グラスフィッシュ

老野雨

―春―

ep1.グラスフィッシュ

 昨日、ミンシアがあいつに食われた。僕は夜中、喉が渇いてキッチンに水を飲みにきてその光景を目撃した。あいつの口から半分だけはみだした状態のミンシアは完全に事切れていて、もうぴくりとも動かなかった。


     *


 休み時間に本を読んでいると、急に視界にさっと影がさした。誰かが僕の席のすぐ隣に立ったのだ。制服のブレザーの灰色が視界の隅にちらついている。珍しいこともあるものだなと思って顔を上げると、薄緑色の瞳と視線が合った。高森たかもりだ。

「それ、」

 僕が口を開くよりも先に、高森は僕が読んでいる本を指差す。細長い指だった。

「エロいやつ?」

 こいつ何言ってんだ。

 それが僕の率直な感想だった。答えるのもばかばかしくて僕は無視を決めこんだが、高森は意に介した様子もなく先ほどと同じ調子でごていねいにもう一度同じ言葉を繰り返した。僕が聞こえなかったとでも思ったのかもしれない。もちろんしっかりと聞こえたし、聞こえたうえで無視をしているのだが。

「答えられないっていうことは、やっぱりエロいやつなんだな」

 挙げ句の果てにはそう言って勝手に納得しはじめる。

「違うけど」

 しかたなくそう答える。

 本を置いて高森の顔を見上げると、僕の目を見返してふっと薄く笑った。何だか小馬鹿にされているようで、ずいぶんな態度だなと思う。

 高森とは、今までほとんど話をしたことがなかった。それは高森に限った話ではない。もともと僕は、クラスに親しい友人はいない。

 高校に入学してすぐのころは、僕に話しかけてくるクラスメイトもそれなりに何人かいた。しかしそれも数日が経つと、積極的に僕に関わろうとするやつは一人もいなくなった。僕の要領を得ない受け答えが、彼らとのあいだにだんだんと距離を生んでいったのだろう。それからは話す相手もいないので、休み時間はひたすら本を読んで過ごすようになった。そのうちに、どうやら僕はクラスに一人くらいは必ずいる「一人でいたいやつ」に認定されたようだ。僕は昔からそうだ。でも、それでよかった。

 気を遣って続ける交友関係は煩わしい。それならば一人で本を読んでいるほうがずっと楽だった。本は好きだ。現実ではない、どこか違う世界に没頭できる。

「何だ、違うんだ」

 高森はいかにも当てがはずれたといった様子で呟いた。

「休み時間のたびに鞄から本を引っ張りだしてきて小難しい顔して読んでるから、何読んでるのかずっと気になってたんだ。絶対にエロいやつだと思ったんだけどな。活字なら、バレにくいし」

 高森は一人で滔々と喋り続ける。心做しかさっきよりもこちら側に身を乗りだしてきている気がする。距離が近い。この期に及んでまだ僕に話しかけようとするやつがいるとは思わなかった。

 人をばかにするのにもほどがある。どうせ高森は、僕のことをからかって面白がってやろうという魂胆に違いないのだ。だいたい何だ、エロいやつって。

「うるさいな。向こうへ行けよ」

 話しかけられるのは迷惑であるとたっぷりと態度に滲ませて、僕は高森を睨みつけた。意外にも高森がそれ以上突っかかってくることはなかった。口をつぐんでじっと僕の目を見つめたあと、しかたないというように小さく肩をすくめてすんなりと僕の傍を離れていった。

 そのときは。



 軽くあしらったにもかかわらず、それからも高森は何かと僕にちょっかいをかけてきた。

 本を読んでいれば毎度お決まりのように「エロいやつ?」と訊いてくるし、教室から離れた場所で昼食をとっていればどこから嗅ぎつけるのかしょっちゅう隣にやってくる。高森を避けて毎日場所を変えているというのに、だ。気がつくといつの間にか僕の隣に座っておいしそうに購買のパンなどを頬張っているので実に腹立たしい。文句を言えば、「ちょうど偶然ここで食べたい気分だったんだ」などと見え透いた嘘をいけしゃあしゃあとつくのだった。こうも毎日まいにち気分が被ってたまるか。それはもはや偶然とは呼ばない。

 そんなことが、何日も何日も続いた。しだいに僕も疲労を覚えてげっそりとしてくる。何なんだ、高森のこの不屈の精神は。

「おれ、織部おりべと仲よくなりたいんだ」

 その日何度目になるかわからない苦情を僕が述べると、高森は真剣そうにじっと僕の目を見つめてそう言った。僕は下唇を突きだして仏頂面をつくり、その瞳をじっと見返す。薄緑色をした、色素の薄い瞳だ。ふんと鼻を鳴らした。

