「日本最古の鉄道会社」を訪ねて― 箱根西坂電鉄探訪記

ナトリウム

本編

私は東京駅から東海道新幹線こだま号で西に向かっていた。日本の二大都市を結び、高速列車が通勤電車並みの間隔で走る東海道新幹線は、常に最新技術が取り入れられてきたまさに日本の鉄道を象徴する存在といっても過言ではないだろう。

さて、そんな最新技術の粋に揺られながら、ふと疑問に思う。「日本最古の鉄道」はと訊かれたとき、皆さんなら何を思い浮かべるだろうか?ほとんどの人は1872年の新橋―横浜間と答えるだろう。少しひねくれた人なら新橋開業の4ヶ月前に仮開業していた品川―横浜間だと答えるかもしれない。もっとマニアックならさらにその3年前、1869年に鉱山トロッコとして実用化されていた北海道の茅沼炭鉱軌道を挙げる人もいるだろうか。

では、「日本最古の鉄道会社」ではどうだろうか。日本鉄道?南海電鉄?いや、実はそれよりももっと古い、さらに言えば上述した「日本最古の鉄道」よりも古い歴史を持つ鉄道会社が存在する。今回はそんな興味深い歴史を持つ、箱根西坂電鉄を紹介しよう。


私を乗せたこだま号は三島駅に到着した。列車を降り、新幹線の改札を抜けて地下の連絡通路を歩き南口へ。案内標示に従って左に折れて階段を上ると、西坂電車こと箱根西坂電鉄の乗換口にたどり着いた。コンコースにはのぼりやポスターが飾られてお祝いムードだ。見ると、今年2022年で創立200周年とある。事前に知っていた情報ではあるものの、いざ面と向かって言われるとあまりの数字の突飛さに可笑しさすらこみ上げてくる。

券売機で三島から二駅先の川原ヶ谷までのきっぷを購入し、改札を通ってホームに上がると、青い小さな電車が佇んでいた。お隣の伊豆箱根鉄道より明るめの色合いで、15mくらいの車両が2両連なっている。前面などのデザインは異なれど、山の反対側の箱根登山鉄道の車両を青くしたような印象だ。ただ、データイム毎時4本あるあちらと違い、こちらは昼間は1時間に2本、それもうち1本は途中のスカイガーデン駅折り返しで終点まで行くのは毎時1本と長閑な本数だ。

さて、私の目の前にいる列車はスカイガーデン止まりの便だった。もちろん予定通りで、これで川原ヶ谷駅まで行き途中下車したあと、30分後の箱根町行きの列車に乗るつもりだった。列車に乗り込み空いているボックスシートに腰を下ろすと、まもなく発車ベルが鳴りドアが閉まった。列車は唸りを上げて三島駅を発車する。この場所ではいささか大げさなモーター音は、この先の登山区間を思い起こさせた。

…さて、鉄道ファン諸兄なら箱根西坂電鉄を存在くらいは知っている人がほとんどだろう。三島駅と芦ノ湖畔の箱根町駅を結ぶ地方鉄道で、東海道の難所・箱根峠を超える登山鉄道でもある。箱根町駅は海賊船の港にも近いので、箱根ゴールデンコースと組み合わせて小田原から三島へ抜ける乗り方をしたことがある読者もいるかもしれない。…惜しいのは箱根西坂電鉄が西武系のために、小田急グループの海賊船などと組み合わさったきっぷが無いことだが。

話を車中に戻そう。そうこうしているうちに列車は加茂川町駅を過ぎ、並走してきた東海道線から離れつつあった。「まもなく川原ヶ谷」の自動アナウンスを確かめ、席を立つ。―川原ヶ谷駅は車庫併設だけあって、少し大きめの駅だった。といっても対向式ホームの2線に出入庫線1線がくっついているくらいなものだが。ただ駅舎は箱根西坂電鉄本社が入っているだけあって、鉄筋コンクリート造3階建てのしっかりしたものだった。そして私がこの駅で途中下車した理由は、その駅舎の1階に見たいものがあるからだった。

