雨上がりに見たシリウス

いかざこ

第1話 The Only Neat Thing to Do

「――この頃からその容貌も峭刻となり――」

 現代文教師が朗読する声をBGMにしながら、雨野霧葉は本を読んでいる。既に読み飽きた現代文の教科書を立てた影で『ジャッカルの日』をぱらり、ぱらりと。教室の窓は開け放たれていて、外には既に花弁が落ちて青くなりつつある桜の木が見えている。春風は出席順で窓から一番遠い霧葉の肩まで掛かった青い髪も揺らしていて、毛先が揺れる度霧葉はこそばゆさを感じていた。

 霧葉は本を読むのが好きだった。中でも伝記や社会科学の本を好んだ。さまざまな過去の偉人や名君の考えを知るのは好きだったし、また暴君や圧制者の存在を糾弾できることはまさしく『ペンは剣よりも強し』という言葉の通りで、これもまた霧葉の好感を誘っていた。

 霧葉はある意味で、普通と違っていた。それはオーヴァードという意味についても、その出自による使命とでも呼ぶべき生き方についてもそうだった。

 霧葉がオーヴァードとして覚醒したのは、彼女が七歳のときだった。彼女は生まれから特別な家庭で育っていた。彼の父親――だった、という表現が適切だろう――は内閣情報調査室のトップ、内閣情報官の矢田野国頭(やたの くにがみ)であった。内閣情報調査室は内閣府内閣官房のもとでさまざまな情報を収集する、一種の情報機関である。その長である国頭の娘だった霧葉は、幼い頃からある種の英才教育を受けていた。裕福な家庭であったのは間違いないのだが、ある日順調だった霧葉の人生は一変する。

 彼女はある日突然、オーヴァードとしての覚醒を迎えた。それは何かの前兆もなく、吸血衝動に任せて家政婦の一人の喉笛を噛みちぎるという激烈なものであった。正気に戻った幼い霧葉が目の当たりにしたのは、緋色に染まった自分の手と苦悶の表情で絶命した家政婦の姿だった。

 このことは当然、霧葉の父である国頭の耳にも入り、直ちに情報の隠匿が行われた。だが霧葉の能力、とりわけノイマンとしての能力は比類ないものであった。霧葉の身は迅速な保護の手も虚しく、ファルスハーツによって誘拐されることになる。誘拐されたあとの彼女の記憶は混濁したものになる。ファルスハーツによって瀕死の重傷を負うまで拷問を受けた彼女は、UGNの支援を受けた公安により救出されたが、もはや彼女に今まで通りの生活を送ることができないことは、彼女自身が一番理解していた。

 国頭はここで、自分の愛娘を一度死なせることを決意する。それは書類上で死んだことになった上で、新たな戸籍によって別人として新たな人生を歩むということだった。この選択を受け入れた霧葉は、新たに『雨野霧葉』という名を得て生きていくことになる。奇しくも、新たな戸籍として生きていくことになった日は霧葉の八歳の誕生日だった。

 それから彼女は、レネゲイド、ひいてはUGNの存在について深く知ることになる。自身がオーヴァードである以上、UGNとの関わりは切っても切れないものだからだ。またその中で、彼女は国頭を通じて日本の秘密諜報機関の存在を知ることになる。

 『治安省』というコードネームで呼ばれるそれは、日本に分散して配置されている情報機関、公安警察などを統合的に管理する秘密組織だ。本来は旧軍の残党が集まってできた秘密結社であったが、現在は国内外を問わず急造するするテロやレネゲイドの暴走に対処する非公式の情報機関としての役割を持っている。

 霧葉はこの治安省の存在に接したとき、自分のできることについて一つの使命――あるいは天啓――を見出した。内閣情報官の娘でありながら公式には死んでいる、影のオーヴァード戦力。それもUGN日本支部に属さないもの。

 自分は、この国の一億二千万の無辜の民のために戦うのだと、そう決意した。その決意は、まだ年端もいかぬ少女であった霧葉にとってその人生を賭けた覚悟であった。

 以降、霧葉は治安省の実戦部隊のエージェント、そしてUGN日本支部のイリーガルとしての二つの顔を兼ねながら、日々闘いに身を投じている。正義とは何か、際限なく続く闘いの中で答えを探しながら。

