第8話【からかい上手な水泳部JC夏希】青い果実は早熟に実りだす
あたしは結局、物語のように素敵な恋はできないんだろうな。
夏希は小さい頃から母の口から語られる父との馴れ初め話を聞くことが好きだった。
女としての至上の幸せ。
それは母のように運命的な相手と出会って「情熱的な恋」をすることだと思っている。
我を忘れるほどに相手のことが好きになってしまい、その人に尽くし、その人のために生き、お互いを強く思い合って、支え合いながら人生を共にする。
それはとても素敵なことだと思えた。
『あたしの夢は、おかあさんのように、すてきなお嫁さんになることです!』
将来の夢について語るときはいつもそう言っていた。
口にしなくなったのは父が亡くなってからだ。
べつに辛い現実に打ちのめされて夢から覚めたとかではない。
……ただ、自分の家庭に頼りになる男の人がいなくなってしまった。
だから、自分が代わりにその役目になろう。そう思ったのだ。
夏希はとにかく体を動かすことが好きで、男の子に混じって遊ぶことが多かった。
腕っ節も強く、近所のいじめっ子も夏希には敵わない。
髪も短かったから、よく少年に間違えられたものだ。
……なら、いっそ男の子のようになってしまおうと思った。
『お母さん! 力仕事は夏希に任せて! だってあたし力持ちだもん!』
『アン姉! 雛未! 男にからかわれたり、苛められたりしたら夏希に言って! あたしが皆こらしめてやるんだから!』
そもそも自分が母や姉妹と比べると「女らしくない」ことは夏希自身がわかっていた。
つまり適材適所というやつだ。
そもそも「お嫁さんになりたい」だなんて、いつまでも堂々と語れる夢じゃない。
だから構わない。家族が揃って平和に笑顔で暮らせるなら、自分は喜んで「男役」になろう。
母が再婚したときは「その御役目もとうとう御免かなー」と思ったが……やはり運命は夏希に「男らしく家族を守れ」という任を背負わせるつもりのようだった。
(さすがに逝くのが早すぎるッスよ、お義父さん……)
あまりに早い、母の再婚相手の死。
家族らしい絆を育む間もなかった。
夏希としては、べつに再婚に反対はしていなかったし、新しい父と仲良くなろうと努力はしていた。
……ただ、母が一途に愛を貫こうとしなかったのは、少しショックだった。
わかってはいるのだ。
母のことだから、きっと自分たち娘のことを思っての再婚だったことは。
最初の結婚が「情熱的な恋愛」ならば……今回の再婚は「理性的な恋愛」だったというわけだ。
理解はしているし、納得もできる。
現実の恋愛なんて、そんなものだ。
そう弁えられる程度には、夏希もすでに昔ほど恋愛に夢を見てはいなかった。
……だからといって、これではあまりにも希望がない。
母はきっとたくさん悩んで考えて、覚悟を決めて再婚をしたというのに、その幸せがこんなにも短いもので終わってしまうだなんて。あまりにも理不尽だ。
(やっぱり、あたしが皆を笑顔にしなくちゃ!)