改札に向かう前に、そういえばと思い列車が去った線路を見回してみると、目的のものをすぐに見つけた。0キロポストだ。箱根西坂電鉄の起点は三島駅ではなく川原ヶ谷駅なのだ。ここから三島駅方面にはキロ程がマイナスで表示されている。本社がここにあるのもそういう由来だった。それを写真に収めて、改札に向かい窓口の駅員にきっぷを渡して出ると、目当ての場所は分かりやすく案内されていた。「西坂電車資料館はこちら」―矢印で示された方へ行くと、資料館と呼ぶには小規模ながらも地方私鉄では類を見ないほど立派な展示室が待っていた。ここにもやはり創立200周年のお祝いのぼりがたくさん飾られていた。壁に何枚も展示された年表と解説板は、この鉄道にとっていかに歴史が特徴的で大切にされているかを感じさせた。

…ということで前置きが長くなってしまったが、ここからは箱根西坂電鉄―日本最古の鉄道会社と言われるこの鉄道の歴史について、資料館で得た情報を踏まえつつ解説していこう。


箱根西坂電鉄の創立は1822年(文政5年)、つまり江戸時代である。当時は当然日本に鉄道はまだ存在せず、したがって箱根西坂電鉄も鉄道会社として創立されたわけではなかった。では当時は何をしていたのか、それを説明するにはまず江戸時代の交通について話し始める必要がある。

本邦の陸上交通史の特徴として、古くから車輪交通があまり発展しなかったことが挙げられる。道が未舗装で多雨気候の日本では容易に路面がぬかるむし、轍ができるとかえって人馬にとって危険とも考えられていたようだ。加えて江戸時代においては、幕府の中央集権体制を維持するため敢えて諸国間の移動の利便性を抑える政策が行われていて、余計に車輪交通は浸透しなかった。当時の主な交通機関といえば馬か駕篭である。馬は宿場町ごとに「駅」という長距離移動用の馬を備える施設が置かれ、その「駅」のネットワークを乗り継いで長距離移動した(駅伝制という)。しかし当時の日本では仏教思想から馬の去勢が行われなかったため気性が荒くて操りづらく、先述した幕府による政策もあって馬を利用できたのは役人や武士といった一部の階級に限られていたという。そこで庶民が利用していたのが駕篭で、これが市内の短距離移動から町を跨ぐ長距離移動まで担っていた。

そんな江戸時代でも車輪交通が全く認められていないわけではなかった。幕府の認可制で二種類の車輪交通が存在していた。一つ目は大八車、今でいうリヤカーで、台数に上限のある登録制で主に江戸市中など市内における荷物輸送に利用されていた。そしてもう一つが、今回の主題となる牛車(うしぐるま)である。西洋では馬車が発展したが、日本では暴れやすい馬ではなく温厚な牛を利用した牛車が平安時代より使われていた。また江戸時代の牛車は荷物輸送用で、牛の牽引力の強さを利用していた。人より何倍も効率的に荷物を輸送できる牛車は非常に高い利便性を有していた反面、例によって幕府による監視下に置かれ、特に交通量の大きな地域・線区として指定された場所でのみ使用が許可されていた。具体的には仙台、江戸、駿府、京都の各市中・周辺および東海道箱根関―三島間の箱根峠、東海道大津―京都間の逢坂峠・日ノ岡峠である。そして、他ならぬこの「箱根峠の牛車」こそが箱根西坂電鉄の由来なのである。

後者に挙げた峠における牛車の使用は、輸送力の高さよりも急勾配の登坂能力に期待する性格が大きかった。しかし、峠道の悪路は牛車に向いていたとは到底言えず、いくら牽引力の強い牛とはいえ人間ほど急峻な坂道を登れるわけではなかったし、重い荷物を載せた車両の車輪がぬかるみにはまって立ち往生することも日常的に起きていた。そうした中、先述した大津―京都間において、通行をスムーズにするため、歩道とは別に勾配をいくばくか緩和させた牛車専用の車道(くるまみち)が整備された。さらに、ぬかるみ対策として車道に石を敷いて舗装することが発案されたが、このとき全面的に舗装するのではなく車輪が通行する部分にだけ2条の敷石(車石という)を置く形となった。これは、牛にとっては舗装された路面の方がかえって歩きづらいことから、敢えて牛が歩く道の中央部は未舗装としたのである。この車道整備は禅僧が募った浄財を資金にまず日ノ岡峠にて行われ、1738年(元文3年)に完成を見た。なお、車石にはそれぞれ車輪がぴったり通るだけの細い溝が掘られていて、牛車はこの2条の溝をちょうどレールにして通行していたのである。この車石敷設の有効性は京都周辺の人々、そして幕府に伝わり、1805年(文化2年)には大津―京都間の大部分に敷設され、その他の京都周辺の主要路にも広がった。