 そんな霧葉も、表の顔は高校二年生の女子高生だ。ノイマンとして持ち前の明晰な頭脳を駆使しながら、『普通』を演じている。時々、霧葉はこの『普通』が夢なのではないか、と思うときがある。銃口を突きつけて引き金を引くとき、自分はどう取り繕っても殺人者なのだ。きっと現実は残酷で、夢に浮かされているといつか冷や水をかけられるのだ、と。

 闘いに身を投じる中で、霧葉は今まで友人というものを一人として作っていない。自らの血塗られた手で友達ごっこをするのが、霧葉には耐えられなかった。故に霧葉は、持ち前の思慮深さからクラスメイトからの信頼は厚いものの、未だに親友と呼べるものは一人としていない。人殺しに親友なんているもんか、とは霧葉のいつかの独り言であった。

「――と、いうわけです。さて、きりがいいので少し早いですが今日はここまでにしましょうか」

 教室中が気の緩んだ一息で埋め尽くされた。定刻の五分前に授業が終わって、誰もがちょっとした喜びを抑えずにはいられないようだ。

「今日出した課題図書の感想文のプリントは、来週のこの時間までに提出してください」

 言われて、霧葉は手元のプリントを見る。現代文教師・唐戸輝美(からと てるみ)の推薦したいくつかの小説のうち、一つを選んで読んでくるように、とのことだった。アイザック・アシモフの『われはロボット』、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』、などなど。現代文教師のSF好きが透けて見える選書だ。こういった教師としての公共性をまるで考えていない趣味を見せてくる唐戸教諭に、霧葉はむしろ好感を感じるのだった。唐戸教諭は霧葉のクラス担任も受け持っていたので、四月のクラス替えも気持ちのいいスタートが切られていた。

 五限の現代文が終わり、周囲のクラスメイトは皆帰り支度を始めている。霧葉も机上の教科書とノートをスクールバッグにしまって、教室を出る。霧葉はここでようやく一息を吐いた。

「……コーヒーでも飲みたいな」

 教室を出た廊下の喧噪の中で呟く。歩き出す足音は履きつぶしたスニーカーの音。霧葉の通う高校は私服校だったが、霧葉はなんちゃって制服とも呼ばれるブラウスにスカートの姿だ。霧葉のトレードマークは青い髪色に合ったブルーのパーカーだった。

 パーカーのポケットに手を突っ込みながら階段を降りていく姿は、どうも男子だけでなく女子の視線も引くようだ。171センチメートルの長身は、見た目の清涼感やポーカーフェイスと相まってある種の『王子様感』を感じさせるらしい。四月の新学期クラス替えから二週間が経っているが、霧葉に話しかける女子の目線はそういった羨望を乗せている事が多かった。本人である霧葉は既に一年のときに慣れてしまったようで、あしらい方も板についてきているが。

 一階のピロティまで降りてきて、自販機でアイスコーヒーを購入する。ガコン、という音のあとにコーヒーを手に取り一口飲んで、霧葉はもう一度ふぅ、と息を吐いた。

 きゅっ、と踵を返す。課題図書が出たのは霧葉が高校生になってから初めてで、一年の時に一通り校内を見て回ったとき以来図書館には行っていない。先ほど授業中に読んでいた本も、自分で買った本だった。図書館で借りるという発想がなかっただけなのだが、今回は現代文教師が「図書館利用の機会になれば」という選書だというので、たまには図書館も使おうという気まぐれが今の霧葉を動かしていた。

 ピロティを挟んで本校舎とは反対側に、図書館棟がある。防音のための二重扉を通り抜けて、スニーカーを脱いでスリッパに履き替えて図書館へ。

 入ると、本の匂いが霧葉の空気を満たす。辺りは心地よい静寂に包まれ、パタン、パタンというスリッパの足音だけが響いている。

 (……さて、海外文学の棚かな)

