第6話【清楚系ツンデレJK杏璃】穢れは初心な愛欲で塗りつぶされる

 私はきっと男の人と恋愛することはできないだろう。

 門原杏璃かどはら あんりはそう確信していた。


 気づけば男という生き物が嫌いになっていた。

 気づけば、だ。

 昔からそうだったわけではない。

 むしろ子どもの頃は父にベッタリだった。

 世界で一番好きな男性と聞かれたら、杏璃にとってはそれは父だった。


 父が亡くなってからだ。

 父のような素敵な男性は、この世にはひとりも居ないのだと失望したそのときから、杏璃は異性を遠ざけるようになった。


 一番目のキッカケは同級生のからかい。

 母譲りの自慢の銀髪を「老婆みたいだ」と彼らはよくバカにした。

 もちろんそれは気になる女の子の気を引きたいがための典型的なちょっかいだったわけだが、幼い杏璃にとっては本当にショックだった。

 自分ばかりではなく尊敬する母も一緒にバカにされたようで、悔しくてしょうがなかった。


 男子は基本的に意地悪だ。

 それが小学生だった杏璃に刻まれた男性像である。


 そして決定的なキッカケは間もなく訪れた。

 杏璃の身体が、歳不相応に女性らしく発育を始めたのである。


 いつも杏璃をからかっていた男子たちは急に大人しくなった。

 あたかも憧れの年上の女性を前にしたときのように頬を赤らめ、妙にしおらしく遠目から杏璃を見つめては、ときおり自分の股間に起こる未知の違和感に困惑している様子だった。

 もはや自分たちの知る方法では杏璃の気を引くことはできない。

 無邪気な恋心にそう悟らせ、どころか萎縮させてしまうほどに、杏璃の肉体と美貌は小学生離れした艶めかしさを湛えて早熟に育っていった。

 ちょっかいをかけられなくなったのは、杏璃にとっては幸いだった。


 代わりに杏璃を恐怖させたのは大人の男性たちだ。

 登下校のたび、ランドセルを背負った小学生に向けられるべきではない色欲混じりの無遠慮な目線。

 この間までは暖かな目で帰りを見送ってくれていた案内業務の中年の男性ですら、杏璃の大きく弾む胸元をさり気なく見だすようになった。


 道行く男性のほとんどが、杏璃を値踏みするように、そして情欲に染まった顔を向けてきた。

 早熟に実った肉体と異なり、心は年相応の少女にとって、その視線はただひたすら未知の恐怖であった。

 なによりショックだったのは、男性教師たちですら明らかに杏璃をふしだらな目で見ていることだった。

 体育の授業のときは特に露骨で、走るたびに揺れる胸元や、白い生足をねっとりと凝視しているのが丸わかりだった。


 唯一頼れるはずの教師ですら頼りにできない。

 幼い杏璃は日々、大きな男たちの下卑た目線に怯えるしかなかった。


 そして最悪の事態が訪れる。

 忘れもしない。

 放課後、担任の男に呼び出された杏璃は、危うく襲われかけたのだ。


『いや! 来ないで!』

『ハァハァ……あ、杏璃ちゃんがいけないんだよ? 毎日まいにちそんなイヤらしい身体で先生を誘惑するから……』

『誰か! 誰か来て! 助けて!』

『……何をやっているんですか先生! 誰か来て! 警察を! 警察を呼んで!』


 偶然居合わせた女性教師に助けてもらわなければ、いったいどうなっていたか。

 想像するのも恐ろしい。

 以来、杏璃は男という生き物を一切信頼したことはない。


(パパみたいに優しくて素敵で、頼りになる男の人なんて、この世には居ないんだわ……)