さて、そんな車道・車石整備の効用は箱根にも伝わっていた。しかし交通量があるとはいえ、大坂と西廻り航路の水運連絡も擁する大津―京都間よりは重要度が劣る箱根峠においては、幕府による整備の指示は来なかった。ここで立ち上がったのが三島の豪商・大石枡太郎である。彼は峠道にあえぐ牛車牽きの人々を憂慮しており、また車道整備により牛車の輸送を改善できればその事業自体に商機があると見込んでいた。枡太郎は三島のみならず沼津や駿府、はたまた小田原などの有力商人たちから出資を募り、箱根峠への車道整備を主導した。1819年(文政2年)に着工、3年の月日をかけて1822年(文政5年)に三島―箱根峠間が開通した。さらに枡太郎は、車石の軌間の都合より牛車の規格を統一する必要があることから、箱根峠で牛車を牽く人々をまとめ上げ、開通と同時に車道を通行する牛車全てを管轄する組織「西坂車組」を設立した。この西坂車組こそが箱根西坂電鉄の発祥にして直系の先祖であり、この創立を会社の創立としているのである。

枡太郎による西坂車組は画期的だった。まず、それまで運賃は車牽きとの交渉次第だったのを、「現金掛け値なし」の越後屋よろしく組内での基準のもとですべて一定とした。また、牛車を集結する施設を作りこれを集金や荷物の積み下ろしの一括窓口とした。枡太郎はこの施設を街道の駅伝制に倣って「駅」と名付け、車道の両端である現在の川原ヶ谷駅、箱根峠駅の場所に置いた。ちなみに当時付された駅名はそれぞれ三島駅、箱根峠駅であったとされ、したがって箱根峠駅は創立以来200年間同じ駅名を名乗っていることになる。西坂車組の牛車は好評を博し、1825年(文政8年)には箱根峠から箱根関所(現在の箱根町駅)まで車道を延伸している。この時点で現在の箱根西坂電鉄の路線の原型が完成したと言えよう。

西坂車組の牛車は地元住民や東海道を往く人々から「西坂牛車」と呼ばれ親しまれ、順調に利用を伸ばしたが、枡太郎はさらなる発展を目指し商才を発揮する。西坂牛車が開通した2年後の1824年(文政7年)、枡太郎のもとにある請願書が届いた。車道が通過する山中集落からだった。曰く、『今の牛車は集落で休憩を取るなど立ち寄っているが、「駅」が無いため住民が牛車を利用することはできない。山中は新田(江戸時代初期に開発された農業集落)でもあり米などを三島に運ぶことも多いので、集落内にも「駅」を作って牛車を利用できるようにしてほしい』との内容だった。それまでの西坂牛車はあくまで東海道を往来する需要しか想定しておらず、したがって「駅」も両端にしか設置されなかった。その一方で車道は東海道に並走しており、山中を始めとする「間の宿」(あいのしゅく、宿場町間の街道上の峠などに形成された休憩用の小さな宿場)を牛車の休憩に利用していた。そうした集落は同時に新田集落でもあり、主に三島との荷物の移動需要があったのだ。請願を受けてそれに気づいた枡太郎は、この需要を取り込まんと経由する「間の宿」にも「駅」を設置することを決め、三ツ谷、笹原、山中の3駅を置いた。これらの途中駅では三島駅との相互間のみ利用できたと言い、東海道を往来する需要との住み分けが図られていたとされる。