夏希は変わらずムードメーカーとして家庭を明るくしようと努めた。
大丈夫。また昔のように自分が皆を引っ張っていけば、自然とまた元気な家族に戻れるはずだ。
……開かずの間に不気味な異分子がいることは気になっていたが、もしものときは自分が何とかすればいい。
あたしが家族を守る。
夏希は改めてそう誓った。
……誓っていた、筈なのに。
「あ、ああ……っ」
ずっと引きこもっていた義理の兄が、包丁を持って暴れ出したとき、夏希は何もできなかった。
あまりに怖くて、恐ろしくて、動けなかった。
もしも隣人である彼が……中田誠一が駆けつけてくれなかったら、いったいどうなっていたことか。
「先、輩……」
親しくなったばかりの年上の少年。
よくからかっては、その反応を見て笑っていた。
彼からすれば、なんとも生意気な後輩だ。
そんな生意気な後輩を……腰を抜かして震えている情けない自分を庇いながら、誠一は凶器を持った相手に挑んだ。
腕を切りつけられ血しぶきが上がっても怯まず、自分たち家族を守ってくれた。
「先輩……先輩! ごめんなさい……あたし、あたしっ」
事件のあと、夏希は何度も誠一に頭を下げた。
「ごめんなさい! あたしが……あたしが家族を守らなくちゃいけなかったのに! あんなに偉そうに『あたしが居るから心配ない』なんて言っておきながら、何もできなかった……。その上、先輩に一生消えない傷を……ごめんなさい、ごめんなさい!」
そんな泣きじゃくる夏希の頭に、誠一は優しく手をのせた。
「夏希ちゃん。いいんだよ。人間なんだから怖くて当たり前だ。無理に男らしく戦おうなんて、しなくていいんだ。夏希ちゃんは……女の子なんだから」
「あ……」
女の子なんだから。
誠一にそう言われた瞬間、夏希の中で、ずっと重りになっていたものが軽くなったような気がした。
そう。いつのまにか、夏希は自分に言い聞かせていた。
自分は女らしくあってはいけない。
家族を守るためにも、男のように強くなくてはいけないのだと。
でも……。
「君たちに怪我がなくて、本当に良かった」
実際、自分たちを男らしく守ってくれたのは、目の前の少年だった。
どこまでも、自分よりも他人のことを心配する、心優しき少年。
酷い傷を負いながらも、決してそのことを話題に持ち出さず、どころか涙を流す夏希を励まそうとする温かで大きな器。
ふと、幼い頃に聞いた母の言葉を思い出した。
『心に決めた相手にはね、すべてを捧げたいって思えるの。それだけの男の人と出会えた私は、本当に女として幸せだと思うわ。夏希ちゃんも、いつかそういう人と出会えるといいわね』
そのとき、何か憑き物が落ちたような気がした。
(そうか……あたし、『女の子』でいいんだ。この人の前でだけは……『女の子』でいていいんだ……)
そして夏希は、胸に芽生えた感情をハッキリと自覚する。
ああ。あたしも、いまこの瞬間、母と同じになったのだと。
* * *
お手入れが面倒だからと、髪はずっと短くしていた。
友人からは「伸ばしたほうが絶対にかわいいのに」とよく言われた。
そのたびに夏希は「べつにいいッスよー。これ以上かわいくなってモテモテになっちゃったら夏希ちゃんてんてこ舞いになっちゃうッスよ。にゃはは」と言って誤魔化した。
実際、夏希は性別に関係なくモテた。
告白の頻度はどちらかというと女子からが多い。「男子たちよりも凜々しくて爽やかでかっこいい」とのことだった。
女子の目線からだと夏希はいわゆる「王子様」のような存在らしい。
男子からの告白のほとんどは、あからさまな肉欲混じりだった。
水泳部での練習中、よく室内プールを覗き見に来る男子たちは後を絶たない。
もちろん全員が夏希目当てだ。
コーチに何度注意されても彼らは毎度まいど懲りずに、夏希の中学生離れした抜群のスタイルを血走った目で唾を飲みつつ舐め回すように凝視しに訪れるのである。
男子はしょうがないッスね~。と夏希は苦笑した。
べつだん夏希は長女の杏璃ほど性的なことに対して忌避感をいだくタイプではなかった。
むしろ年相応に興味があった。
機会があれば経験してみたい、とまで思っている。
