第2話
岩城は新幹線の中で、事件の経緯を整理していた。
死体検案書には、“死因は
それは、車窓を流れる暮れなずむ空を眺めている時だった。岩城はハッとした。山田将希を逮捕した気の緩みで肝心なことを忘れていた。……ドアノブに付着していた忠嗣の指紋だ。どうして忠嗣の指紋が付いていたんだ……? 被害者と関わりがあるのか? そんな疑問を抱きながらも、山田将希本人が殺しを自供したんだ、今更ほじくり返す必要もない。強盗に入ろうとした時にでも付けたのだろう。と誤認逮捕を払拭するかのように岩城はそう結論付けた。
〈小料理 千鳥〉の暖簾から中を覗くと、割烹着の梓と板前が晒し場で手を動かしていた。引き戸を開けると、二人の視線が同時に向いた。
「いらっしゃいませ!」
同年代に見える板前が愛想よく迎えた。だが、梓は対照的に無愛想な顔を向けていた。
「まだ、何か?」
「いいえ。今日は客として来ました」
「そうでしたか。それは失礼しました。さあ、どうぞ」
一変して笑顔になると、奥のテーブルに案内した。板前を
「お飲み物は?」
梓はおしぼりを渡すと、お品書きを開いた。
「ビールにするかな」
背広のポケットから煙草を出すと顔を上げた。
「かしこまりました」
梓は一礼すると離れた。
時間が早いせいか、客は他にいなかったが、
「さあ、どうぞ」
割烹着を脱いできた梓は、暖簾の色と似た苔色の着物を着ていた。梓が注いでくれたビールを一気に飲み干した。
「まぁ、美味しそう」
梓がクスッと笑った。
「美味しいですよ、事件も解決して。ご存じでしたか?」
「はい。ニュースで」
「この度はご迷惑をおかけしました」
頭を下げた。
「いいえ。それが刑事さんのお仕事でしょうから」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると助かります。それで、今回のお詫びに食事をご
「えっ、今日ですか?」
少し驚いた顔をした。
「いいえ。いつでも構いません。時間がある時に電話をください。これ、電話番号です」
岩城は、名前と電話番号を書いた紙切れをポケットから出した。梓はそれを受け取ると、
「……お電話します」
と柔らかい笑みを浮かべた。
「待ってます」
岩城は期待を込めた表情を向けた。間もなくして客が来た。刺身盛や金目鯛の煮付けなど海の幸を堪能すると、忙しくなった店を切り盛りしている梓に言葉もかけられないままに店を出た。岩城は梓に未練を残しながら新幹線に乗った。ーー
だが、一週間経っても二週間経っても梓からの電話はなかった。業を煮やした岩城は熱海に向かった。電話一本で事は済む。だが、その電話で真相を知るのが怖かった。何か得体の知れないものが
熱海に着くと、一刻も早く梓に会いたかった岩城はタクシーを拾った。ところが、窓に明かりはなく、表札もなかった。焦る気持ちから何度もチャイムを押した。だが、家の中からチャイム音が聞こえるだけで、応答はなかった。夕闇と同化したその古い佇まいはまるで廃墟のように物悲しかった。不吉な予感がした岩城は〈小料理 千鳥〉に急いだ。暖簾越しに見ると、板前の姿しかなかった。
「梓さんは?」
戸を開けるなり訊いた。
「あ、先日はどうも。梓さんは辞めましたよ」
板前はあっけらかんと答えた。
「辞めたって、いつ?」
岩城は早口でまくし立てた。
「先月です」
「突然ですか?」
「いいえ。ひと月前から決まってました。きちんとした人だから」
「で、どこにいるんですか?」
「さあ、そこまでは……」
板前は首を
どういうことだ? なぜ、店を辞める必要がある。なぜ、家を引き払う必要がある。犯人は逮捕されているんだ、二度と忠嗣に嫌疑がかかることはない。なのにどうして姿をくらましたんだ。梓の突然の失踪がどうしても理解できなかった。
……まさか、誤認逮捕なのか? 真犯人は忠嗣? それで、そのことを知っていた梓が逃げたのか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます