Drž mě pevně 〜ギュってして〜

七生 雨巳

Epizoda 1 ボギティ マトゥラ  1

 

 

 

 北の隣国とチェキア王国とを隔てる雄大で険しいカパラチア・・・・・山脈から南はすでに名門プリュミスル公爵領となる。山麓に広がる牧場でゆったりと草を食む家畜を眺めながら所領の農村を抜けて平野を過ぎる。やがて現われる深い森を通るのがその居城の城下町へと続く最短ネイクラチィコースコールスである。森の先に待ち構える大河ヴァルタヴァを渡ることなど、ここを通ることに比べればなにほどのこともありはしない。名にし負う石橋は数百年の歴史を目撃しつづけてきた堅牢さを誇るものであるからだ。 

 ともあれ。 

 この森ーー正式名称があるものの、誰も口にすることはない。この地域で森と言えば、すなわちここであるからだーーの間近には村もなければ馬車宿のひとつも存在しない。 

 徒歩で約三十分ほど引き返した先の村がここから一番近い村である。集落の周囲は中世よろしく石垣で囲まれ見張りが立つほどの念の入れようであった。それほどまでに警戒する何が存在するのかと問うも愚かであろう。この地域のものには共通の憂いが存在する。憂うべき存在であり、恐怖の存在でもあるもの。 

 

 それは−−−−−−−−−。 

 

 猟師たちすらもが明るい時間にしか森に立ち入らないその理由。 

 そこに暮らす者たちが夜には村から出ないその理由。 

 城下に行くには森を通らねばならず、他の手段は一度カパラチアの麓に行き高い金を払って大河を渡り対岸へ行くほかない。旅人が奮発することはあっても、生活に密着している村人はなかなかそうはいかない。ヴァルタヴァ川の向こうとこちらとでは、確かな生活格差があるためだ。 

 日中であるならばいずれかの村で乗合馬車に乗る手もあるが、こと夕刻近くになればそれもなくなる。森を抜けた先まで通行人を誘導する灯火の点る石畳の道があるにもかかわらず−−−である。どれだけ大金を積もうが、首を縦に振るものはいない。 

 残るは、自前の馬車を自前の御者なり自身で駆るか、己で馬を使うか、徒歩で森を進むかだろう。 

 

 

 ここにひとりの旅人の姿があった。 

 

 

 深い群青色のマントパースェトは見るからに上質で、裏打ちの毛皮と合わせた襟まで、派手ではないものの趣味の良さを伺わせる。上着とズボンカロホティブーツブティまでもが黒一色で揃えられ、シャツコスィレの白とネクタイクラヴィタの緋色の対比が目に鮮やかだった。 

 彼は確たる目的のあるものの常として、脇目もふらず歩いていた。舗装されているわけでもない田舎道を淀みなく進み、目指すは件の森であるらしく見受けられる。 

 日も傾きかけた時分とて、常であれば出交わす旅人になにがしかの言葉をかける村人たちであるというのに、この時誰ひとりとして彼に注意するものはいなかった。尤も、秋も深まり冬が目前に控える時期とて周囲は閑散としている。ごくたまに擦れ違う住人も覇気薄く見える。踏み締める枯れ草や落ち葉の音がより一層のことそれを強調しているかのようだった。 

 森も間近に迫り、男は足を止めた。 

 鞣革の手袋に包まれた手を秀麗な曲線を描く顎に当てる。 

 ひょいと道脇に寄ったのは、轍を刻む音も煩い一台の馬車を避けるためだった。 

 一際痛々しい鞭の音に四頭の馬たちの嘶きも哀れに響く。 

 車輪が石畳を穿ち、ガラガラと消魂けたたましく森へと消えてゆく。 

 見送るつもりもなく、ただその黒光りのする豪華な馬車を見送った男は肩をすくめ、森の中、琥珀に輝く道へと足を踏み入れたのだった。 

 

「イグリシュ プロハーズィム ネイタムネィスィム ウドリム、ネボイム セ ザホネホ ズラ:プロトズェ イスィ セ ムノゥ;ヴァシェ ティツァ ヴァスィ ザムエストナンスィ−−−ウテスウィ ムニエ………………」 

 

 およそ数分ほど石畳を進んだ頃だろうか。 

 低く響く声だった。 

 聖句を唱え慣れた男の声が、旅人である男の耳を打った。それはどれくらい前から唱えられていたものか。 

 明らかに聖職者である証の墨染めの黒い神父服の男は左手に香炉を右手に聖水の入った容器を持ち、背後にこどもをふたり庇っている。 

 旅人である男から見えるのは、聖職者の纏うカソッククレリカの腰紐を命綱とばかりに握りしめる男女のこどもたち。そうして、彼らを餌と思い定めた大勢の、歩くボギティ マトゥラだった。 

 

 

 

 それは気まぐれだったろう。 

 歩く屍と呼ばれる化け物ネトゥーヴァに今にも食らわれそうに見える。 

 旅の男は別段、正義感が強いというわけでもない。 

 どちらかと言えば、我関せずな性格だろうと己を理解しているふしすらあった。 

 