だからといって、相手が誰でもいいというわけではないが。
夏希の男の理想は高いのだ。
それでも男が自分の肉体に興味を示すことには、女として軽い優越感があり、悪い気はしなかった。
なので時折サービスとばかりに窓際に向かって胸の谷間が見えるようにわざとらしく屈んでみたり、お尻に食い込んだ水着を見せつけるようにパチンっと指で直したりした。
トイレに向かって駆け込む男子たちを見ると「勝ったぜ」という具合に妙な達成感を覚えたものだ。
夏希は昔から「オトコ女」と男子たちにからかわれていた。
けれど自分の身体が女らしく成長していくと、途端に彼らは目の色を変えた。
なんとも現金な連中だ。
だから仕返しとばかりに、ついつい際どいからかいをして過去の鬱憤を晴らした。
あれだけ自分のことを「女っぽくない」とバカにしてきた男たちが自分の色香であたふたする場面を見ると、滑稽で楽しくてしょうがなかった。
……いまは、もう二度としないと決めた。
するにしても、それはもう、一人の男にだけだ。
「……夏希、髪伸びたね」
「うん。伸ばしてるんだ」
「へ~。あんなに渋ってたのに。どういう心境の変化?」
「まあ、いろいろあったんッスよ」
ベリーショートから徐々に髪が伸びてくると、男子たちの告白の頻度は女子よりも多くなっていった。
でも前のように思わせぶりな返事や、勘違いさせるような行動は絶対にしない。
(だって、あたしの身体も心も……あの人のものだもの)
彼のことを考えるだけで、夏希の心は弾んだ。
中学生離れした豊満な肉体も、感情と共に熱くなっていくのを感じる。
「……なんか、雰囲気変わったね夏希」
物憂げに窓の外を眺める夏希を、友人の少女はどこか圧倒されたような目で見ていた。
「そうッスか?」
「うん。髪伸ばしたせいもあると思うけど……なんていうか、めっちゃ女っぽいっていうか……色っぽい?」
「そうかも、しんないッスね~」
友人の言葉どおり、ここ最近の夏希は同学年の少女たちと比べて明らかに女としての成長を早めていた。
ただでさえ早熟な肉体はさらなる成長を見せ、胸はとうに母や姉と同じ三桁サイズに達している。
育っているのは肉体ばかりではない。
夏希が纏う雰囲気や、身体から分泌されるフェロモンは、もはや中学生のソレではなかった。
女としての段階を、一歩も二歩も上がった。……同年代の目から見ると、そうとしか表現のしようがない変わりぶりだった。
友人の少女すら夏希のあまりの艶やかさに、思わず胸がドキドキするほどだった。
恋をすれば女は変わる。
よくそう言われるが、実に真理だと夏希は思う。
まるで、意中の相手に早く捧げたいとばかりにこの身はどんどん育っていく。
夏希の髪がミディアムボブの長さまで伸びると、今度はうんと年上の男からも交際を求められるようになった。
中には夏希の理想に限りなく近い容姿の持ち主もいた。
……だが、そんなことはもう関係なかった。
どれだけ男にモテようが、どうでもいい。
だって、自分はもう見つけたのだ。
この身すべてを使ってでも支えたい、運命の相手を。
* * *
顔はギリギリ合格。
鍛えられた肉体は滅茶苦茶好み。
中身は超満点。
それが誠一に出会ったばかりの夏希の中での評価だった。
もしも初めての交際相手を選ぶのなら、彼が無難かなーと思っていた。
特待生になるほど頭も良く、スポーツも万能で、性格も優しい。そして何より筋肉フェチである自分好みの体つき。
物語のように素敵な恋は無理にしても、彼とならきっと楽しい青春生活を送れるのではないかと、そんな淡い期待をいだいていた。
……いまとなっては、とんでもない愚考だ。
「お前はいったい何様だ」と過去の自分の頬を叩きたくなる。
何が無難な相手か。
とんでもない。
彼こそが自分にとって、絶対なる運命の相手だ。
彼以上の存在は、この世には存在しない。
その魅力も、もはや点数で測れる次元などではない。
夏希にとっての男とは、もはや中田誠一だけだ。
それ以外の男など、有象無象に等しい。
夏希は知った。
物語のように素敵な恋とは、降って湧いてくるものではない。