 高校生活二度目の図書館を探索する霧葉。「海外文学(英米)」と札の付いた棚を調べる。

 (……あれ?見当たらないな)

 アシモフ、ハインライン、アーサー・C・クラーク。他にも著名なSF作家の本が見当たらない。他のコナン・ドイルなどはあるのに、SFだけがすっぽりと抜け落ちているようだ。

 (んん……? もう借りられたのかな)

 不意に後ろから、椅子を引く音が聞こえて霧葉は身構える。背後から急に音がすると構えてしまうのは悪い癖だ、と緊張を解く。だが、スリッパの足音は霧葉に近づいていく。

 たまらず振り返った霧葉の目に飛び込んできたのは、静かな佇まいの少女だった。腰まで伸びた黒い長髪に、真っ白な肌がモノトーンのコントラストを浮かび上がらせている。デニムに白のブラウスといった出で立ちで、飾った様子が一つも無い。そして何よりも、171センチメートルの霧葉と同じくらいの背丈故に交錯する視線が――

 (寂しそうな目をした子だな……)

 そう、霧葉に思わせた。そんな彼女の黒縁眼鏡の向こうの瞳は、深く深く澄んだ闇色だった。

「……課題図書をお探しですか」

 不意に彼女の口が開いた。どうにも彼女は動作に前兆が見られないように見えて、霧葉は鼻白んだ。

「あ、あぁ。そうなんです、課題図書を探していて……」

「それならこちらです。課題図書だけ別のコーナーに分けられているので」

 するり、と彼女は霧葉の脇を抜けて、図書館の奥の方へ歩いて行く。あっけにとられつつも、霧葉はその後を追って歩き出した。

「こちらです。先生のご指示でこちらに課題図書の類いは全て移された、らしいです」

「なるほど、助かりました。図書委員の方でしたか?」

「あぁ、いえ。図書委員は別の方です。十六夜さん、でしたか」

「……あれ、もしかして、同じ……」

 十六夜、という名前に霧葉は心当たりがあった。霧葉のちょうど後ろの席がそんな名前だったという記憶に至るまでに数瞬。

「えぇ、雨野さん……でしたよね」

「あなたは……えぇと」

「花穂、憐城花穂(れんじょう かほ)です」

 その少女は静かに名乗った。

「憐城さんでしたか。いやその、同じクラスなのに覚えてなくてごめんなさい」

「いえ、席順で私と雨野さんは対角なので覚えていなくても仕方ないです」

 ノイマンらしからぬ記憶の混濁だが、これは霧葉にとってある種の他人に対する整理の仕方だった。思考リソースを割くべき事に割くのが霧葉のポリシーだからだ。

「……その棚の本は全て一学期の課題図書なので。では私は……」

「あっ、ちょっと!」

 霧葉の中の何かが、この少女を放っておけないと告げていた。たまらず呼び止める言葉が口から出る。

「あー、えっと……なんか……」

「……普段の授業ではよどみなく話される方だと思っていましたが。どうかされましたか?」

「あーいや、オススメの本があればな、とか思って」

「なんとも要領を得ませんが……オススメ、ですか。『ジャッカルの日』を読んでらっしゃいましたよね」

「げ」

「『げ』はないでしょう。後ろからなら丸見えなんですから」

「それもそうか……いや、にしてもあなたは目がいいんだね」

「表紙の絵をよく覚えていたので……それに、授業中に他の本を読んでいる人は目立ちますから」

「もしかして私、不良だと思われてる?」

「……だとしたら私も不良ですね」

 あぁなるほど、と霧葉は合点がいった。

「まぁ不良仲間、って事で。オススメ、教えてくれないかな」

「腑に落ちませんが……課題図書の中で読んだことのあるものは?」

「『夏への扉』と『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』かな」

「とするとオススメしたいのは『2001年宇宙の旅』ですが……」

「アレは映画観たんだ。あんまり原作読む気がしない」

「確かに、好みが分かれますね……」

「花穂さんの読む本は決まってるの?」

「私は全て読んでいるので。お気に入りの感想を書きます」

「じゃあ、私も同じものを」

「喫茶店の注文じゃないんですよ」

「いや、君のこと、もっと知りたいと思って」

「私のことを知ってなんになるんですか」

「……友達になってあげたい。そう思うのは、偽善かな」

 このやりとりの中で、霧葉が感じたことが一つあった。花穂は他人への干渉に消極的、むしろ突き放すような雰囲気さえ感じる。だが、この人は困っている人を見ると放っておけないのだ。優しさと拒絶。その矛盾に、霧葉は彼女の瞳の底の闇を感じているのだった。