「見た目がそんなで浮いてるから、同じように一人でいる僕に親近感でも覚えてるのか」

「うん、そんなところ。興味があるんだ」

 皮肉のつもりで言ったのに、高森は見事な笑みでそう返してきた。通じていないのではない、わかっていて受け流しているのだ。きっと今までにも同じようなことを何度も言われてきて、身につけた処世術なのだろう。

 急に強く吹いた風が高森の亜麻色の髪をふわりと揺らした。今日は購買で買ったパンを屋上で食べていた。

 高森はハーフだった。

 母親がドイツ人だとかいう噂だ。特別親しい人間のいない僕の耳にも届くのだから、噂は相当の興味を持って囁かれているのだろう。亜麻色の髪に薄緑色の瞳は黒々とした頭が並ぶ高校の入学式でひときわ目を惹いた。異国の血のほうが色濃く出ているのだろう。もちろん生徒のなかには自主的に頭髪を明るく染めているものもいくぶんかいるにはいたが、高森のそれとはやはり決定的に何かが違った。

「仲間意識なんか持たれても迷惑だ」

「仲間意識っていうほどのものでもないんだけど」

 高森は少し考えこむようにした。小首を傾げると、亜麻色の髪が陽の光に透けてきらきらと光る。

「でも、似たようなものだろう」

「織部とずっと話してみたいと思ってたのは確かだよ」

「だから、別に何も好き好んでわざわざ僕と話す必要もないだろう。クラスのほかの連中と仲よくしてたらいいじゃないか」

 高森は僕と違ってクラスにまったく馴染んでいないわけではない。それなりに誰とでも話をする。何でもそつなくこなすタイプのように見える。僕とは違う。

 ただそれでも、ほんの少し噛み合わないひずみのようなものが存在するのは確かだろう。ふとした瞬間に相手から醸しだされる、よそゆきみたいな、お客さんに対するみたいな、そんな雰囲気。交わりきれていないという意味では、やはり僕と高森は同じなのかもしれない。

「ほかの連中じゃなくて、おれは、織部がいいんだ」

 きっぱりと、高森は言う。僕は言葉に詰まる。何だかほんの少し絆されそうになってきて、慌ててかぶりを振る。

 いくら僕と高森の境遇が似ているように思うからといって、そんなものはしょせん錯覚だ。それは僕らが馴れ合う理由にはならない。ならないのだ。絶対に。


     *


 今度はキャロリーナがあいつに食われた。今回は食われたところは目撃しなかった。ただいつの間にかキャロリーナの姿は跡形もなかったし、それであればあいつに食われた以外にはあり得なかった。


     *


 学校から一度帰宅して私服に着替えると、僕はその足でペットショップへ向かった。

 ペットショップは近所にあるショッピングモールの一角に入っている。モールは小規模でペットショップのスペースもこぢんまりとしたものだが、品揃えは悪くないし、生体の世話もよく行き届いている印象だ。何かと重宝している。駅向こうに行けばもっと大規模のモールもあるのだが、僕はあまり利用したことがない。

 僕はたびたびこのペットショップへ通うので、店員とも顔馴染みだった。とはいえ世間話をするような間柄ではない。飼育の話もほとんどしない。僕の「他人との徹底的な没交渉」は学校の外でも遺憾なく発揮された。きっと店員は僕をときどきやってきてはネオンテトラを一匹購入していく客だと認識しているはずだ。今日の目的もそうだった。

 ペットショップのメインは犬猫だが、奥まったスペースでは観賞魚も扱っている。そのすぐ横の一角には少ないながらも爬虫類のケースが並べられており、そのほかにハムスターや鸚哥などの扱いもある。

 来客の大半は犬猫が目当てのため、奥のスペースは決まっていつもほとんどひと気がない。心做しか漂う雰囲気もやや寂しく感じる。

 箍がはずれたように暴れ狂うケースのなかの仔犬を愛おしげに眺める親子や、実際に抱っこしてもうメロメロになっている手遅れのお姉さんの横をすり抜けると、僕はまっすぐ熱帯魚のコーナーへと向かった。

 購入するものは決まっているので滞在時間も長くはないし、これまで誰か知り合いに出くわしたことはなかった。だから今日は、相当に運が悪かったのだと言うしかない。

「あれ、織部じゃん」

 購入する個体を決めて容器へ移してもらっているところで、唐突にそう声をかけられた。最近嫌でもよく耳にするその声の主を僕が間違えるはずもなかった。

 ……何でこんなところに高森が。

 高森は突然のことに反応できず固まっている僕の傍に、にこにことした笑みを浮かべてやってきた。

「織部の家ってこのへんだったんだ。実はおれもそうなんだ。おれは駅向こうなんだけど。それじゃあ、最寄り駅も同じだったんだな。全然知らなかった。朝、電車で逢ったこともなかったし。時間帯が違うのかな。織部、教室に来るのいつも遅めだもんな。時間ぎりぎり、」