 男は基本的にケダモノ。

 それが現在の杏璃に刻まれた男性像である。

 だからこそ、杏璃は徹底して異性を遠ざける。


 ちょっと親切にした程度で好意があると思い込んでしつこくアピールしてくる男たち。

 だから男の前では一切優しさは見せないようにした。

 頑なな態度を崩さず、無愛想な顔をして極力会話をしない。

 それでもあまりに諦めの悪い相手には、キツイ言葉を浴びせて再起不能にする。

 理性を無くして襲ってくる者がいれば身につけた護身術で股間を蹴り上げる。

 だいたいはそれで何とかなった。


 杏璃の中学時代は、無事にそうして男の影が無い三年間となった。

 実に色気の無い青春時代だと我ながら思う。

 だがそれでいい。

 次女の夏希なつきは人並みに恋愛に興味があるようだったが、杏璃はそういうものに関してはすっかり諦めていた。


 少女漫画のような素敵な恋愛は現実には存在しない。

 あったとしても、恋心よりも先に肉欲を誘発させるような身体を持ってしまった自分にとって、それは叶わない夢だろう。


 自分はずっと独り身でいい。

 早く自立して、女ひとりでも生きていけるよう、杏璃はたくさん勉強をした。

 将来は母のように立派なキャリアウーマンとなって、今度は娘の自分が母に楽をさせ、ここまで育ててもらった恩返しをするのだ。


 ……そう思っていた矢先に、再婚が決まった。

 べつに反対はしなかった。

 母の幸せを考えれば、それが一番だと思ったからだ。

 再婚相手も誠実な男性だったし、一緒に暮らすぶんにはなんとか我慢できると思った。


 ただし、父親として見ることはついぞなかった。

 自分にとって父は天国にいる父だけだ。

 表面上は娘として振る舞っていたが、正直、赤の他人としか思っていなかった。

 すべては母の幸せのためだと言い聞かせて、杏璃は不慣れな男性との生活を送っていた。


 ……それも、本当に短い間だったが。

 一度くらい、親子らしいやり取りをすべきだったのかもしれないと、義父の葬儀で杏璃は思った。


 とにかく、またもや頼りになる男性はいなくなった。

 やはり自分がいち早く自立して母を支えるしかない。

 そう思った杏璃はより勉強に力を入れ、近隣の進学校に合格した。

 まだ母には明かしていないが母の故郷への留学も検討している。そうして将来的には母と同じように外資系の企業に勤めようと思っていた。


 一日でも早く社会で活躍できる存在となり、自分が家族を守るのだと杏璃は決めていた。

 ……それは、この部屋から少しでも早く家族と一緒に出たいという気持ちもあったからかもしれない。


 いまだに顔も見たことのない再婚相手の息子。

 ずっと引きこもったまま、ついぞ姿を現さない不気味な存在。

 そんな得体の知れない男が住む家に、どうしていつまでも住めよう。

 留学を考えるのは、できれば家族全員で海外へ行けないものかという算段もあったためだ。


 杏璃には予感があった。

 長年、男の下卑た欲情の眼差しをぶつけられてきた杏璃だからこそ生じる、危機感のようなものがあった。


 あの部屋には、良くない者が住んでいる。

 間違いなく、自分たち家族の平穏を崩す異分子だと、杏璃は直感していた。

 できれば出て行ってほしい。

 もしくは自分たちが出て行きたい。

 だが悲しいかな、戸籍上では自分たちはすでに『家族』ということになっている。

 一度築いてしまった関係はそうそう白紙にはできない。なんと忌々しい。


 義父に対する唯一の不満。

 それは、あの不気味な存在を追い出さず、ついぞ匿っていたことだ。


 常に警戒はしていた。

 護身用の道具はこっそりベッドの傍に忍び込ませていたし、母には無理を言って各部屋に錠を付けさせ、留守の間に侵入できないようにした。

 妹たちにも「あの部屋には近づくな」と固く釘を刺していた。


 最善は尽くしているつもりだった。

 ……それでも最悪の事態は起きた。

 どうして考えなかったのか。

 錠がピッキングで開けられることを。

 非力な末っ子が一番に狙われることを。


 だがその最悪の事態も……。


「彼女たちに手を出すな!」


