ep3.ポークジンジャー③
食事を終えるころには高森と母親はだいぶ打ち解けていた。食後の緑茶を飲みながら母親と談笑する高森はもうずいぶんとリラックスしていて、ふだんどおりの調子だった。適応力が高い。
高森は僕と一緒にキッチンに立つと、食器の後片づけを手伝った。
「ゆっくりしてて大丈夫なのに」
「いえ。ご馳走になったので」
僕が洗い上げた皿を布巾で拭いていく高森に母親が声をかけたが、高森はそう言って首を振った。あきれるほどしっかりしている。
食器類を洗い終え、炊飯器の内釜を洗う。今日はいつもより多めにご飯を炊いたのだと母親が言っていたが、きれいに食べきって残らなかった。一人人数が増えるだけでこうも違うのだ。テーブルを拭いた台ふきんを洗って絞り、広げてシンクの傍に置く。
「それじゃあ、そろそろお暇します」
後片づけがすっかり終わると、高森はソファに置いてあった通学鞄を手に持った。母親に向かって深々と頭を下げる。
「今日は本当にご馳走さまでした。すっかり長居してしまって」
「いえいえ、こちらこそありがとうね。楽しかった。よかったら、また遠慮なくいつでも遊びに来て」
「はい。ありがとうございます」
高森はもう一度頭を下げた。僕は二人のやりとりを無言で見つめていた。まあ、誘わずとも高森は来週の月曜日になればどうせまた来るだろう。
僕は高森を駅まで送っていくことになった。
三和土で靴を履いている高森を玄関先で見送ろうとしていると、傍に母親がやってきた。そうしてまた何やらにやついた顔で、途中まで一緒に行ってくればいいのではないかと提案してきたのだった。
徒歩で帰れる距離なこともあって、高森は最初その提案を固辞した。僕もわざわざ高森を送っていく必要性を感じなかったのだが、「お互いまだ話し足りないこともあるんじゃないの」と母親は言った。お互い、と口にしながらなぜか視線は僕のほうを向いていた。
僕が素直に母親の提案に従うことにしたのは、少し外の空気を吸いたい気分だったからだ。どうせ家にいても部屋で本を読むか宿題の残りをするかくらいだったし、その宿題にしてみてももうあらかたは済んでいる。
「いいの?」
靴を履く僕に、高森がそう声をかけてくる。
「まあ、気分転換にもなるだろうから」
そう答えると、高森は納得した様子でそれ以上はもう何も言わなかった。僕が靴を履いているあいだに母親は一度リビングへ消え、それから大量のお菓子を持って戻ってきた。戸棚にしまってあったものだろう。
「これ、お土産」
高森が肩にかけている通学鞄の口を開け、持ってきた大量のお菓子をぎゅうぎゅうと詰めこむ。瞬く間に鞄がぱんぱんに膨れあがる。まるでお菓子の詰め放題を見ているかのようだ。
「ありがとうございます」高森は頻りと恐縮していた。
上機嫌な母親に見送られて、僕たちは夜の住宅街に出た。あたりはすっかり陽が落ちている。さすがに昼間と比べると少し肌寒いが、上着が必要なほどではない。春の陽気だった。玄関のドアが閉まる直前、高森は母親に向かってもう一度ぺこりと頭を下げた。
伸びをして夜空を見上げる。今日は雲もなく、星がよく見えた。
駅に向かって高森と並んで歩く。
高森の家は駅を挟んで反対側のマンションが林立した地区だ。そのマンションのひとつに高森は住んでいる。駅からは徒歩で十五分くらいだと、歩きながら高森は話した。
マンションの名前を訊ねると、何ちゃらレジデンスだかハウスだか洒落た感じの横文字を答えたが、それがどのマンションであるのかは僕にはわからなかった。あのあたりは似たような外観のマンションが多く、記憶とすぐに結びつかない。
「煉瓦色っぽい外壁のやつだよ」
「そんなのいっぱいあるだろう」
「まあ、それはそうなんだけど」
高森はポケットからスマホを取りだすと画像検索をして、表示されたマンションの写真を僕に見せた。見たことはあると思う。