 早速べらべらと一人で喋りはじめる。高森はまだ制服を着ていた。放課後すぐに家には帰らずに、近所をぶらぶらしていたのだろう。高森と家が近かったなんて、まったく最悪だ。

「学校終わりに織部と逢えるなんて、今日たまたまこのへん歩いててよかったな」

 高森はへらりと笑う。ちっともよくない。

 僕が幾度となく苦言を呈しても、高森の態度は相変わらずだった。「仲よくなりたい」という目的を明確に表明したぶん、以前よりも程度がひどくなったようにさえ思う。特に昼休憩のときに僕の居場所を嗅ぎつける能力は尋常ではなかった。百発百中だ。

「一人になりたいときに行く場所は、よく知ってるんだ」と高森は言った。

 店員は突然現れてべらべらと僕に話しかけてくる高森の存在を気にかけた様子もなく、淡々と自分の仕事をこなしていた。ネオンテトラの入った容器を袋に入れて僕のほうに置くと、レジを打って値段を告げた。もしかすると友人同士が偶然出くわして話に花を咲かせているとでも思われているのかもしれない。僕は高森と昵懇ではないし、かなり迷惑しているというのに。

 無視しようかとも思ったが、それが無駄に終わるだろうことはこれまでの経験でよくわかっている。それで僕はできるだけ手短に会話を済ませる方向にシフトさせた。代金を支払って店員からネオンテトラの入った容器の袋を受け取り、高森のほうを見る。

「熱帯魚を買いにきたんだ」

「見ればわかるよ」

「……このあと作業があるから、」

「おれも見に行っていい?」

 じゃあこれで、と告げる前に高森が言う。は、と呆気にとられて言葉に詰まる。それがもう失敗だった。結局僕は高森を振りきることもできず、部屋に上げることも阻止できず、高森と並んで熱帯魚を観賞する羽目になるのだった。



「親御さん留守なんだ」

 ポケットから鍵を取りだして玄関のドアを開けていると、背後から高森が暢気な口調でそう言うので張り倒したくなる。

「共働きだから」

「ふうん」

 話題を振っておきながら、ちっとも興味はなさそうだ。それ以上何か会話を発展させるでもなく、玄関に並べられた靴などをぼんやりと眺めている。

 僕は先ほど購入したネオンテトラの入った容器を持ってリビングへと向かった。高森も当然、僕のあとからついてくる。……何でこんなことに。

 熱帯魚の水槽は壁際に設置された棚の上に置かれている。そこは僕が親から与えられた趣味のスペースだった。飼育に必要な道具や餌、飼育する個体を購入するさいの費用はすべて月の小遣いから出している。値の張るものを購入したいときはさすがに小遣いでは足りないので相談するが、用途が明確であれば断られることはない。どんなにお金がかかっても、僕に趣味があることを両親は歓迎している雰囲気があった。

 棚には小ぶりの水槽がひとつと、ボトルアクアリウムが五つ並べてある。水槽にはエンゼルフィッシュとネオンテトラが一匹、ボトルアクアリウムにはネオンテトラが一匹ずつ。ボトルアクアリウムのうち右端にあるひとつが空だ。

「鞄、置かせてもらってもいい?」

 右側の空いたボトルアクアリウムに先ほど購入してきたばかりのネオンテトラを移し替えていると、高森がそう声をかけてくる。学校帰りの恰好なので鞄も持ったままなのだ。

「好きにしろよ」

 ぞんざいに言って、僕はリビングのソファを顎で示した。高森は礼を言うと、鞄をソファの隅に置いた。

「お茶なんか出さないぞ」

「うん、わかってる。さすがにおれもそこまで図々しくはないよ」

 少しは図々しい自覚があるらしい。

 高森はしばらく黙って僕の作業を眺めていた。視線が気になって作業の邪魔だが、あえて口にはしないでおく。ボトルアクアリウムに移し替え終えたネオンテトラを元のように棚の右端に置くと、高森はふうん、と呟いて小さく息を吐いた。微妙な反応だ。興味があるのかないのかよくわからない。それから水槽の傍に寄り、少し屈んでなかを覗きこんだ。