自らの手で掴み取り、決して逃がすことなく、力ずくで引き起こすものなのだと。
「先輩、もう少しでご飯できますから、待っててくださいね?」
「ありがとう夏希ちゃん。……なんか、ごめんね? ただでさえ、そっちの家でよくご馳走してもらってるのに、その上こっちでも作ってもらっちゃって」
「気にしないでくださいッス。まだまだ片手の生活じゃ不便でしょ? あたしがしっかりお世話しますから」
「……なあ、夏希ちゃん。本当に気にしないでいいんだぜ? 怪我したのは俺がドジしたからなんだし、そんなに責任感じなくても……」
「ダメっす! 先輩は私たち一家の超恩人なんですから! 是が非でも恩返しするッス! これぐらいじゃ足りないぐらいッス!」
「お、おう……」
あの悪夢のような事件から数ヶ月。
腕の負傷によって生活が不便になってしまった誠一を、門原家の女性陣は総出でサポートしていた。
特にその頻度が多かったのは、家事や裁縫が得意な夏希であった。
傷も塞がり、多少片手でも苦なく生活できるようになっても、夏希は頻繁に誠一の部屋に通っていた。
「はい先輩♪ あーんしてくださいッス♪」
「ちょっ、さすがに食べるぐらいは自分でできるって」
「でも利き腕じゃないほうで食べるの難しいでしょ? 素直にかわいい後輩に甘えてくださいッス♪」
「わ、わかったよ。あーん……」
「お味はいかがッスか?」
「うん、相変わらずうまい。これならいつでもお嫁にいけるな、夏希ちゃんは」
「にっしっし♪ 嬉しいッス♪ 夏希ちゃんはこれでも尽くす女ッスよ~? いまのうちに奥さん候補として予約しとくと、後々お得ッスよ~? せんぱ~い♪」
「またそんな冗談言ってからかって。もう動じないからな~?」
「ちぇ~、ッス」
冗談ではない。
もちろん本気だ。
しかし日頃の行いが祟って、なかなか誠一は夏希のさり気ないアピールを真剣に受け取ってくれない。
でも構わない。
ここからじっくりと意識してもらえればいい。
なにより、こうして彼のお世話をしているだけでも、途方もないほどに幸せだった。
「で、ここの公式はこうなるってわけだ」
「ほうほうッス。やっぱり先輩、教え方上手ッスね。先生よりもわかりやすいッス!」
「夏希ちゃんの要領がいいからさ。コツさえ掴めば、どんどん覚えていくんだもん。この調子ならうちの学園に入学しても、テストで苦戦することはないと思うよ?」
「えへへ。頼りになる先輩が居てくれて夏希は幸せもんッス。……本当に、幸せ」
夏希は二年生でありながらすでにスポーツ推薦で高校への合格が決まっていたが、誠一との時間を少しでも多くしたいあまり、苦手な勉強を教えてもらっていた。
おかげで、成績は見る見るうちに上がっていった。
好きな人から教わることなら、どんなことでも吸収できてしまうことを夏希は学んだ。
……そう、誠一から与えられるものなら、何だって受け入れられる。
それが例え、どんなものであっても。
「そろそろ休憩しようか」
「そうッスね~。ん~、座りっぱなしだと身体が強張っちゃうッス~」
夏希は誠一の前でストレッチを始めた。
もちろんアピールのひとつだ。
格好も、胸の谷間が大きく見えるタンクトップに生足を盛大に見せるショートパンツと、かなり際どい薄着だ。
年頃の男にとっては、たまらない光景だろう。
(……先輩、見てる)
誠一は気まずそうに顔を赤らめて夏希を見まいとしていたが、それでもやはりつい目で追ってしまうのか、時折チラッと胸の谷間や生白い素足に向けて視線が泳いだ。
意識してくれている。
嬉しい。
夏希の身体が熱く火照っていく。
年頃の男女が部屋で二人きり。
とうぜんそういう間違いが起こることを期待して夏希はこの部屋に訪れている。
いつでも手を出してもいいのに。
誠一が相手ならばいつだって喜んで受け入れるというのに、誠実な彼は決してそうしない。
そんな真面目な彼に、ますます思いが募ってしまう。
もっともっとご奉仕したいと思ってしまう。
「ねえ先輩。ひと休みするなら夏希ちゃんの膝枕はいかがッスか~?」
さらなるアピールとして、夏希は剥き出しになった生足を誠一に見せつける。
「え? い、いいって、そんなこと」