 隣に住む同学年の彼が……中田誠一が救ってくれた。


 出会った頃から、何かと声をかけ気遣ってくれる同い年の少年。

 どれだけ冷たくあしらっても、親切に接してくれる人のいい少年。

 男避けのために恋人のフリをしてくれ、何度もナンパから助けてくれた逞しい少年。


 ブザーを鳴らされたことで錯乱した男が包丁を取り出そうとした瞬間、杏璃は真っ先に隣の部屋に住む少年に助けを求めていた。

 そんな自分に杏璃自身が驚く。

 いつのまに自分は、こんなにも異性の相手に心を許し、頼るようになったのだろう。

 だが現に杏璃の足は、誠一のもとへ走っていた。


 ブザーを聞いた彼は真っ先に部屋に来てくれた。

 包丁を持った相手にも怯まず、腕を切りつけられ血しぶきを上げても尚戦意を失わず、暴漢と化した男を鍛えた武術で沈黙させた誠一。

 その姿を前にして、杏璃はいままで感じたことのない胸の高鳴りを覚えた。


 もしも、彼が護身用として三女の雛未ひなみに防犯ブザーを渡していなかったら。

 もしも、彼が駆けつけてくれなかったら。

 もしも、彼が隣に住んでいなかったら。

 きっと自分たち家族は、想像を絶する悪夢のような日々を送っていたことだろう。


 だがそれも、誠一がいてくれたから救われた。


「……誠一、くん」


 ずっと男が嫌いだった。

 自分を性的な目でしか見てこない男が嫌でしょうがなかった。

 でも……誠一だけは違った。

 彼が自分に向ける目には、他の男と違い性的なものは含まれていなかった。

 それどころか、まるで……父が娘を見守るかのように、慈悲深く、身を案じるような、深い思いやりの心で溢れていた。

 初めて出会った頃は、それが不思議でならず、ただ戸惑うばかりだった。

 どう対応すればいいのか分からず、すでに癖として染みついてしまった毒舌ばかりを彼に浴びせていた。

 それでも誠一は、嫌な顔ひとつせず、自分と、そして自分たち家族に親切にしてくれた。


「どうして? どうして、あなたは、そんなに……」


 そんなにも、私たちのことを助けてくれるの?


 血まみれになった誠一の腕を泣きながら手当しつつ、杏璃は思わず尋ねた。

 彼は冷や汗をかきつつも、安堵させるように笑顔を作った。


「俺が、そうしたいと思ったからだ……」


 見返りなんて求めていない。本当に、ただそうしたいと思ったから行動した。

 そんな澱みの無いまっすぐな誠一の善意を前に、杏璃はさらに泣いた。


「ごめんなさい…ごめんなさいっ。私、私ったら、あなたに、酷いことばかり……」


 杏璃は誠一に謝り続けた。

 こんな凄惨な出来事に巻き込んでしまったことへの謝罪。

 そして……。

 出会った頃からずっと、彼を振り回してしまったことを。

 少年とのこれまでの関わりを思い出すと、言葉にならない感情が怒濤のように杏璃から溢れ出した。



   * * *



 そもそも杏璃にとって誠一は、お節介な隣人であると同時に、学年順位を争うライバルという認識だった。

 男に負け続けるなど、杏璃のプライドが許さなかった。

 特待生相手に学力で挑むのは愚かだと承知の上だったが、元来負けず嫌いな杏璃は「いつか必ず見返してやる」という気概で毎回テストに臨んでいた。

 それでも、一位と二位の差はなかなか埋まることはなかった。


「成績ばかりがすべてじゃないさ。大事なのは将来どう生きるかだろう?」


 勝者の余裕なのか、あるいは本気で善意で言っているのか、誠一はいつもそう言って悔しがる杏璃を諭した。

 気に入らない男だ。

 そして変な男だ。


 そもそも彼は本当に自分と同い年なのだろうか?

 実は年齢を偽って入学しているのではないかと疑ってしまうほどに、誠一の人となりは高校生離れした落ち着きがあり、そしてあまりにも要領が良すぎた。

 ちょっとの触れ合いで妹たちや母の信頼を勝ち取っているのも、何だかおもしろくなかった。

 最初こそ、絶対に他の男と同じように下心満載で自分たち家族に近づいているのだと思っていたが……どうもそうではないらしい。

 中田誠一は本当にただただ純粋に善人なのだった。


 信じがたい。

 そんな男が居るのだろうか?