 水槽ではエンゼルフィッシュが悠々と水中を泳いでいる。縞模様はなく、金色一色の体をしたゴールデンエンゼルフィッシュという種類の個体だ。水槽の底には白い小石を敷き詰めてあり、インテリアとして割れた鉢を模した置物を入れてある。そのあいだを水草がゆらゆらと漂っている。水槽のなかの配置も僕が全部自分で考えてコーディネートしている。配置は気分によってときどき変える。

「へえ。けっこう本格的なんだな」

 感心したように高森が言う。僕はそのすぐ横に立つと、並んで水槽を覗いた。

「……そいつの名前はアリーシャだ」

「エンゼルフィッシュに名前をつけてるんだ?」

「そっちじゃなくて、」

 僕はエンゼルフィッシュから離れて水槽の上辺でひっそりと泳いでいるネオンテトラを指差した。

「こっちのエンゼルフィッシュの名前は?」

「そいつに名前はないよ」

「何で」

「何でも」

「じゃあ、何でこのアリーシャだけはエンゼルフィッシュと同じ水槽に入ってるの。ほかのやつは、みんな入れ物が分かれてるのに」

「生き餌だから」

 高森はゆっくりと僕を見た。薄緑色の瞳をすっと細める。

「へえ、ずいぶん、」ぴくりと片方の眉がつりあがる。「嗜虐的なんだな」

 そのとき自分がどんな表情をしたのかはわからない。ただ高森は「おー、怖い」とおどけた調子で言って自分の肩を抱き、ぶるりと震える真似をした。

「だってそうだろう、別に必ずしも生き餌が必要なわけじゃないのに、好んで与えているんだからさ。ごていねいに名前までつけて」

 水槽の脇には熱帯魚用のフードも置いてある。ネオンテトラのためだが、エンゼルフィッシュにもそれを与えている。高森はそれを見てそう言ったのだろう。

「息子がこんなんだって知ったら、親御さんも恐れおののくだろうな」

「気がついてなんかいやしないさ。ほとんど家にいないんだし、どうせ魚の見分けなんかつくもんか。ただ息子に欲しいものを買い与えて悦に入ってんだ」

「おれ、織部のそういうところ、嫌いじゃないな」

 高森は嬉しそうにふふんと笑った。それから水槽に視線を戻す。何でこんなことを高森に話す気になったのかはわからない。言葉はほとんど勝手にするすると僕の口から滑りでてきた。ただ、僕の話を聞いても高森の態度が変わらなかったことはほんの少し僕を心地よくさせた。

「おれ、熱帯魚ならあの魚がいいな。何だっけ。何かいるだろ、透明なやつ」

「……グラスフィッシュのことか?」

「そう、たぶんそれ。ああいうのは飼わないの」

「興味がない」

「何で」

「僕みたいだから」

 高森は怪訝そうに眉をひそめた。意味がわからないのだろう。僕も説明するつもりはない。ただ、透明でそこにいるのだかいないのだかわからないようなその魚が、僕はあまり好きではないのだ。

 だったらエンゼルフィッシュやネオンテトラ、あるいはグッピーのような、きれいで目を惹く魚のほうがよっぽどいい。

 生き餌のストックはボトルアクアリウムの数と同じく全部で五匹だ。あいつのいる水槽に入れた一匹が食われたら、順々に繰り上がっていく。フードも与えているため、あいつがいつ生き餌を食らうのかはわからない。入れてすぐに食われることもあれば、長いあいだ生き延びていることもある。キャロリーナが食われたため、アリーシャの番になった。僕は生き餌のネオンテトラすべてに名前をつけている。

「じゃあ、さっき買ってきたやつにも名前をつけるんだ。それならおれに決めさせてよ」

 高森はそう言うと僕の返事も待たずに、ソファに置いていた鞄からノートと筆記用具を取りだしてくる。ノートの端を切り、そこに迷いなくさらさらと何ごとか書きつけると、それを僕のほうに差しだした。僕はしかたなくそれを受け取った。

 総一郎。

 ノートの切れ端にはそう書いてある。

「ずいぶん古風な名前だな」

「別に名づけに縛りなんてないんだろ?」

 何だか横柄な口ぶりが気に入らないが、実際名づけに制限は設けていない。

「まあ、いいけどさ」

 それが高森の下の名前だということに気がついたのは、高森が帰宅したあとだった。



 高校に入学してすぐに、自己紹介の時間があった。お決まりのように出席番号順に席を立って名前を言っていったわけだが、高森の番になって自己紹介を聞いたとき、教室内の誰もが一瞬驚いた顔をしていたと思う。態度には出なかったが、僕も少なからず意外に思った。

