わからない
「あれ。チョコちゃん髪切ったの?」
振り向くと、住居側の扉から千世子がひょこっと顔を出していた。
肩に掛かるくらいの長さで揃えた自称、前下がりボブ……のつもりで切ったのだが、千世子には変だのなんだの散々文句を言われた。
照れ臭そうに襟足を撫でたと思えば、なぜかムッとした顔で仁王立ちの千世子。
「ひみかんじが切った」
「へえ、寛治がねえ」
居酒屋の営業時間。千世子は度々下に降りてきては客とよく話した。客も千世子を新しいアルバイトかなんかだと認識し、『チョコちゃん』なんてあだ名まで貰って
本音を言うと、煙草の煙や酒の臭いに千世子をさらすのは嫌だった。だが本人が来てしまうのでどうしようもない。
日本酒を煽りながらニヤつく常連客に、俺は注文されていたイカの塩辛をカウンターから出す。
「またこんなもん食って、痛風悪化しますよ」
「うるせえな、食いたいもん食って身体に悪いわけないだろよ。ところでさ、そろそろ教えなって寛治。チョコちゃんって何者?」
「はい?」
既に茹でダコみたいに顔を真っ赤に染めた常連オヤジは、酔うと必ずこの話題に触れてくる。正直面倒だが、嫌な顔をするわけにもいかない。
「彼女っていうには若いもんなあ。寛治いま幾つだっけ?」
「二十九」
「ああ、そりゃ犯罪だ」
「勘弁してくださいよ、そんなんじゃありませんから」
今日はカウンターにこのオヤジと、端っこに座る新規の女性客がひとり、それだけだった。俺は注文を一通り片付け終えると、ケースから煙草を一本取り出して
「寛治、落ち着いたならお前もなんか飲め」
「ありがとうございます、頂きます」
俺はグラスにウイスキーを注いだ。
「寛治、チョコちゃんが来てからなんか物腰柔らかくなったよな」
「そうですかね。そんなに変わりませんよ」
「いや、変わったね。前はもっとツンケンしてた。ここ開店した当初から通う俺が言うんだから、間違いねえよ」
「店開いてから何年経ったと思ってるんですか。歳のせいですよ」
「歳ぃ? ひと回り以上年上の俺に歳の話すんなよー」
「ははっ、すみません」
適当に会話を流しながらふと端に目をやると、女性客のビールジョッキは既に空っぽだった。
「あ、遠慮しないで注文してくださいね。なんか飲みます?」
「いいえ結構よ。お勘定もらえるかしら」
「あ、はい」
俺は煙草を急いで灰皿に押し付ける。女性は手早く会計を済ますと、颯爽と店を出て行った。
「ご新規さん、結構美人だったな。声かけりゃよかった」
「いやいや、オヤジさんの圧に負けて居づらくなったんですよ、きっと」
「はあ? 俺のせいかよぉ。常連に冷たいねえ、ここの店主は。なあチョコちゃん——あれ?」
狭い店内。辺りを見回すも、千世子の姿は見えなかった。
「どこいったんだ」
ふとキッチン台に視線を落とす。俺は慌てて住居への階段を駆け上がった。
「お、おい……」
千世子はさっき俺が
「これ、どく?」
「違うよ。でも勝手に飲んじゃダメ」
「これ飲んだら、とわこに会える?」
ぼうっとグラスの中身を見つめる千世子の瞳は、初めて会った日と同じで光を映さない。
「たのしかった。ひみかんじが教えてくれたこと全部、ワクワクして、キラキラして……でも同じくらい、お腹の中がチクチク、いたかった」
そう言いながら千世子が押さえたのは、胸だった。
「ふわふわな服、とわこが着たら可愛い。真っ暗な映画館、とわこと手を繋いでいたら怖くなかった。テレビゲームを見たらこんなの初めてだねって。きっと、とわこなら笑う。スポーツも読書も、とわこが隣にいないとぜんぶ……」
千世子の頬に伝った涙は、線になってグラスを持つ小さな手に落ちた。
「ぜんぶ、千世子にはわからない」
「あのな千世子」
その時、下の居酒屋から常連客の声がした。どうやら帰るようだ。
「待ってて。すぐ戻ってくるから。それ貸して」
グラスを寄越すように言っても、千世子に俺の声は届かない。
「本当に、すぐ戻るから」
俺は急いで下に降り、会計を済ましてオヤジを見送る。店の看板をクローズにひっくり返し、キッチンから住居に繋がる扉を開けると、冷たい風が髪を揺らした。
その先の勝手口の扉が開いていたのだ。
「千世子!」
その日、千世子は俺の前から姿を消した。
ちゃぶ台に倒れたグラス。溢れたウイスキーは池を作り、ポタポタと垂れる滴が畳に染み込む。
俺はその様子を、しばらく眺めていることしかできなかった。
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