ep5.檸檬飴①

「織部」

 突然、背後から名前を呼ばれた。僕はそれにさっと警戒の色を滲ませる。いつもの聞き慣れた声ではなかったからだ。もっとがさがさとしていて、野太い声だった。

 振り返ると、硬そうな髪を短く刈った男子生徒と目が合った。佐宗さそうだ。

「ああ、」

 僕は返事をしたつもりだったが、実際に喉の奥から絞りだされたのは呻きにも似たごく小さな声だった。その瞬間、佐宗はぎゅっと両目に力を込めて鼻の頭に皺を寄せ、何か特別渋いものでも食べたかのような表情になった。

 目の前の僕が今何かを喋ったような気がするが確証が持てない、といったふうだった。もしかすると自分の空耳だったと思ったかもしれない。

 僕はそれきり口をつぐんで、次に佐宗から何か話しだすのを黙して待った。

 佐宗とは、登校したときに下駄箱で逢えば短い挨拶を交わす程度の間柄だった。それも毎度きちんと挨拶するわけでもなく、気が向いたときに向こうから声をかけられるくらいのものだった。もちろん僕から積極的に声をかけることはない。

 その挨拶にしてみても、「おう」とか「ああ」とかいう唸り声みたいなもので、会話とも呼べない。もしかするとそれは僕の勘違いでもともと挨拶ですらなく、たまたま道端で出し抜けに野生動物に遭遇したときに思わず声が出る感じと近いのかもしれなかった。

 周囲で楽しげに肩を叩き合ったりなどしながら交わされる、昨日観たテレビ番組の感想だとか、宿題の出来やテスト結果の予想だとかいう立派な会話と比べるとあまりに侘しい。

 だから今回も僕は、佐宗に何を話すべきなのかわからなかった。佐宗が本当に僕に声をかけてきたのかすら疑わしい。挨拶すらただの唸り声でしかないのに。

 名前を呼ばれたように思ったのは、聞き間違いだったろうか。ただ、佐宗の視線は先ほどからずっと僕に向けられている。

 以前の僕であれば、もっと露骨に迷惑そうな態度をとったと思う。最近は少し周囲に対して当たりが柔らかくなったという自覚はある。

 それでもやはり僕と二人きりというのは話しづらいものなのだろう。自分から声をかけてきておきながら、佐宗はずいぶんと居心地が悪そうに足をそわそわさせている。

 何か用事があって僕に声をかけてきたわけではないのだろうか。やはり僕の勘違いだったのかもしれない。

「あー、その、高森は……?」

 そう思ったところで、佐宗が後頭部に手をやって短い髪をがしがしと掻きながらそう訊ねてきた。どうやら用事があったのは僕ではなく高森だったらしい。

 それにしても、なぜ高森の所在を僕に訊ねてくるのか。僕が高森の居所を把握していると思われているのだろうが、僕と高森を密接に結びつけたその扱いには若干の不満を覚える。

 とはいえ高森が現在どこにいるのか、僕が知っているのもまた事実なのだった。さっきトイレに立ったのだ。だから待っていればじきに戻ってくるはずだった。

「織部?」

 僕が佐宗にそう説明をしようと口を開いたところで、背後から今度はよく耳慣れた声が聞こえてきた。全体的に引っかかりがなく、まろみのある声だ。それに思わずほっとしてしまう。僕は声のしたほうに視線を向けた。予想どおり、薄緑色の瞳が僕を見ていた。

 高森はそれからゆっくりと佐宗に視線を移した。小首を傾げて何度か小さく瞬きをする。少し席をはずしたあいだにできあがった、僕と佐宗が向かい合って一緒にいるというこの状況が何なのか理解できないのだろう。僕もわからない。

「佐宗。どうかしたの」

「探してたんだ、高森」

 用向きを訊ねる高森に、佐宗が食いぎみにそう声をかける。あきらかに助かった、という雰囲気を醸しだしていた。僕と二人でいたさっきまでとはあからさまに態度も声のトーンも違う。僕と二人きりという重苦しい空気にいいかげん耐えきれなくなっていたのだろう。