 高森が自己紹介で何か特別なことを言ったわけではない。ひょうきんな生徒は自分の名前のほかに冗談なども交えて面白おかしく自分を印象づけようとしていたが、たいていはただ名前を名乗って、これからよろしくといったような当たり障りのない短い挨拶をするのみだった。もちろん僕もそうした。高森も、そうだった。

「高森総一郎です。よろしくお願いします」

 ただ、そう名乗った瞬間、教室内の空気がほんの少し変わった。もともと自己紹介がはじまる前から、自分たちの教室にがいることはみんな意識していたと思う。自分たちとは違う、亜麻色の髪と、薄緑色の瞳。

 あきらかにまわりと異なる容姿の高森は、きっと外国の名前をミドルネームにしているか、そうでなかったとしても外国で馴染みやすい音に漢字を当て嵌めたような名前なのだろうと、僕も含めて、おそらく誰もがそう思っていたことだろう。

 それがそのどちらでもなく、純日本風の少し古風な名前を名乗ったものだから、高森は何をしたわけでもないのにまわりに強烈な印象を与えたのだ。教室内の空気にわずかな漣が立って、でもそれはすぐに静まっていった。

 高森は自己紹介を終えると、すとんと自分の席に座った。まわりのわずかな漣には高森も当然気がついていただろう。だがそれを気にするそぶりはいっさい見せず、何ごともなかったかのように、ただまっすぐに凛と前を見つめていた。



 高森は、あれ以来しょっちゅう僕の家に来るようになった。名づけた魚の様子を見たい、と言われれば僕もなかなか断りにくい。断ったところで高森が簡単に引き下がるとも思えない。どうせ最寄り駅は同じなのだから、簡単に振りきることもできやしない。

 僕の両親が共働きで家にいないことも高森には好都合のようだった。「放課後の溜まり場にうってつけ」などと遠慮なく言ってのけた。

 一日の授業が終わると、高森は鞄を持っていそいそと僕の席までやってくる。

「帰ろう、織部」

 まるで一緒に帰るのが最初からずっと当たり前だったかのような口ぶりだ。この状況に文句のひとつでも言ってやりたいところなのだが、言ったところで結果は何も変わらないので、僕はしょうがなく高森と連れ立って教室を出る。

 高森はよく喋った。思いついた傍から全部口に出しているといったふうだ。僕からはほとんど喋らず、ときおり高森の話に相槌を打つ程度だが、高森はいっこうに気にした様子がなかった。

 教室内での高森は、ここまで饒舌ではない。それにもう少し人当たりがいい。他人に対してきちんと気配りができるのに、僕に対してはなぜだかまるで遠慮がない。どちらが高森の素なのだろう。

 そうこうしているうちに僕の家に着く。高森は少し後ろで、僕が玄関の鍵を開けるのをおとなしく待っている。鍵を開けて目顔で促すと、お邪魔します、といちおう断ってから玄関を上がる。それから迷いなくリビングへと向かう。もう僕の家の間取りはすっかり把握しているのだ。

「総一郎」

 棚の上のボトルアクアリウムを覗きこみ、水中を漂うネオンテトラにそう呼びかける。ネオンテトラは、当然ながら高森のことなどおかまいなしに水中をゆらゆらと泳いでいるだけだ。水のなかの自分が、外側から覗きこんでくる相手と関わりがあることなどいっさい知らないだろう。

 高森は、自分の名前のついた魚を甲斐甲斐しくせっせと世話した。餌をやり、水を替え、あとは飽きるまで眺めている。変態なんじゃないかと思う。いずれはあいつに食われる運命なのに。

「それなら織部だってど変態だろ」

「どをつけるな、どを」

「変態は認めるんだ」

 高森はくつくつと笑い、ノートに視線を落とすと数式とその解答を書いていった。伏せられたふさふさと長い睫毛は亜麻色よりもいくぶん濃く、髪の毛と同じ色ではないのだななどと思う。

 熱帯魚の世話と鑑賞を終えた僕たちは、リビングのテーブルに移動して今日出された宿題を片づけているところだった。

 僕の家に来た高森は、熱帯魚の様子を見終わってもすぐには帰らない。かといって、一緒に楽しくお喋りしたりゲームをしたりする間柄でもない。家には上げてやるが、あとは勝手にやったらいい。そう思って高森を放置して一人で宿題をしていたら、いつの間にか高森も僕の向かいに座ってノートを広げはじめたのだ。

「ねえ、この問題教えてほしいんだけど」

 教科書を僕のほうに寄せてそう話しかけてくる高森を、僕は無視した。しかし高森がそんなことでめげるはずもなかったのだ。僕のノートを塞ぐように、ずいっと教科書を押しつけてくる。