 だが現に誠一の視線からは、いつも感じる男たちの欲情の気配がない。

 試しにわざと乳房を大袈裟に揺らしたり、スカートの中がギリギリ見えるところまで屈んだり、挑発的なことをしてみた。

 やはり悲しき男のサガなのか、誠一もついついそんな際どい部分に視線が吸い寄せられてしまうようだったが……すぐにそんな自分を恥じるように目を逸らし、ばつの悪そうな顔をするだけだった。

 べつに本能が欠落しているわけではないらしい。

 つまり誠一は健全な若者でありながら、混ざり気のない気持ちで杏璃と向かい合っているということだった。


 ますます杏璃は困惑した。

 だからどうしても確かめたくなった。

 本当に誠一は、いままで見てきた男たちとは異なる、真に誠実な男なのかどうかを。

 それを確かめる上で有効な方法は、やはりひとつしかない。


「ときに中田くん。あなた、いま交際している女性とかいらっしゃるんですか?」

「え? いや、いないけど……」

「そうですか。では、折り入ってお願いがあるのですが……」


 建前では、男避けとして恋人のフリをしてもらうこととなった。

 実際、あまりに頻繁に起こる告白の数々にそろそろ辟易していたこともある。

 お隣同士で、学年トップの二人。表面上ならベストカップルとして通じるだろう。

 本来こんな一方的な頼み事など断るものだが、誠一は「そういうことなら、力になるよ」と笑顔で承諾してくれた。

 ……なんとなく、誠一なら引き受けてくれる。そんな気がしていた。


 それから、自分たちの仮の交際が始まった。


「おはよう門原さん」

「杏璃です」

「え?」

「恋人同士なら名前で呼んでください。そのほうが説得性が増しますし、周囲も納得させやすいですから」

「そ、それもそうだな。わかったよ、その……杏璃」

「……はい。私も、ちゃんと名前で呼ぶことにしますから……誠一くん」


 異性と名前で呼び合う。

 作戦のためとはいえ、杏璃にとってそれは劇的な経験で、妙に胸がざわついた。


「誠一くん。お昼です。一緒に食べましょう」

「え? そのお弁当……まさか作ってきてくれたのか!?」

「恋人であるなら彼氏のお弁当を用意するべきだと思いまして。ご迷惑でしたか?」

「い、いや、そんなことないよ! すごく嬉しい! ありがたく頂くよ!」

「それなら良かったです。では……あーん」

「え?」

「何を戸惑っているのですか? 恋人なんですから、こういうことをしても不自然ではないでしょ? さあ、どうぞご遠慮なさらず召し上がってください」

「いや、だからってこんな人前で……」

「……約束してくれたじゃないですか。恋人のフリをしてガードになってくれると。これぐらい見せつけないと、周りに信じ込ませることができないじゃないですか」

「そ、それもそうだな……じゃ、あ、あーん」

「あーん、です」


 自分たちのやり取りを見て、周囲の男子たちが悲鳴を上げる。

 「うるさいですね」と杏璃は思いつつも、見せつけるように誠一にオカズを食べさせた。


「おいしいですか?」

「うん、とっても。杏璃は料理上手なんだな。お世辞抜きに毎日食べたいくらいだよ」

「そう、ですか? ありがとう、ございます……」


 あくまでも恋人のフリだ。

 そうでなければこんな真似はしない。

 ……それでも杏璃は「なんだか、こういうのも悪くないですね」と不思議な胸の高鳴りを覚えるのだった。




 告白の数は明らかに減った。

 それでもたまに自信過剰な輩がやってくる。

 だいたいは誠一が席を外して不在のときを狙ってやってきた。

 とても不愉快だった。

 あからさまに肉体目当てでしかこちらを見ていない露骨な視線。どれだけ綺麗な言葉を並べられたところで薄っぺらいことこの上なかった。


(本当に男って最低……。誠一くんだったら、こんな風には……)


 ふと、当たり前のようにそんなことを考えている自分に、杏璃は驚いた。

 偽りの恋人として過ごしてきた誠一との日々。

 いつしか杏璃は、誠一とのひとときを居心地良く感じるようになっていた。気づけば、当初の目的など抜け落ちていた。


 もう確かめるまでもない。

 誠一は本当に真っ直ぐで、心優しい少年だ。

 目の前にいる輩のように、下卑た目的で近づくような男ではない。

 とっくにそんなことはわかっているのに、まだ自分は偽りの恋人関係を続けている。

 その理由は、やはり……。


「なあ、別れちまえよあんな冴えない男となんて。俺と付き合ったほうが絶対に得だし、毎日満足させてやれるぜ?」

「っ!?」


 しつこいその男は、あろうことか誠一のことをけなした。

 杏璃の中で激しい怒りが芽生える。


(ふざけないで! アンタが誠一くんの何を知っているのよ!? 誠一くんは……誠一くんはアンタたちみたいな男と違って!)


