月前から決まってました。きちんとした人だから」


「で、どこにいるんですか?」


「さあ、そこまでは……」


 板前は首をかしげた。本当に知らないようだ。もしかして梓と付き合っているのではないかと邪推したが、見当違いだった。これ以上の情報は得られないと察した岩城は店を出た。


 どういうことだ? なぜ、店を辞める必要がある。なぜ、家を引き払う必要がある。犯人は逮捕されているんだ、二度と忠嗣に嫌疑がかかることはない。なのにどうして姿をくらましたんだ。梓の突然の失踪がどうしても理解できなかった。


 ……まさか、誤認逮捕なのか? 真犯人は忠嗣? それで、そのことを知っていた梓が逃げたのか? 犯人隠避はんにんいんぴを暴かれる前に……。そんなふうに考えて急に不安になった岩城は、深いため息をつくと重い足を引きずって駅に向かった。ーー

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