 高森は僕と違って誰とでも友好的に接している。当然、佐宗ともそれなりに話をしたことがあるのだろう。高森しか話す相手のいない僕とは違う。

「それから、織部も」

 無関係の僕はこの場から退散しようかと思ったのだが、踵を返しかけたところで続けて佐宗にそう言われて足が止まる。何だ、やっぱり僕にも用事があるのか? 用があるのは高森一人だけではないのだろうか。

 佐宗は怪訝そうにする僕たち二人の顔をゆっくりと交互に見た。

「今日ってさ、放課後何か用事あるか?」

「今日?」

 例に違わず、高森は僕の家に来るつもりでいるだろう。毎度のことなので、言われずとも僕はもうその認識だった。ただそれはどうしてもはずせない用事というわけでもない。場合によっては佐宗の誘いを優先するかもしれない。いずれにせよ高森しだいだ。僕はどちらでもかまわない。

 高森の意向を探ろうと僕がちらりと目配せを送っていると、佐宗がまた後頭部をがしがしと掻いた。

「いや、単刀直入に言うけど。お前らって部活入ってなかったよな? 実は先輩に、入部希望者がいないか声かけてくれって言われててさ」

 僕たちに声をかけてきたわけをそう説明する。

 確かに僕も高森も部活動には所属していない。高森はどうだか知らないが、僕はもともと何か部活に入部するつもりなど微塵もなかった。このまま三年間、帰宅部を貫くつもりだ。

 ただ入学してからそこそこ経った今、まだ入部希望者を探しているとは思わなかった。佐宗はサッカー部だ。いや、野球部だったろうか。とにかくスポーツの部活で、それは僕からは最も縁遠い。

 仮にどうしても部活動に所属しなければならなかったとして、僕は迷わず文化部を選ぶ。美術部とか一人で黙々と作業ができてよさそうだな。絵心はないが。

 体を動かす部活動は最初から僕の選択肢にはない。何時間もあちこち駆けずりまわるなんて言語道断だ。想像しただけでげんなりする。なぜ好き好んでそんなことをする必要があるのか。運動部に所属する大半は僕にとってマゾにしか見えない。

 佐宗だって僕がスポーツ向きであるとは微塵も思わないだろうに、こうして声をかけてくるのが疑問だった。手当たり次第なのだろうか。佐宗の部活の先輩とやらはそれほどまでに峻厳な人物なのか。それが運動部所以なのだとしたら、僕はますます遠慮願いたい。

 高森は僕に比べれば運動はそつなくこなす。

 それにしたって突出してスポーツが得意というわけではない。至って平均といったところだろう。体格が恵まれているというふうでもなくどちらかといえば細身だし、手足は長いが身長はそこまで高くはない。百七十センチ前後の僕とさほど変わらない程度だ。

「佐宗のとこ、そんな新入部員に困ってるようには見えないけど」

 高森も僕と同じように疑問に思ったのだろう。そう佐宗に問い返す。

「まあ、それはそのとおりなんだけど」

 佐宗は少し苦笑した。

「勧誘熱心な先輩がいてさ。ゴールデンウィーク明けてから、顔出す部員が少し減ったせいもあると思うんだけど。その先輩に、誰か入部希望者はいないかって、部活行くと毎日訊かれて。入部はしなくてもいいからさ。先輩の手前、見学だけでもしてってくれないか。そしたら先輩も少しは納得すると思うんだ」

 拝むように両手を合わせる。合わせた両手の隙間からちらりと僕たち二人のほうを窺い見た。

 佐宗はまさに恵体だった。身長はゆうに百八十センチを超えていて、背中や腕まわりにはがっしりとした固そうな筋肉が盛り上がっているのが制服の上からでもよくわかった。

 僕たちと目線を合わせるためにその長身を折りたたみ、ひどく背中をまるめた前屈みの姿勢になっていた。そのしぐさが髪を短く刈り上げたスポーツマン然とした風貌と少し不釣り合いで、おかしみを誘う。

 僕たちがうんと言うまで佐宗は梃子でも動かず、ずっとその姿勢を保って僕たち二人を拝み続けていそうな、そんな雰囲気があった。

 僕は理解した。

 僕と高森は、部活動に所属していない数少ないクラスメイトであったがために白羽の矢が立ったのだ。

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