 思わず手が出そうになった。

 その瞬間、杏璃の前に見慣れた背中が現れた。


「俺の女に手を出すな。失せろ」

「誠一、くん?」


 普段の優しさを感じさせない鋭い声色で、誠一は男と向き合った。


「卑怯なやつだな。俺がいない間に口説こうとするなんて。女を奪う気にしても、まず相手の男に正々堂々挑むべきだろ? そんな気概もないヘタレ野郎に杏璃は渡さない」

「あ……」


 逞しい腕に抱き寄せられる。

 誠一の胸の中で、杏璃は頬を赤らめる。

 見上げた先の誠一の顔は、いままで見たことがないほどに男らしかった。

 そしてフリではなく、本気で怒っているのだとわかった。


 それは杏璃が奪われそうになったからではない。

 あたかも杏璃を物としてしか見ていない男の態度に憤怒しているのだった。


 誠一の凄みに怯えた男は「ひぅっ」と情けない声を上げて逃げていった。


「……ごめん。もっと早く戻ってくればよかったね」

「あ、いえ……」


 男が去ると、誠一はいつものように柔らかな態度に戻った。


「急に抱きしめてごめん。嫌だったろ? 追い返すにはこれぐらいしないといけないと思って……」


 そう言って誠一が腕を解こうとするのを、杏璃は「待ってください」と止めた。


「もう少し、このままで……」

「え、杏璃?」


 広い胸の中に、杏璃は顔を埋める。

 誠一の鼓動が聞こえる。

 すごく早く動悸している。

 意識してくれているのだ。こうして自分を抱きしめていることで。

 何だかそれが、とても嬉しい。


「ごめんなさい。いまになって怖くなってきてしまって……。こうしてると、安心できるんです。だから、もう少し……」

「……わかった。杏璃がそれでいいなら」


 そうして誠一は再び杏璃を優しく抱きしめた。


「ん……」


 杏璃は思わず頬を胸元に擦り付けた。

 なんて温かい。

 知らなかった。男の人の胸の中が、こんなにも心安らぐものだったなんて。

 ……いや、自分は覚えている。

 これと同じ温もりを、どこかで。


 そうだ。

 父だ。

 昔も、こんな風に父に抱きしめられたのだ。

 薄れていた記憶が、ありありと蘇ってくる。

 杏璃にとって、世界で一番安心できた場所。

 それと同じように感じられる場所が、いま目の前に……。


「誠一くん。あの……頭を撫でてくれませんか?」

「え? 頭を?」

「そうすると、もっと安心できると思うんです」

「いいのか? 女の子の髪に触っちゃうことになるけど……」


 髪は女の命。

 安易に触れていいものではないと、誠一は当然心がけている。

 そんな誠一だからこそ、触れてほしかった。


「いいです。誠一くんなら、いいです……」

「そうか? じゃあ……」


 そっと頭に手を置く誠一。

 壊れ物に触れるように、ゆっくりと、優しい手つきで杏璃の頭を撫でる。


「ああ……」


 思わず涙が出そうになる。

 忘れていた感情が、せき止めていたものが一気に溢れてくる。


 ここにあった。

 ずっと探し求めていたものは、ここにあったのだ。

 もう見つかることはないと諦めていた温もりが、いまこうして杏璃の凍り付いてしまった心を優しく溶かしていく。


「……杏璃の髪は、綺麗だな」


 頭を撫でつつ、誠一はぽつりと言った。

 杏璃の胸に、強い火が燃え上がる。