「『たったひとつの冴えたやりかた』」

「え?」

「私のお気に入りです。読まれたいならどうぞ」

「……そっか。読んだら君にも、感想を言ってもいいかな」

「どうして?」

「……友達って、そういうことをするんじゃないかな」

 霧葉にも分からない。いつ死ぬか分からない私が、いつも人を殺している私が、友情など語れるものかと。だが霧葉は、目の前の悲しみに暮れているような少女を放っておけるほど、冷酷にはなれなかった。

「……私に友達なんて、いりませんから」

「本当に?」

「どうして疑問形なんですか」

「さっきの本について話しているとき、少し楽しそうだったから」

「……っ」

 花穂はたじろぐ。霧葉は彼女の闇色の瞳の奥に、一つの純粋さを無意識に感じ取っていた。どんなに悲しみに暮れていても、彼女も一人の少女だと。

「どうしても、ですか。どうしても、私と友達になりたいって言うんですか」

「うん。どうしても」

 どうしても。そう言いたいのはこの子の方ではないかと、霧葉は思う。誰かに必要とされたいと、そう願っているのではないかと。「どうしてもですか」という言葉に、霧葉は懇願するかのような雰囲気さえ感じた。

「……どうやら面倒な方に関わってしまったようですね」

「そ。私、めんどくさい女だから。君もそうでしょ?」

「お互い様、ですか」

 そう言う彼女の顔は今までの冷たい闇ではなく、温かい春を感じさせる微笑だった。


「さて、先週提出して貰った課題図書の感想文、一週間かけてじっくり読ませて貰いましたよ」

 二週間後の現代文の授業は、ご満悦といった語調の唐戸教諭の講評から始まった。二年三組三十六人のうち、四人が代表として選ばれ、講評を受けた。その四人の中に、霧葉と花穂もいた。

「『最期に向き合ってなお、誰かを想える優しさと勇気に心を打たれた』これは雨野さんね。雨野さんの着眼点はこの作品を包み込む無邪気な優しさと純粋な勇気みたいですね。いつもの授業も他の本を読まず純粋に楽しんで貰いたいですね?」

「げ」

「『げ』はないでしょう。先生っていうのは案外ちゃんと見てますよ」

 穏やかな笑い声が教室に響く。霧葉は最前列の席なのだから、他の本を読んでいるのは生徒からすれば周知の事実だった。

「『主人公は恐怖で張り裂けそうなはずなのに、たった一人の友達と共に最期に向かっていくのが楽しくてたまらないようで、少し羨ましくなった』これは憐城さん。いろいろな捉え方があるけれど、少なくともコーティーはシルを唯一無二の友達だと思っていたんでしょう。そんな友情を、皆さんにも大切にして欲しいですね」

 霧葉はその講評を聞いて花穂の方を振り返る。瞬間、視線が合った。微かな微笑みを返す花穂は、今や霧葉の『唯一無二の友達』となっていた。

「まさか揃って紹介されるとはね」

「次週からはちゃんと授業受ける気になりましたか?」

「さあ? 課題図書を読んでいたら怒られないかも」

「そういう問題じゃないでしょう……」

 授業後に談笑する霧葉と花穂。呆れ笑いをして霧葉に相対する花穂は、よりどころを見つけたように霧葉を見つめている。

 誰かのために、誰かを切り捨てる。そんな選択を続けてきた霧葉。その道を孤独な道だと思い続けてきた霧葉が、初めて誰かに「優しくすることができた」と言える。霧葉はそんな気がしていた。

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