「ねえ、この問題」

 僕は無視する。

「ねえ。ねえってば」

「……ああもう、うるさいな。どれだよ」

 僕は根負けした。高森が嬉しそうに小さく笑う。結局は、高森の思いどおりだ。

 それから、熱帯魚の鑑賞を終えたあとは一緒に勉強をするのがふつうになった。高森が問題の解きかたを訊ねてくれば、しかたなく僕も答える。その合間に、ときどき無駄な話をすることもあった。

 この関係を何というのか、僕にはわからない。

 共犯者? 友達? ……まさか。

 ただこうなってみれば、僕は高森と過ごすのが案外嫌ではなかった。本人には口が裂けても言わないが。

 なぜだか高森は僕のテリトリーにすんなり馴染んでいたし、高森に対しては僕も変に気負うことがなかった。複雑なことは何も考えずに、ありのままで過ごせる。高森には不思議とそうさせる雰囲気があった。なぜだろう。高森が最初から僕に対して無遠慮だったせいだろうか。

 勉強のあとで読むつもりでテーブルの隅に置いていた文庫本に興味を示して、高森が手を伸ばした。パラパラとめくり、「何だ、本当にエロい本じゃなかったんだな」と言うその頭を、僕は渾身の力でひっぱたいた。



 高森が僕の家に来ることは、もうだいぶ当たり前の日常と化した。

 一日の授業が終わると、僕はもう高森に声をかけられるよりも前に席を立ち、並んで教室を出るようになった。

 家では飲み物くらいは出すようになっていたし、高森も宿題をしながらつまめるちょっとしたお菓子などを持ってきた。高森はそれをパーティ開けにしてテーブルの真ん中に置く。僕は今までこんなふうにお菓子を食べたことがなかったので、初めて高森がそれをしたときは内心だいぶ気分が高揚した。

「こんな開けかたして、全部食べきれなかったらどうするんだよ」

「二人で食べればすぐなくなるだろ。それとも織部って、ふだんあんまりお菓子食べないの?」

「食べるけど」

「じゃあ、大丈夫だろ」

「いつも学校に持ってきてるのか、お菓子」

「没収されない程度にね」

 高森は笑ってスナック菓子をつまみ、ぽんと口のなかに放る。袋の上で指先を軽く払った。品行方正だとばかり思っていたので、少し意外だった。やはり教室内の高森とは印象が違う。

「校則は少しずつ破るくらいがちょうどいいんだよ」

「ちょうどいいって、何が」

「健全な学校生活を送るうえで」

「何だ、それ。変なやつだな」

「そうかな。おれ、昔に比べていろいろと打たれ強くなったんだ」

「……何の話だよ」

「別に。何でもないよ」

 おかしそうにくつくつと笑う。まるで意味がわからない。まったく高森には調子を狂わされてばかりだ。

「……お前って、そんなやつだったっけ」

 思わずそう口にする。

「何が?」

「クラスにいるときの高森は、もっと真面目で人当たりのいいやつだろう」

 少なくとも、こんなふうにはしゃぎはしない。

 高森は何度か瞬きをして、少し考えるそぶりをした。

「おれ、たぶん織部の前ではグラスフィッシュなんだ」

 やがてそう口にする。僕から見れば、高森はネオンテトラやグッピーだ。意味を測りかねて黙っていると、笑いながら続けた。

「内臓も骨も全部見せてあげるよ」

「……変態だな」

「織部はど変態だろ」

「……どをつけるな」

 高森がまた笑う。



 それから数週間後のことだ。

「あ、」

 いつものようにリビングのテーブルで二人で宿題の数式を解いていると、高森がおもむろに声を上げた。視線は水槽のほうに向けられている。僕もそちらを見た。

「獰猛なんだな」

 あいつの口からネオンテトラの尻尾がはみだしているさまを眺めながら高森は呟いた。特別にショックを受けた様子もない。水槽を眺めている高森からはいっさいの感情が感じられなかった。

 あいつはゆったりと水中を漂いながら、もごもごと口を動かして徐々にネオンテトラを呑みこんでいく。僕は何度もこの光景を見たことがあったが、高森がそれを見たのは初めてだった。アリーシャはとうにあいつに食われ、ボトルアクアリウムのなかのネオンテトラはその後も順々に食われていたのだが、それは家人が寝静まった深夜や高森が帰宅したあとであることが多かった。

 僕たちが見守っているなかで、あいつは完全にネオンテトラを平らげた。それからはもう何ごともなかったかのように悠々と水中を泳いでいる。高森は無言ですっと立ち上がった。