枡太郎の功績で特筆に値するものとしてもう一つ、今でいう「沿線開発」の考え方を実践していたことが挙げられる。西坂牛車では牛から排泄される牛糞を肥料として売って収入の足しにしていたが、牛が常駐していた三島駅周辺よりもわざわざ牛車で運ぶ必要がある沿線の新田集落に優先して売っていたといわれる。その理由について枡太郎は、「車道整備の際に田や土地を分けてもらった恩もあるが、牛糞を肥料として使ってもらうことで作物の収量が増えれば、結果的に牛車で運ぶ量も増えて自分たちの収益に繋がる」と書き残している。牛糞を使うことで収量にそれほどの差が生じたかは定かではないが、少なくともこうした「自らの手で沿線を育て利用増に繋げる」という発想は、後年の電鉄会社による沿線開発に通じるものがあり、枡太郎の商才の高さがうかがえる。

荷物を運ぶための牛車であるが、実はある時期から人も乗せて運ぶ、つまり旅客輸送を開始している。当初から荷主を同乗させたり地元住民が相乗りしたりはしていたようだが、明確に旅客営業が行われたのが1830年(文政13年)に記録されている。この年、「お蔭参り」と称される伊勢神宮参拝の全国的な流行が発生し、江戸からも東海道を西進して伊勢に向かう旅行者が急増した。それまで箱根峠では荷物は西坂牛車、人は旅籠と住み分けていたが、あまりの旅行者の数に旅籠がパンクしてしまい、牛車に乗せてくれという旅行者の声が聞かれるようになった。枡太郎ら西坂車組は初め、牛車はあくまで荷物を運ぶものであり、旅籠との住み分けを破ってしまうことにもなるため慎重な姿勢だったが、その旅籠屋からも要請されるようになったのを機に、牛車の輸送力に余裕がありかつ旅籠屋を窓口とした場合に限って人を乗せることとした。この旅客輸送は「お蔭参り」流行の終息とともに行われなくなったが、箱根西坂電鉄の歴史における初めての旅客営業の記録であるとされている。

西坂牛車をつくり上げた“実業家”大石枡太郎だったが、1835年(天保6年)に寿命を迎えた。彼の死後、商人としての彼の本来の仕事であった大石枡太郎商店は長男の枡八が継ぎ、その後も脈々と受け継がれて現在も静岡県内に十数店舗を展開する中型スーパー「Oishi」を運営する大石商事へ発展した。一方の西坂車組は世襲を行わずに、組の人間たちで経営を続けていくことになった。以後半世紀に渡り、西坂牛車は安静大地震による被災などを受けつつも、概ね安定した輸送を続けていった。ただし晩年には組織的な性質が失われ、車牽き個々人が牛や牛車を所有し駅などの施設だけを共用する協同組合のような形態になっていたと言われる。

さて、1868年に日本は明治時代に突入し近代国家への道を歩み始め、それまできわめて未発達であった陸上交通分野における代表的事業として鉄道の敷設が急速に推進された。冒頭で述べたように1872年に日本初の鉄道が新橋―横浜間で開業し、東京大阪間を結ぶ東海道線は1889年に今の御殿場線ルートと関ヶ原付近の完成を以て全線開通に至った。これによって輸送の主役は街道から鉄道に移ってゆき、70年の長きに渡り東海道唯一の“軌道”としてその輸送を担ってきた西坂牛車はその役目を終えることとなった。とはいえ輸送需要が無くなったわけではなく、特に箱根峠においてはその急峻な地形のため東海道線が北に大きく迂回するルートを取ったこともあり、往来はある程度残った。また途中の新田集落と三島町間の輸送は変わらず存在したため、近代化に伴う全体的な輸送量の増加と相まって経営上はそこまで問題にはならなかったようである。