 ああ、どうして。

 どうして、あなたは、そんな欲しい言葉を次々と……。

 ますます深く、杏璃は誠一に縋りつく。


「ありがとう、ございます。自慢なんです。母譲りの、この銀髪が。昔は『老婆みたい』ってバカにされてましたけど……」

「ひどいこと言う奴らだな。こんなにも綺麗なのに。まるで雪のように煌めいてるじゃないか。すごくサラサラで、艶やかで……俺は、すごく好きだよ、この髪」

「はい……私も……私も、好きです」


 思えば、この時点でとっくに自分の気持ちは固まっていたに違いない。

 心優しき誠一。

 彼はついには、自分たちの家族の危機すらも、命がけで救ってくれた。


 杏璃は確信する。

 私はもう、この人でないとダメなのだと。

 だから……。

 もう偽りの恋人関係は終わりにすべきだ。


 でないと、いつまでも自分は誠一の優しさに甘えてしまう。

 それではいけない。

 偽物の関係を、本物にしたいのなら……。

 誠一が真っ直ぐ自分と向き合ってくれたように、今度は自分も正々堂々と、彼と向き合うのだ。

 杏璃はそう心に決めた。



   * * *



 事件の後も、誠一は自分たち家族と一緒の時間を過ごしてくれた。

 ショックで落ち込み気味だった母と妹たちも、誠一のおかげですっかり元気だ。

 もはや、そこに誠一が居ることが当たり前と思うほど、杏璃の中で彼の存在は日々大きくなっていった。

 幸せなひとときだった。


 彼との穏やかな日々を過ごすためにも、あのおぞましい出来事はスグにでも忘れるべきだ。

 ……あの男が住んでいた部屋を整理するのも、その一環だった。


「俺ひとりでやるから大丈夫だって。だって、その……気味悪いだろう?」

「だからこそ私たちの手で此処を清めたいんですよ。一日でも早く忘れられるように」


 そう、おぞましいと思うならばこそ、清めなければならない。

 潔癖症気味な杏璃は、目に付いた汚れは自分の手で綺麗にしなければ気が済まないところがあった。

 誠一の気遣いは嬉しいが、こればかりは譲れなかった。


 そうして全員で手分けして部屋のものを片付けていった。

 あの異分子が住んでいた痕跡を完全に消さなければならない。

 家族や彼との幸せな生活のためにも、細かなところまで隅々と……。


 その性格が災いしたというべきか、結果的に杏璃は見つけてはならないものを見つけてしまった。

 本棚の裏側に隠すかのように挟まっていた一冊のノート。

 表紙には大きなバッテンと『ボツ』と書かれていた。

 まさか……と杏璃は咄嗟にソレを家族の目に入らないように隠した。

 見せてはいけない。きっと、これは……。


 案の定、それはあの男が書いたらしきノートだった。

 家宅捜査は行われた筈だ。

 それなのに今更こんなものが見つかるとは、まったく警察も手を抜いた仕事をする。目に付く場所しか調べなかったのだろうか。


 ともかく、事件に関連性のある物品だ。

 すぐに警察に届けるべきだろう。

 あの男の関わるものは一切合切、この家から消さなくてはならないのだから。


「……」


 『ボツ』と書かれたノート。

 異常な男の心理など想像したくもないが、この一冊だけを見えない場所に隠したのは、自分の計画にたとえ寸分だろうとミスがあったことと、無駄な時間を使ったことを認めたくなかったからだろうか。