「新しい生き餌を入れるんだろ」

 座ったままの僕が見上げると、そう確認をとってくる。僕は小さく頷いた。

「おれにやらせてよ」

 言いながらもうネオンテトラの入ったボトルアクアリウムの蓋を開けている。そのあいだも僕はずっと座ったままだった。気持ちは水槽の傍に駆け寄りたいのに、しかし僕の意思に反して体は化石したように動かなかった。

「次はお前の番だよ、総一郎」

 高森はそう言って自らの手であいつの水槽に魚を放った。



 高森がネオンテトラに総一郎と名付けたあと、僕はあいつにネオンテトラが食われても生き餌のストックを補充していなかった。何となく、そんな気分にならなかったのだ。だから総一郎は今現在最後の生き餌だった。

 僕は毎日、頻繁に総一郎の安否を確かめた。姿が見えずどきりとし、水草の陰から現れるとほっと胸を撫で下ろした。今まで何匹ものネオンテトラをあいつに食わせてきたというのに、自分でもおかしな話だとは思う。感情の整理が追いつかない。

 いっそ水槽から総一郎を救いだしてしまおうか。そんなふうに考えることもしばしばだった。でも、それは高森がゆるさなかった。

「自分のしてきたことには最後まで一貫性を持てよ」

 怒っているふうでも、あきれているふうでもない。ただしんとして冷めた声だった。僕を見る薄緑色の瞳は何の感情も示さないように見えて、実際には奥底にあらゆる感情が激しく渦巻いているように思えた。

 僕が高森のそんな目を見るのは、実はこれで二度目だ。一度目は僕に興味を持ったその真意を訊ねたときだった。つい先日のことだ。

 いつもは高森から話題を振ってくるのだが、そのときは珍しく僕のほうから話を切りだした。どうしてクラスのほかの連中じゃなくて、僕と仲よくなりたかったのか。仲間意識というほどのものではないと高森は言っていた。だから何かそれ以外の理由が高森にはあるのだと思った。

 高森は僕の質問を聞くと、思案するように持っていたシャーペンの頭を下唇に当てて、そのまま数回押しつけた。カチカチと高い音が鳴り、芯が繰りだす。それを指の腹で元のように押しこむと、ゆっくりと僕を見た。僕は少し怯んだ。静かな感情の渦巻く、射竦めるような視線だと思った。

「織部がまわりと馴染もうとしてなかったから」

 高森は静かに言った。

「……馴染んでないのが気になったなら、やっぱり仲間意識なのか」

「違うよ。馴染んでないんじゃない。馴染もうとしてなかったんだ」

「同じだろう」

「全然違うよ」

 すっと薄緑色の目を細める。

「おれ、織部に興味があったのは事実だけど、最初はそんなに好意的な感情じゃなかったんだ。むしろ否定的だった」

 それは僕にとってだいぶ衝撃的だった。別に無条件に好かれていると思っていたわけではないのだが、正反対の感情を抱かれているとまでは考えていなかった。

「おれよりもずっとアドバンテージがあるのに、自ら捨てるのは何でなんだろうって思って。おれはそれが知りたかったんだ。そういう興味だよ」

 アドバンテージ。高森はそう表現した。僕は黙って続く高森の言葉を聞く。

「別に、親とか周囲の環境を恨んだりとかそういうのはないけど。場所が変われば、立場もまた変わることもあるし。でも、もしもおれが織部の立場だったらもっとうまく立ち回ってやるのにって、そう思ったんだ」

「……そうか、」

 僕はそのとき、それしか言えなかった。自分が思っているよりもずっと、打ちのめされていたのだと思う。



 それからまもなくして、総一郎はあいつに食われた。

 僕が見つけたときにはもうほとんど呑みこまれたあとで、半透明の尻尾がわずかにあいつの口から出ているのみだった。ぴくりとも動かず、もう絶命しているのはあきらかだった。そのとき高森は席を立っていて、戻ってきて水槽の前に立ち尽くしている僕に気がつくとすべてを理解した。そっと近寄ってきて僕の背後に立った。水槽を覗きこみ、「ああ」とひと言だけ漏らした。

 僕はその声に弾かれるようにして高森のほうを振り返った。高森は少し驚いたように目を見開いた。薄緑色の瞳と視線が絡む。ひくり、と僕の喉が鳴った。

「……総一郎、総一郎が、」

 僕は多分に混乱していたのだろうと思う。今しがた死んだネオンテトラの名前をただ繰り返して、柄にもなく高森の袖に縋った。高森は戸惑った様子を見せたが、それも一瞬のことだった。