「まあまあ遠慮なさらずに~。雛未にも『ふわふわで柔らか~い』って好評のボリューム満点の膝枕ッスよ~? 興味ないんスかせんぱ~い?」
前までは人よりも一際太いこの太ももがコンプレックスだった。
いまは、ここまで実って良かったと思っている。
男を誘惑する上で、これほど有用な武器もそうない。
胸では姉の杏璃には敵わないが、太ももの肉付き具合だったら夏希の圧勝だ。
「先輩ならいま特別で夏希ちゃんの『頭ナデナデ』も加えちゃうッス。日頃の疲れを癒してあげるッスよ~? ほれほれ先輩♪ おいでおいでッス~♪」
いまにも「ムチッ」と音が鳴り出しそうな生白い太ももを艶めかしい手つきで撫で上げながら、夏希は甘い声色で誘う。
「ゴクリ」と唾を飲む音が聞こえた。
夏希は誠一が自分の太ももに頭を乗せる光景を期待する。
……そしてその先を想像して、下腹部を熱くさせる。
(いいんですよ先輩。あたし、あなたなら本当にどんなことだって……)
陽気な笑顔の裏で、夏希の早熟に育った牝の一面が愛おしい相手を狂おしく求める。
「……俺、風呂入ってくる! 夏希ちゃんはゆっくりしてていいから!」
誠一は逃げるように着替えを取ってバスルームに向かった。
夏希は溜め息を吐いた。
それは決して誠一の態度に呆れたからではない。
むしろその逆である。
「……かわいいなぁ、先輩」
誠一が見せる些細な反応のすべてが愛おしい。
ああ、どうしよう。
これ以上好きになったら、壊れてしまいそう。
でも止められない。
もっともっと親密に、過激に、彼のお世話がしたくてしょうがない。
「……よぉし」
夏希は衣服を脱ぎ、いそいそと準備を始めた。
「せんぱ~い。片腕だけで身体洗うの大変ッスよね~。お背中お流しするッス~」
「え? ちょっ!? 夏希ちゃん! 何入ってきてるんだよ!?」
「安心してくださいッス先輩。ほら、このとおり水着着てるッス。何も問題ないッスよ」
「俺は裸だぞ!?」
「バッチコイです」
「バッチコイじゃない! ああ、せめてタオル寄こしてくれ! 隠すから!」
部活用の競泳水着を身につけて、夏希は風呂場に乱入した。
さすがに強引過ぎたかと思ったが、実際片腕では背中を洗いにくかったようで、誠一も渋々夏希の申し出を受け入れた。
「痒いところはございませんか~?」
「無いよ。無いから早く済ませてくれ」
「ぶー。せっかくかわいい後輩ちゃんが水着姿で背中を流しているのに、先輩ったら素っ気ないッス」
「あのな~。……俺だって一応男なんだぞ? こんな状況で、何をされても文句言えないぞ?」
「……いいッスよ?」
「え?」
「先輩なら、何をされても」
「ま、またそうやってからかって……」
「本気です。嘘じゃないです。……さすがにこんなこと、誰にでもするわけじゃないッスよ?」
「な、夏希ちゃん?」
誠一の背中に、夏希は身体を密着させる。
なんて広い背中。なんて頼もしい背中。
あのときも、この立派で男らしい背中に守ってもらった。
「先輩の身体……やっぱり素敵。とっても綺麗で、逞しくて、こんなにも固い……」
「夏希ちゃん、ちょっ……いろいろ当たっちゃいかんものが当たって……」
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……こんなにも綺麗な身体に、傷をつけさせてしまって……どうお詫びすればいいか、わからないッス」
「っ!? ……夏希、ちゃん」
気づくと涙が出ていた。
誠一の逞しい腕に深々と残ってしまった傷跡を見ると、己の過ちが許せなくなる。
手を伸ばして、その傷跡を癒すように撫で上げる。とうぜん、消えることはない。
「先輩……あたし、先輩に償うためなら本当に何でもします。先輩のしたいこと、してほしいこと、全部ぜんぶ、あたしが叶えてあげます。だから……」
「……なら、約束してくれ。自分を安売りするようなことはするな。君の身体は、君だけのものじゃないんだから」
「先、輩?」
誠一は背中越しで、いつものように穏やかな声色で夏希に語りかけた。