 ……どちらにせよ問題は、おぞましい内容が書かれているであろうノートがこの場にあることだった。

 できれば、家族にはバレずにこっそりと片付けたい。

 このノートのせいで、母や妹たちが再び苦い記憶を呼び起こしてしまう。ようやく、忘れかけてきたというのに。


 誠一に相談すべきか。

 だが、これ以上自分たちの問題に彼を巻き込むのも忍びない。

 やはり、これは自分がこっそりと処理すべきだろう。

 明日にでも警察に行って届けよう。


 杏璃はそう決めて、おぞましいノートを袋に詰め、その日はベッドに横になった。


「……」


 沈黙した薄闇の中。

 机の上に置いたノートが、異様な存在感を放っているように思えた。

 あそこには、いったい何が書かれているのか。

 考えるべきではない。

 だが一度気になりだすと、いつまでも思考の隅にチラついた。


 想像というのは、どこまでも膨らむ。

 際限なく、まるで菌のように増殖する空想に、押し潰されそうになる。


 見てはダメよ杏璃。

 心の中で、何度も自分に言い聞かせた。

 しかし、杏璃の身体はベッドから起き上がり、机の上のライトを点けていた。


 何をしているの。眠るのよ。そして明日コレを警察に持っていくの。それで全部が終わるの。

 それでも手はノートのページを開いていた。


 耐えられなかった。

 たとえそこに何が書かれていようと、自分の中で膨れ上がる悪寒を放置するほうが、そのときはずっと恐ろしく感じてしまったのだ。


 あるいは、祈っていたのかもしれない。

 そこに書かれている内容が、存外しょうもないもので、鼻で笑い飛ばせるようなラクガキであることを。


 ……そして、杏璃は痛感する。

 異常な存在によって書かれたノートなど、たとえボツだろうと常人に耐えられるような内容である筈がないことを。


「……っ! ……っ!」


 気づけばトイレに駆け込み、胃の中のものを吐き出していた。


「くぅっ! うぅ……っ!」


 ついで湧いてきたのは怒りの感情。

 たとえ想像上だろうと、自分たち家族を辱め、陵辱した男のノートに憎しみをぶつける。


「うあぁっ……!」


 感情に任すまま杏璃はノートを八つ裂きにしていく。

 それが事件に関わる証拠のひとつだろうと、もう知ったことではなかった。

 消したい。いますぐこの世からこのノートを消したかった。


「はぁ……はぁ……」


 もはや内容の解読も不可能なほどにバラバラになった紙片の山の中で、杏璃は息を吐く。

 呼吸を整えた後、紙片を箒でかき集め、ゴミ袋に詰めた。


 ノートはもうない。

 だが、一度脳内に根付いたものは消えてくれない。


「あ、ああ……」


 杏璃は頭を抱えた。

 なんて、なんておぞましい。

 あんな、あんな化け物といっときでも同じ屋根の下で暮らしていただなんて……。

 しかも『興が乗らなかったからボツ扱い』などと。

 あれ以上に過激な計画を実行するつもりだったというのか、あの異常者は。


「うっ、うぅっ……!」


 杏璃はベッドの上で泣いた。

 屈辱だった。

 これまで多くの男性たちが自分を邪な目で見てきて、その度に不快な思いをしたものだが……こんなにも悔しい思いをするのは初めてだった。

 ふざけるな。

 何が『犬のように飼ってやる』だ。

 何が『あまりにも反抗的ならこの案は再検討する』だ。


 許せない。

 女を何だと思っているのか。

 見るべきではなかった。

 だがもう手遅れだ。

 知ってしまった。

 自分が異常な男の頭の中で、想像を絶するほどに惨い仕打ちを受けていたという事実を。

 消したい。

 この記憶を消したい。

 ああ、穢らわしい穢らわしい。

 とても耐えられない。


「助けて、誠一くん……」


 気づけば杏璃は愛しい少年の名を呟いていた。

 そうすれば、穢されてしまったものも、清浄に癒されていくと思えたからだ。


 ……そうだ。

 誠一で思い浮かべればいいのだ。


 あのノートに書かれていたおぞましいプレイの数々もすべて、あの異常な男ではなく誠一に置き換えてしまえばいいのだ。


 穢れたものは自分の手で清める。


 いつもそうしているように、想像上の汚れも、愛しい少年によって浄化してしまえばいい。


 突拍子もない発想だった。

 だがいまの杏璃にとっては、それが最適なショック療法だった。


「あっ……誠一、くん……」