「そうおれの名前を連呼するなよ。熱烈だな。さすがに照れる」

「お前のことじゃない」

 僕は思いきり高森の手を振り払った。

「……ノリが悪いな」

 僕に払われた手をさすりながら高森が呟く。腹が立ったが、高森の態度がわざとであることは僕にだってわかっている。おかげで少し冷静さを取り戻した。

 高森は一度洟を啜り、すっかり空になったボトルアクアリウムの表面を撫でた。魚は次々と消えていったがボトルはずっとそこに置いたままだった。これで生き餌のネオンテトラはすべてあいつに食われて、もう残っているのは水槽のなかで悠々と泳いでいるあいつだけだ。

「まだ続けるの」

 高森は水槽と玄関のほうを視線だけで交互に見た。僕がまだ続けるつもりであるのならば、これから生き餌を調達しにいくのに付き合うつもりなのだろう。僕は首を振った。

「……もうやめる」

 もともと総一郎のあとを補充しなかった時点で、僕の気持ちは途切れていたのだろうと思う。だから、これがけじめだ。

 高森は頷き、テーブルに戻った。やりかけていた宿題を再開する。まるで今しがたの出来事はすべて夢だったのだとでもいうように。しかしボトルアクアリムのなかはすべてが空で、水槽ではあいつが一匹きりで泳いでいるのみだ。

 僕ものろのろとテーブルに着いた。高森に倣って宿題を進めようとしたが、何度問題文を読んでもいっこうに内容が頭に入ってこない。目が滑って何度も同じところを繰り返して読む。ひどく焦燥している。僕はゆっくりと深く息を吐いた。落ち着け。魚が死んだだけだ。魚が。死んだ。僕のせいで。今までもずっと。

「せっかくだし、エンゼルフィッシュにも名前をつければ」

 ふいに高森が言い、僕は顔を上げる。

真咲まさきとかさ」

「……僕の名前を知っていたのかよ」

「そりゃ知ってるさ。おれは最初から、織部と仲よくなりたいって言ってたじゃないか」

 僕はノートに視線を落とし、それからもう一度顔を上げてしっかりと高森を見た。泣き笑いのような顔になる。

「でもお前は、僕が赦せなかっただけだろう」

 少し声が震えた。高森は虚を突かれた表情になり、それから困ったように眉根を寄せた。

「そんなたいそうな理由じゃない。ごめん。そこまで深刻に考えなくていいよ」

「でも、」

「本当だよ。おれ、今は織部といると純粋に楽しいんだ」

 高森は笑う。その薄緑色の瞳をじっと見つめる。嘘は言っていないように思う。僕もようやく、少しだけ笑った。



 自分の名前をつけた魚がいなくなってからも高森は変わらず僕の家にやってきたし、僕も何となくそれを受け入れていた。一緒に宿題をやったり、本を読んだり、ときどきはゲームをして遊んだり、それから水槽のエンゼルフィッシュを一緒に鑑賞したりする。僕たちのあいだに共通の話題は少しずつ増え、互いのこと――例えば好きな食べ物が何かや興味のある物事についてなど――も知った。ちなみにエンゼルフィッシュには名前をつけたが、真咲ではない。

「なあ織部。英語のプリントやった? ちょっと見せてよ」

 高森が鞄から教科書とノートを取りだしてテーブルの上に広げながら言った。英語のプリントは明日が提出期限の宿題だ。

「僕に訊くのかよ」

 あきれたようにそう言うと、高森は顔を上げて僕を見た。それから何かを思案するようにゆっくりと二度ほど瞬きをした。

「見た目がこうだから、英語がペラペラだって織部も思ってる?」

 窺うようにそう切りだす。

「思ってないよ。喋れないんだろう、何を今さら」

 本当に今さらな話題だ。僕は最初から高森が英語を話せるとは思っていなかった。はっきりそうと訊いたことはなかったが、たぶん英語の成績は僕のほうがいい。高森はじっと僕を見つめ、少し唇を突きだしていかにもわざとらしい不服顔をつくった。

「喋れるよ」

「嘘つけ。見栄を張るなよ」

「堪能だよ」

 自信満々なその態度に、僕のほうが思い違いをしていたのかと急に不安になってくる。高森は一歩僕に近づき、すうっと大きく息を吸った。薄緑色の瞳がまっすぐに僕を捉える。

「I Love You」

 真顔で言った。僕は一瞬動きを止め、それから堪えきれずに少しだけ笑った。

「……ばかにしてら」

 高森もふっと微笑んで、わずかに首を傾げた。亜麻色の髪がきれいに揺れた。僕はそれをじっと見つめ、忙しなく思考を巡らせる。

 You tooとでも返せばいいのか?

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