しかし鉄道とともに近代化が全国に広がってくると、牛車そのものが時代遅れになっていった。耐荷重性能の低い木製の車輪に走行抵抗の大きい車石では、近代的な輸送効率を実現できなかった。そうした状況下で一大転換を成し遂げた“中興の祖”が、のちに初代社長に就任する梅本洋吉である。彼は1856年に西坂牛車の途中駅でもある笹原集落の農家に生まれ、江戸の商店に丁稚奉公に出ている最中に明治維新を迎えた。そのまま東京で実業家になった彼は近代化を間近で体験し、その中で鉄道、馬車、そして1882年に開業した東京馬車鉄道を目の当たりにした。そのときの様子を彼はこう書き残している。「馬車鉄道を目にした人々は皆驚き、私もその一人であったが、しかし私の驚愕は市井の人々とは異なるものであった。それはこの新時代の乗り物が、私の郷里を走るあの西坂牛車ときわめて近似していることへの驚きであった」―洋吉の目には、西洋から取り入れられた新しい交通機関である馬車鉄道が、60年以上前の江戸時代から走っている西坂牛車と重なって見えた。そしてその数年後、その西坂牛車が近代化に立ち遅れていることを耳にした洋吉は、郷里に戻り西坂牛車の再興―すなわち軌道への改築を目指す。1887年に東京を離れ三島に居を構えた洋吉は西坂車組に迎え入れられ、近代化の第一歩として株式会社化を行い西坂軌道株式会社を設立、31歳の若さで社長に就任した。この西坂軌道が企業体としての現在の箱根西坂電鉄の創立となる。「故郷を救うため東京から戻って来た実業家」として好意的に受け入れられた洋吉は、車牽き達を再びまとめ上げつつ車道の鉄軌道化に着手した。幸いなことに車道はその整備過程から東海道とは別の「専用軌道」を通っていたため、車石をレールに敷き直し車両を交換すれば済む話であった。軌間は東京馬車鉄道に準じて1372mmとしたが、急勾配を鑑みて牽引動力自体は牛のままとすることとした。1889年に改築工事が完成し、西坂牛車は牛車鉄道「西坂軌道」として近代化を為した。牛車鉄道は日本初の事例であり、後の開業を含めても2例のみの珍しい存在である(1893年に同じく連続急勾配のある日光に古河鉱業が敷設、1910年に路面電車転換により廃止)。

牛車鉄道化に際して旅客営業を本格的に開始した西坂軌道は箱根峠の足として、ならびに三島町の郊外輸送として牛車時代から引き続き利用されたが、1910年頃になると鉄道は電車の時代が到来する。ちょうど箱根峠の反対側にある小田原電気鉄道が1900年に市内軌道を馬車から電車に切り替え、これ以降各地で馬車鉄道からの電化が進む。西坂軌道は車道の時点で牛が牽引するため路線の勾配をできるだけ緩く取られており、電化自体は技術的に可能であった。他の馬車鉄道と同様に牛の糞害や飼育コストに頭を悩ませていた西坂軌道は電化の方針を決定したが、しかしそのために必要な電力設備へ投資する資金は手元に無く、増資の必要があった。

そうした折に西坂軌道に目を付けたのが、後の西武グループの観光開発を主導する箱根土地株式会社である。1920年に設立された同社は箱根地区の大々的な開発を推進すべく同地での投資や買収を進めていたが、その際に駿豆鉄道(現在の伊豆箱根鉄道駿豆線)とともに着目されたのが西坂軌道であった。貧弱な牛車鉄道であるものの、電車化すれば箱根町と西伊豆を結び箱根登山鉄道と対を為す観光ルートになり得るというポテンシャルを見出された西坂軌道は、1925年に箱根土地の経営傘下に入り、その資本の下で電化が行われることとなった。1928年に電化工事が完成し、社名を箱根西坂電鉄と改称した。三島町側の起点(牛車時代の三島駅、軌道化の際に川原ヶ谷駅に改称)では鉄道との接続が無く乗合バスで東海道線初代三島駅(現;御殿場線下土狩駅)と接続していたが、既に東海道線の丹那トンネル新線への付け替えと三島駅新駅の開設が決まっておりそれを見越しての投資であった。1934年、その新線が開業するのに合わせて東海道線新線と並走して三島駅新駅に乗り入れ、ここに現在の箱根西坂電鉄の路線が全通した。芦ノ湖畔の箱根町と東海道線および修善寺へ通じる駿豆線と接続する三島駅を結ぶ箱根西坂電鉄は、いわゆる西武系の箱根開発において重要な位置を占めた。なお、1938年から41年にかけて付近一帯の箱根土地傘下企業である駿豆鉄道(駿豆線)、箱根遊船(芦ノ湖遊覧船)、大雄山鉄道(大雄山線)は駿豆鉄道(後の伊豆箱根鉄道)を母体に吸収されたが、箱根西坂電鉄だけは独立を貫いた。これは箱根西坂電鉄が現在に至るまで完全子会社化されることなく、西武はあくまで主要株主という形に留まったからである。むろん西武としては完全に買収する心づもりがあったが、そうさせなかったのが創業者・大石枡太郎以来資本関係のある地場の商社、大石商事であった。現在の旗艦事業である中規模スーパーの展開はまだ先の時代だが、この頃は三島本店のデパート化と沼津、静岡への支店進出を実現しており、県下の有力企業であると言えた。大石商事は共通する創業者への敬意からかあるいは企業としての将来性からか、経営に口出ししない代わりに保有する箱根西坂電鉄の株式を手放すこともしないとし、西武側も静岡の地場商社ごと買収してまで箱根西坂電鉄を吸収する必要性を感じなかったためそれを了承した。そうした経緯により、箱根西坂電鉄は現在も西武グループの傘下ながら独立を維持している。