「ここの六階」
「ふうん。高層階じゃないんだな」
「お母さんがあんまり高いのは苦手みたいで。それにもともと、おれのところのマンションは十五階までしかないから。織部、高いところ好きなの?」
「僕はずっと一軒家だからな。マンションにはちょっと憧れる。四十階くらいに住んでみたい」
一軒家はマンションに比べて部屋数が多く空間も広いので、一人でいると家のなかの静寂がよけいに際立つ。マンションのようにどこかの部屋の生活音が近くから漏れてくることもなく、一人きりなのだということをことさら痛感する瞬間があった。過去形なのは、最近は高森がいるため一人の時間が減ったからだ。
「へえ」
「ばかにしてるのか?」
「……何でそうなるんだよ。そんなことひと言も言ってないだろ。ただ相槌打っただけなのに。織部って、ポジティブなんだかネガティブなんだかときどきよくわからないよね」
僕は高森めがけて肘を突きだしたが、高森はすんでのところでそれを躱した。
「織部の暴力は、少し学習した」
得意げに笑う。僕は学習されたことが少し癪だ。高森のくせに。少し歩調を速めると、高森が慌ててあとをついてくる。
「食べる?」
がさがさと鞄を漁って飴玉の包みを取りだし、機嫌を取るように僕に渡してくる。包装紙を剥いてぽんと口に放った。酸っぱい。檸檬味の飴だった。舐めながら舌先で球体を左右に移動させると、歯に当たって口のなかでカラコロと音が鳴る。高森も飴玉の包みをひとつ開いて口に含んだ。
「これ、もともと僕んちのお菓子だろ」
「うん。織部のお母さんに貰ったやつ」
「まったく、調子いいんだからな。母さんは」
あきれて吐いた息から檸檬のにおいがする。
「気のいいお母さんじゃないか」
「お節介が過ぎるんだ。何にでも首を突っこみたがる」
「でも織部のお母さん、おれのことあんまり訊いてこなかったな。どこに住んでるのかとか、そういうのは訊かれたけど」
おれのこと。高森の言うそれがどういう意味合いを含むのかはわかるつもりだ。
僕は口のなかの飴玉を少し噛んだ。表面が割れて、ざらりとした感触を舌に感じる。そのまま破片を飲みこんだ。喉元がちくちくする。
「僕に友達がいたことのほうが衝撃だったんだろ。それに母さん、高森のこと気に入ったみたいだった」
帰りぎわのお菓子責めを見ればあきらかだ。おかげで家のお菓子のストックが著しく減った。
「……返そうか?」
ぱんぱんになった鞄に視線を落として高森が言う。僕は首を振った。
「別にいい。一度あげたんだからそれはもう高森のものだろう。それに母さんが高森にあげたくてあげたんだから、それは素直に受け取っておけよ」
お菓子はまた買えばいい。高森はこくりと頷いた。
「友達審査に無事合格したみたいでよかった」
「何だ、それ。大仰だな」
僕は少し笑って、横を歩く高森をちらりと見た。高森は笑わなかった。視線を前に向けたまま、何ごとか考えるそぶりをしていた。街灯の薄暗い明かりのなかで、その表情は少し読み取りにくい。
しばらくそのまま、黙々と歩いた。僕と高森の二人分の足音が夜道に響いている。すれ違う人はあまりいなかった。
高森は数回口を開きかけ、そのたびにまた逡巡して引き結んだ。僕に何かを話そうとして迷っているのだろう。僕はただ高森が話しだすのを待った。
「中学のころは、」ようやく口を開く。
その先を少し言い淀み、すぐにもう一度喋りだした。決心が鈍る前にすべてを吐きだしてしまおうとでもいうように。
「……中学のころは、そういうのにあまり恵まれなかったんだ」
交友関係、ということだろう。ほんの少しだけ意外に思う。高森は要領がいいし、高校のクラスでは誰とでもそつなく接している。誰かと衝突するようには見えなかった。高森に問題があるようには思わない。