 

 

 ラケフを破り静謐であるべき眠りを拒んだものたち。見るも無残な姿に、哀れみよりも先にくるのは、どうしようもない生理的な嫌悪である。 

 ひとつの村にひとつの教会が設けられるのは、この森を通り抜けるための命綱の管理のためである。 

 初代の公爵が決めた決まりごとは、教会が回り持ちでこの石畳の両脇に設けられた灯火の管理をするということであった。毎日の務めの内に組み込まれたこれを苦行と感じるものは多い。なんと言っても、農村に設けられた教会の規模などささやかなものであり、人員など、片手の指でも余る程度である。そのため、教会のものは、一刻もはやくここの担当から外れたいと願うのが常だった。 

 しかし、この神父は、違っていた。 

 神に奉仕する神父に似合わぬ鋭い眼差しを周囲へと向け、こどもたちを庇いながら聖句を唱えることをやめはしない。次第に掠れてゆく声に、己を叱咤する。 

 聖なる光を放つ灯火の管理に教会のこどもを連れてきたのが間違いだったと、神父は内心ひとりごちる。 

 森の恵を採取しようと併設する孤児院の年長者ふたりを連れてきたのだった。 

 聖職者としては咎められこそすれ褒められることではなかったが、腕に自信があったことが災いした。謙虚でなければならない聖職者としては、失格である。 

 それでも、最初のうちは順調だったのだ。 

 石畳から外れないように注意深くこどもたちを見守りながら、燭台の蝋燭を取り替えてゆく。公爵家から資金が与えられているからとは言え、高価な香油と香草とを教会が独自配合で練り込んだ蝋燭である。もったいないからと取り替えなければ、惨事の原因となりかねなかった。腕にぶら下げた籠の中には、新しい蝋燭と取り替えたばかりの古い蝋燭とがまだ半々の割合で入っている。 

 ほんの少しだけ、うんざりとため息を吐きそうになった時、一台の馬車がやけに急いだ風情で向かってくるのに気づいた。 

「端に寄りましょう」 

 静かにこどもたちに声をかけ、やり過ごそうと馬車に道を譲る。 

 しかし、馬の蹄か馬車の車輪が古くなった道の石を欠いたのだ。欠かれた石のかけらは跳ねられ、こどもの頬を掠めた。 

 それだけでバランスズスタテクを崩すのには充分だった。道の端に寄り過ぎていたこともあったろう。数センチメトルの段差によろめいた少女が少年の服の裾を握りしめたことで、尻餅をついた。その場所が、石畳から外れていたのだ。少年も引っ張られて道から外れた。 

 馬車は、けたたましくその場を遠ざかってゆく。 

 貴族の紋章が灯火を弾くのを目の隅に留めながら、一聖職者にすぎない男にはなにもできることはなかった。 

 しかし、そのわずかな時間馬車に気を取られたことがこの最悪の結果を招いたのだと、彼は反省する間すら与えられなかったのだ。 

 木の下闇は、夕闇迫りくるころということもあり、暗い。そこに蹲っていた存在に気付けなかった神父を、誰が責められるというのか。 

 少女の足首を掴んだ、蝋燭の明かりでもわかるその肌色の悪い灰色の手。 

 ぞわりと、全身が逆毛立つことを止めることはできない。 

 悲鳴をあげたふたりを、誰が批難できよう。そのほんの瞬間でしかない時間に、身を潜めていた輩が姿を現わす。 

 これほど石畳に近い場所に、こんなにも隠れていたとは。 

 籠を蝋燭ごと放り出し、神父は、ふたりを抱え上げた。 

 転がる蝋燭に、わずかの間それらが歩みを止めた。しかし、同時に彼らも石畳から離れてしまった。 

 それだけ、化け物ネトーヴァの力が強く、動きが素速かったと言える。 

 稀にいるのだ。 

 ゆらゆらと揺らめくように歩くメルトゥーラの中に、素速い個体が。 

 チッとばかりに舌打ちをした己に気づき、心の中で十字を切る。 

 大木の根本にふたりを下ろし、 

「ここでじっとしているのですよ」 

と、いいふくめ、化け物に対峙する。 

 ふたりがカソッククレリカの腰紐を握りしめるのにふっと頬が緩む。 

 ポケットカプサから取り出した香炉を腰紐に繋ぎ掲げ、聖水の入った器をもう片手に構えた。 

 火をつけている暇はないが、それでも、ないよりはマシなのだろう。火のついていない蝋燭の匂いだけで、先ほどこれらは足を止めたではないか。 

 大丈夫だ。 

 そう心に呟いて、神父は詩篇二十三篇四節を唱え始めた。 

 

「イグリシュ プロハーズィム ネイタムネィスィム ウドリム、ネボイム セ ザホネホ ズラ:プロトズェ イスィ セ ムノゥ;ヴァシェ ティツァ ヴァスィ ザムエストナンスィ−−−ウテスウィ ムニエ………………」 

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