戦後まもなく東急と西武の間で箱根山戦争、伊豆戦争が勃発する。当然箱根西坂電鉄もその戦場となったが、ここで敢えて子細に語ることでもあるまい。ただ結果として投資が進んだのは事実であり、1953年に電車の2両編成運転が開始されるなど鉄道設備の整備が進んだ。ただし旅客需要の増大の一方でモータリゼーションの進行に伴い牛車時代に主役だった貨物輸送は減少、1969年に貨物営業を終了している。観光開発が一段落すると、箱根西坂電鉄は東京から見て反対側にあることや西武系自体が箱根観光の実情においては“敗戦”したことなどから東側ほどの盛り上がりは生じなかったが、箱根と西伊豆を結ぶ路線として観光利用が定着した。1980年代には沿線でも宅地開発が進行し、三島市郊外の通勤通学路線という性格も帯びるようになる。バブルとその崩壊、また2005年には西武グループ再編などを経つつも、大きな変化のない事業を続け現在に至る。近年の動きとしては、2015年には路線の中腹に新たな観光施設「三島スカイウォーク」がオープン、線路に隣接する好立地であることから新駅スカイガーデン駅を開業し、新たな需要を取り込んでいる。また2019年には貨客混載輸送の実証実験として沿線で収穫された農作物を箱根町や三島に電車で輸送する事業を始め、見方によっては「農産物の沿線集落から三島への輸送」という牛車時代の再来とも言える取り組みが行われている。


…以上が箱根西坂電鉄の歴史である。西武の傘下に入って以降の出来事は西武の歴史になってしまうので割愛した部分があるが、それでも200年の歴史の長さと重さを感じ入る内容だったのではなかろうか。江戸期からのわが国の交通史をなぞるかのような沿革、それでいて確かに牛車から数えて「創業200年」の言葉に偽りなしと言える興味深い歴史であると言えよう。川原ヶ谷駅に車庫と本社、そして0キロポストがある理由も、読者の皆様ならもうお分かりだろう、この地こそが西坂車組が「三島駅」として1822年に路線の起点を置いた、いわば創業の地というわけだ。

西坂電車資料館の展示に満足した私は、お土産にこの度の200周年に際して発刊された簡易版社史とも言える「箱根西坂電鉄の200年・牛車から電車へ」を2000円で購入し、ホームに戻った。駅に隣接する小さな車庫が見えるが、ちょうどその位置こそがかつての牛小屋だったと言う。思えば思うほど牛車から電車へ、形をそのまま踏襲しながら転身しているのが面白い。まもなくやって来た箱根町行きの電車に乗り込み、唸るモーターを聞きながら車窓を眺めると、確かにまだ麓なのに大げさなほどカーブを描き距離を稼いでいる。こうした線形もまた“牛”由来というわけだ。過去と今の結び付きを目の当たりにして思わず笑みを浮かべた私を乗せ、電車は“車道”そのままの線形で箱根峠を登り始めた。

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