高森はこちらを向き、少し濡れた瞳で僕を見た。薄緑色の、僕にとってはもうずいぶんと見慣れた瞳だ。くしゃりと顔をゆがめる。口元がぴくりと引き攣った。笑おうとしたのかもしれない。
「異物を絶対に認めたがらないやつもいるんだよ」
「へえ、」がりっと口のなかの飴玉を歯で砕く。「くだらないな」
高森は一瞬虚を突かれたような顔になった。それからぱっと俯く。やがて小刻みに肩を震わせはじめた。泣いているのかと思いあせったが、違う。俯かせて影になった口元から、くつくつと押し殺したような声が漏れてくる。今度こそ笑っているのだった。
しばらくのあいだ、高森はそうやって声を押し殺して笑っていた。少し苦しそうに咳き込み、脇腹を押さえる。やがて笑い疲れたのか顔を上向け、はーっと長く息を吐いた。それから
僕のほうを見てふわりと目を細める。
「おれ、織部のそういうところ好き」
「お前の好きの基準はよくわからない」
「いいよ、それでも」
高森は満足そうにしている。さっきの答えの何がそんなに気に入ったのかはわからないが、高森がいいと言うのならいいか、と思う。
そもそも僕は家に友達を連れてきた経験が皆無だったので、母親は僕に友達がいたという事実だけで小躍りしていた。仮に母親のなかで高森の言うような審査があったとしても、ハードルは
「どちらかというと僕が高森の親の友達審査に落ちそうだけどな」
「織部は大丈夫だよ」
「何を根拠に」
「根拠はないけど」
「適当だな」
僕のぼやきは夜の闇に溶けた。
審査に落ちたとしても高森との付き合いは切れないだろうし、今のところ切るつもりもないのだが、わざわざ口にするのも何だか癪なので黙っておく。
やがて前方が目に見えて明るくなってきて、駅に着いたことに気がついた。住宅街と比べて一気に賑やかな空気になる。つい話に夢中になってしまった。何だか駅までの道のりがいつもより早く感じた。
駅にはこれから帰宅するのだろう人たちが多く行き交って混雑していた。ちょうど電車が駅に到着し、改札からたくさんの人が吐き出されてくる。僕たちはその人の波を避けるように縫って歩き、駅のなかほどの柱の前にたどり着くとそこでいったん立ち止まった。
僕たちはしばらく向かい合って俯き、何も話さずにぼうっとしていた。別れがたいというほどでもないのだが、何となくどちらからもそれを切りださなかった。
やがて高森から顔を上げた。その気配を感じて僕も倣うように高森の顔を見る。駅の明かりにくっきりと照らされた高森には、先ほど薄暗い夜道を歩いていたときのような憂いを孕んだ雰囲気はどこにもなかった。いつも学校で逢っているときと同じような、飄々とした、どこか掴みどころのない感じがした。
「今日はご馳走さま」
「ああ」
「生姜焼きおいしかった」
「ああ」
「じゃあ、また月曜日に」
少し名残惜しそうにそう続けて、ひらひらと手を振った。僕も小さく手を振り返す。
「ああ。じゃあな」
高森は頷くとくるりと僕に背を向けて歩きだした。途中で一度振り返り、僕がまだそこにいることを認めると嬉しそうにもう一度手を振ってきた。僕ももう一度手を振り返す。高森は駅を抜けると左に曲がり、やがてその姿は見えなくなった。
僕は高森の姿が見えなくなってからもしばらくそこに立っていた。じゅうぶんに間を置いてから、大きく息を吸って吐き、くるりと
来た道をなぞって歩きながら、少し感傷的な気分になる。胸のなかを何だかいろいろな感情が渦巻いていて、整理するのに少し時間を要しそうだった。ただ高森と一緒に夕飯を食べて少し会話をしただけだというのに、なぜこんな気持ちになっているのかまるでわからない。高森の存在が、僕のなかに何か細い傷跡を刻んでいくかのようだ。
夜空を見上げる。星がきれいだなと思う。それから、あいつ最後ポークジンジャーって言わなかったな、とも思った。
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