 杏璃は想像する。

 誠一が自分の首に犬の首輪を付け、深夜の街で散歩させる光景を。

 もちろん、心優しき彼がそんなことをするワケがない。

 だが、それが逆に……いや、だからこそ、言いようのない刺激を生んだ。


「はぁ、誠一くん……誠一くんが相手なら、私……きっと、どんなことだって……あっ♡」


 ふと、杏璃の身体に異変が起こる。

 誠一のことを考えれば考えるほど、未知の感覚が総身を走り抜け、豊満に発育した肢体に甘い疼きを生み出す。


「なに、これ♡ ……んっ♡」


 想像上の中で、鬼畜と化した誠一が杏璃を辱める。

 そんなイメージを浮かべるたび、杏璃は既知を超えた快感の波に呑まれていった。


「なに? なんなの、これぇ♡ 変よ♡ こんなの、おかしいわ♡ ああっ♡」


 少女の想像はエスカレートしていく。

 イメージの中の誠一はいつものように優しい笑顔を浮かべながら、犬のように這いつくばる杏璃を見ている。


『杏璃は変態だね。こんな風に首輪を嵌められて、お散歩をして興奮するだなんて』


 誠一はそんなこと言わない。

 もちろん、わかっている。

 しかし、どうしてか。

 そんな『ありえない誠一』の姿を思い浮かべれば思い浮かべるほど、杏璃の快感は増すばかりだった。


「ああ、違うの誠一くん♡ 私、変態じゃないもん♡ 犬さんみたいに扱われて、喜ぶわけないもん♡」


『違うよ。杏璃にはそういう素質があったんだよ。男嫌いのフリをして、本当はこんな風に好きな男の手で、動物のように扱われて、飼われたかったのさ』


 イメージの中で誠一に撫でられる。それこそペットにするように、顎をくすぐるような撫でつきで。


「くぅぅうぅん♡」


 犬のような嬌声を杏璃は上げる。


「はぁ……はぁ……」


 気づけばスマートフォンを起動し、写真保存アプリを起動していた。


 誠一と姉妹が一緒に映った写真。

 そこから誠一の顔だけを切り取った写真を杏璃は表示する。


「はぁ……誠一、くぅん♡」


 この世でただ一人、自分が心を許せる男性。

 そして、ただ一人、自分が生涯愛すと決めた最愛の少年。

 そんな彼に、こんな風に辱められたら、それはどんなに……。


「ああっ♡ 私ぃ♡ こんなこと考えてしまうなんて……♡ 誠一くんで、こんなこと……♡ ああっ、ごめんなさい……ごめんなさい誠一くん♡ 杏璃、あなたでいけないこと、考えちゃってるの♡ 優しいあなたで♡ ああっ、許して♡ 許して誠一くん♡」


 咄嗟の療法は効果覿面だった。

 覿面すぎた。


 これを機に杏璃はおぞましい筈だったノートの内容を材料にして、最愛の少年に可愛がられる空想に浸るようになってしまったのである。


「はぁ、はぁ……また私、こんな真似を♡ 違うの誠一くん♡ 私、変態じゃない♡ 変態じゃないもん♡ だから……意地悪しないで♡ いつもみたいに、イイコイイコしてぇ♡」


 杏璃自身も知らなかった、自分の隠された一面。

 それが空想上の誠一によって、夜ごとに暴かれていく。


「んんぅぅう♡ ごめんなさい♡ 杏璃、イケナイ子なの♡ 本当は、大好きな人に苛められることに、喜んでるの♡ 杏璃、悪い子なの♡ だから……お仕置きして♡ 杏璃にいっぱいお仕置きして、誠一くん……ううん♡ 誠一様♡ あっ♡ ご主人様~♡」


 一度目覚めた女の本性は最愛の少年を求めて、艶めかしい肉体と同じように狂おしく発育していく。

 脳内の穢れは洗浄されるどころか、少女の秘め隠された願望によって満遍なく塗り尽くされていった。


「……はぁ、はぁ♡ そっか……私、気づいちゃった♡」


 やがて少女は悟る。

 自分の身体が、どうしてこんなにも淫らに育ったのか。

 どうしてこんなにも男嫌いになって異性を遠ざけてきたのか。

 それは……。


「私は……あの人に尽くすために、産まれてきたんだ♡」


 すべては誠一という運命の相手に、この身と心を捧げるために、神様が仕組んだことだったのだ。

 すっかり愛欲に溺れた杏璃は、それが不変の真理だと信じて疑わなかった。

 スマートフォンに映る愛おしい少年の顔を眺め、杏璃は法悦に濡れた顔を浮かべる。


「……あなたに、私のすべてを捧げます。私だけの……ご主人様♡」


 思いを自覚した少女は、もう止まらなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る