「君たち家族が笑顔で幸せに暮らしてくれるなら、俺もここまでした甲斐があるって思うんだ。だから、これ以上自分を責めるようなことはしないでくれ。……優しくて責任感の強い夏希ちゃんには難しいことかもしれないけど、やっぱり自分を犠牲にするような真似は良くない。きっと君の家族もそんなことは望まないはずだ。だから、いいんだよ。夏希ちゃんは夏希ちゃんらしくいれば。なりたい自分に、なればいいんだよ」
そう言って誠一は、振り向いて夏希の頭を撫でた。
背筋に甘い感覚が走り抜ける。
知らなかった。意中の相手に頭を撫でてもらえることが、こんなにも心地良いとは。
「夏希ちゃん。君は本当に良い子だ。だから幸せになってほしい。それが俺にとって、掛け替えのない恩返しになる」
「……はい、先輩」
ああ、あたしはやっぱりこの人が好きだ。
もう十分すぎるほどに大きい感情が、限界を知ることなくさらに膨らんでいく。
その温もりが、もっと欲しくなる。
「……先輩、今夜、泊まっていってもいいですか?」
「え?」
「ときどき、ひとりで眠ってると怖くなるんです。あの日のことを思い出してしまって……。こんなこと、先輩以外には恥ずかしくて言えなくて。先輩が傍にいれば、安心して眠れると思うんです……ダメですか?」
「……いいよ。エレオノーラさんには俺が言っとく」
「えへへ。やった……」
誠一からすれば、自分はちょっと手のかかる後輩にして、妹分という認識なのだろう。
いまは、それでいい。
いつか、ちゃんとこの気持ちを知ってもらえれば、それでいい。
「じゃあ電気消すよ」
「はい。おやすみなさいッス、先輩」
夏希は誠一のベッドを借り、誠一は敷き布団で眠った。
同じ部屋で眠ることは了承してもらえたが、さすがに一緒のベッドで眠ることは許してもらえなかった。
甘えられるチャンスだと思ったのに、とても残念である。
「……先輩? 寝ちゃったッスか?」
返事はない。
寝付きがいい誠一はすでに夢の中だった。
夏希の中で悪戯心が生じる。
「……にしし。寝ぼけたフリして忍び込んじゃおっと」
猫のような笑みを作って、夏希はコソコソと誠一の布団に侵入した。
朝になったらどんな反応を見せるだろう。
とても楽しみだ。
「……ん」
誠一の温もりがたっぷり詰まった布団の中で、息を吸う。
「……はぁ♡ 先輩の、匂い♡」
愛しい相手の体温と匂い。
あまりの心地よさに、脳が蕩けてしまいそうだった。
「先輩……先輩♡」
いまにも理性が消失して、襲いかかってしまいそうだ。
でも、彼に嫌われたくないから我慢する。
でも自信がない。
朝まで自分は、正気でいられるだろうか。
「……先輩。好きです。大好きです」
耳に唇を寄せて、囁くように思いを告げることで、何とか熱情を発散させる。
けれど却って気持ちは昂ぶるばかりだった。
『君の身体は、君だけのものじゃないんだから』
『いいんだよ。夏希ちゃんは夏希ちゃんらしくいれば。なりたい自分に、なればいいんだよ』
誠一の言葉が蘇る。
本当に、なんて思いやり深い素敵な人だろう。
……夏希が望むことを、そんな風に肯定してくれるだなんて。
誠一の言うとおりだ。
自分の身体は、もう自分だけのものじゃない。
「この身体はぜんぶ……先輩のモノですよ♡」
だから、もっともっと淫らに育ってほしい。
彼に喜んでもらえるように、楽しんでもらえるように。
青い果実が、熟した実になるその日まで、この思いと共に大事に育てていこう。
そして、もっともっと「女」を磨いていこう。
彼の隣に居ても恥じない良妻賢母になれるように。
心を決めた相手には、すべてを捧げたくなる。
母の言うとおりだ。
いまこそ、その教えを実践しよう。
自分のすべてを使って、愛する者に尽くしていく。
それが、夏希がいまもっとも望む生き方だった。
「待っててくださいね、先輩♡ あたし、きっと素敵な女の子になりますから♡」
腕の傷跡に手を伸ばし、愛おしげに撫でる。
これからの生涯、自分が彼の腕の代わりになるのだ。
そう心に誓って、夏希は愛しい男の胸の中で眠りにつく。
「愛しています……旦那様♡」
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