第37話 引っ越し祝い1
「班長、引っ越したんですか。あたし、班長の新しい家に行ってみたい」
住所変更届や定期券変更の書類を書いているのを見ていた佐々木が、また訳の分からんことを言い出した。俺が引っ越したからと言って、結婚前の女性が男の部屋に行きたいなどと言うもんじゃないだろう。
「引っ越し祝いですよ、班長。ねえ、ねえ、早瀬さんも一緒に行ってみたいでしょう」
「ええ、まあ。篠崎班長がご迷惑でないなら……シャウラも連れて行っていいですか?」
早瀬さんも来ると言うなら、仕方ないか。まあ、ナルの事で心配かけてしまったしな。今週末の休みにでも招待するか。
週末。前と同じように、佐々木は軽自動車で早瀬さんの家に寄ってからこの家まで来たようだな。ここは前と同じ中央の幹線道路沿いの街だ、距離的には前と変わらない。迷わずに来れたようだな。
「班長。マラカとこれも持って先に部屋に戻っていてください。あたしはコインパーキングに車停めて来ますから」
佐々木はマンションの前で早瀬さんを降ろして、俺にマラカの入ったキャリーバッグと手荷物を預けて車を出した。
「こんにちは、篠崎班長」
早瀬さんは、秋らしい茶色のロングスカートに黒い靴、クリーム色のブラウスでおしゃれな装いだ。車の中にいた佐々木はジーンズに大柄模様で編んだグレーのセーターだったな。俺でも持っているような服だ。前に来た時もラフな服装だったが、佐々木はもっとおしゃれしてもいいと思うんだがな。
「荷物はそれだけか」
早瀬さんは、シャウラのキャリーバックを肩に掛けてポーチだけを持っている。まあ、半日程いるだけだからそれで十分なんだが。
ふたり荷物を持ったままエレベーターに乗り込んだが、狭いエレベーターだ、お互いキャリーバックを持って乗ると、体を密着するような形になってしまった。
「す、すまんな、狭くて」
「い、いえ。私は大丈夫ですので……」
三階に到着して解放されたが、今度から俺は非常階段を使うか。そう思いつつ、この階の一番奥にある部屋に案内しドアを開ける。
「さあ、どうぞ」
ドアを開けるとナルがお出迎えしてくれている。
「こんにちは、ナルちゃん。ここ明るい部屋ですね。キッチンも広いし」
前の家に比べたらそうだろうな。キャリーバックを床に置きシャウラとマラカもキッチンに放してあげる。
シャウラたちはナルと鼻で挨拶した後、いつものようにじゃれ合っているな。
「班長~。持ってきた荷物は冷蔵庫に入れておいてくれましたか~」
相変わらず佐々木は自分の家でもないのに、急にドアを開けて入って来やがる。表札はついているから俺の部屋だとすぐに分かるだろうが、全く遠慮というものがないな。
前に比べれば広くなった部屋で、座布団に座ってもらってお茶を出す。
「綺麗な部屋ですね。私のワンルームよりも広いですし」
「築六年の新築だからな。ベランダに出る窓も広くて、昼間に電気を点けんでも明るくて助かっているよ」
「三部屋とも洋室なのに、扉は引き戸なんですね」
ドアノブの付いた開き戸じゃなくて、二枚扉の引き戸になっている。
「佐々木の家のように廊下に面した部屋じゃないからな。部屋を広く使うのと隣のキッチンに光を入れるために二枚扉になっているんだろう」
二枚の引き戸の上半分は曇りガラスで、出窓しかないキッチンに光が入るようになっている。よく考えてあるし、床もバリアフリータイプで各部屋の段差がない設計になっている。
「それにこれだと、ナルが自分で扉を開けられるから都合がいいんだぞ」
「ナル」と大きな声で呼ぶと、隣のキッチンにいたナルが扉に両手をかけて開けて入ってくる。
「うわっ、何! ナルちゃんこの扉を自分で開けられるの!」
佐々木は驚いているようだな。まあ、小さなマラカじゃ無理だろうが、ナルなら前の家の重いガラス戸も開けていたからな。ここの木製の扉ぐらいなら簡単に開けられるさ。
「ナルちゃんって器用なんですね。私のシャウラじゃ無理ですね」
「そんな事はないんじゃないか、前の和室のふすまは自分で開けていたぞ」
扉を閉めて、今度は早瀬さんがシャウラを呼んでみる。扉が少し重いのか苦労しているようだがシャウラも扉を開けて入って来た。
「すごいわね、シャウラ! ナルちゃんに教わったのかしら、すごい、すごい」
入って来たシャウラを早瀬さんは膝に抱いてよしよしと背中を撫でる。マラカも扉の隙間からテトテトと部屋に入って来て、佐々木の膝の上で甘えている。
猫同士、相手の行動を見て学んでいるんだろうな。それぞれ単独飼いの猫だが、こうして集まる事はいいことなんだろう。
「ねえ、ねえ、班長。今日のお昼ご飯はあたしが作るね。お母さんに教わったパエリアをご馳走するわ」
それで俺に食材を持たせて、冷蔵庫に入れさせたんだな。
「お~、そうか。そりゃ楽しみだ。どれだけ料理の腕を上げたのか見てやろう」
「班長、フライパンをお借りしますね。一番大きなのがいいんですけど」
「私も手伝いますね。三人分となると量も多いし」
「あたし一人でも大丈夫よ……そうね、じゃあ食材を洗ったりとか手伝ってくれるかしら」
二人してキッチンでご飯を作ってくれるようだ。おれがフライパンとその蓋を用意していると、早速、佐々木が食材を切っていた。俺も横に立って料理するところを見てみる。
「おい、エビはちゃんと背ワタを取ってくれよ、それに……」
「もうっ、分かっているわよ。班長は大人しく部屋のテーブルに座っていてくださいよ」
佐々木に怒られてしまった。まあ、前よりは料理の腕も上達したようだし、俺は味の審査だけをしようか。部屋に一人座って、ナルの背中を撫でる。
隣りのキッチンからは楽しそうな話声と、料理を作ってくれている音が聞こえてくる。普段は決して聞くことのない音だが、こういうのもいいものだな。
「おお、これは美味いな」
出来上がったパエリアを食べたが、思っていたよりも上手くできているじゃないか。
「でも、ちょっと焦がしてしまいました」
「いやいや、これぐらいのお焦げなら許容範囲だ」
少し黒くなっているが、パリパリで中々美味しいぞ。塩加減もいいしニンニクも効いている。アサリやイカなども美味いが、その出汁が米に染み込んでそれがまた美味い。
「佐々木。相当腕を上げたな」
「そうですか。えへへ」
うん、うん。これならいつお嫁に行っても大丈夫だぞ。俺も師匠としてこれ以上教えることは何も無い。佐々木よ、後は自分の道を進んでゆくのだぞ。
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