奏とカメムシと 後編

『ひとさん! 貸し切りだった!』

「うん! 男湯も誰もいなかった!」

『寝る前にもっ回入るし、明日の朝も絶対に入るっ!』

 ドライヤーの温風を少しあてただけの髪の毛が、濡れたまま艶々している。

「いつもよりビショビショじゃない?」

『乾かしたもん。ご飯、食べに行こ!』

 時間が経つのを忘れるほど温泉を満喫してしまったが、予約した夕飯の時間には丁度いいタイミングになっていた。

『外湯巡りを切り上げたのが、功を奏しました』

「ナイス判断!」

 かがり火が灯る幽玄な中庭。

 旅館に到着した際に眺めたものとは、また違った風情がある。

 本当に雰囲気の良い旅館だと心癒されながら、食事処の個室へと到着。

 食卓には、カニ刺し、握り、カニ鍋、焼きガニ、カニ雑炊、極めつけは茹でガニが丸々一匹ドドーン!

 その他にも並びきれないほどの料理が、所狭しと並べられていた。

「うおおお! カニフルコース!!!」

『これ全部食べていいんだよね!』

「いいんだよ」

『グリーンだよーーー』

 すっかりメーターが振り切れてしまっている。

 その割に、僕を上座へとしっかり誘導するあたりは抜かりがなく、観察眼の鋭い仲居さんが入室して来たとしも、決して恥ずかしい妻には見えない。

『これ、なんだろ赤いやつ。お酒かな?』

「食前酒じゃない?」

 席に着くと、小さくて可愛らしいグラスが目に入った。赤くて透明で、アセロラドリンクのような液体が注がれている。

 早速手に取り、まずは匂いをクンクンと嗅いでみる野性的な奥様。恐る恐るペロリと毒見。そこからは一気に飲み干してしまった。

『ん! これ美味しい。お母さんにも飲ませてあげたい。ひとさん、食前酒ちょーだい』

「いいよ」

『何から食べたらいいかな』

「カニ刺し」

『それな!』

 テンション凄い・・・

 決して「美味しいものを食べさせたことがない子」なんかではない。笑。

 去年の旅行は、四国へうどん巡り。

 その時のホテルは、ビュッフェスタイルだった。その前の年はUSJのホテルへ素泊まり。夕飯は、ユニバーサルシティ内のレストランだったかな。

 毎年一泊旅行を計画するけれど、宿泊先の食事を重要視したことがなかったので、こんなにも食を満喫できる旅行は始めてだった。

『あ、外湯ん時にね、脱衣場を転がる女の子がいましてな。危ないよってお年寄りに笑われてたし、お母さんにもコラッて怒られてた』

「観光地のクリーンキャンペーンに貢献してるんだよ」

『クリーンだよーーー』

 ・・・はは。

『ひとさん、ありがと』

「ん? なにが?」

『但馬牛コースにしよって推してたから、あのままだったら、こんな美味しいカニ食べれなかったよ刺身やばいよ』

「そうでしょ」

『あ、松岡さんがねぇ。今度、ひとさんの歌を聴きたいって言ってたよ』

「え、やだよ」

『インスタ見せたんだよ。そしたら惚れるって言ってた。フォローされてるはずだよ』

「自己満足なカラオケ動画だもん」

『んなことない。ひとさんの歌には、届けたいって気持ちがちゃんと乗ってます。だから畑コンサートに来て欲しいのに』

 畑コンサート。奏の職場のオーナーが主宰するイベントで、本来は子供たちとの親睦会。最後のメインには、毎回食事を楽しみながら大人たちがライヴを始めてしまう、奏が大好きとしているイベント。

 顔を立てて、足を運ぼうかとも悩んではいるんだけどね。

「んん・・・」

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