第34話 ナル、最大のピンチ2

「どうしたんですか、篠崎班長。最近、元気ないですね」


 ナルがいなくなって数日。仕事が手につかない俺に佐々木が声を掛けてきた。


「実は、ナルが逃げ出してな」

「えっ、ナルちゃんが!」


 昼休み、佐々木と早瀬さんに今までの経緯いきさつを話して相談する事にした。


「猫は家の周りを縄張りとして生活します。そんなに遠くに離れてしまうとは思えませんが」


 俺も早瀬さんと同じことを考えて、仕事から帰ったら毎日マンションの周りを見て回っているが、ナルの姿を見掛ける事は無かった。


「ナルちゃんは、首輪してたよね」

「ああ、そこに住所と電話番号が書いてある」


 誰かが拾っていてくれたら、俺の所に連絡してくれるはずなんだが……。


「外に置いたご飯を食べてくれているんでしょう。ナルちゃん大丈夫ですよ」


 佐々木も俺を慰めてくれる。確かに朝と晩に駐輪場に置いておいた餌は食べた跡があるのだが、最近はその餌さえも食べていないようだ。それにナルじゃなくて別の猫が食べているのかもしれんのだ。


「ナルちゃんは、前の飼い主から譲り受けたんですよね。前に住んでいた場所は近くなんですか」

「三駅離れた場所だ。三駅先と言っても距離にして三キロもない所なんだが」

「そうか、ナルちゃんは元居た場所に行ったかもしれないのね」

「でも、縄張りはせいぜい半径五百メートル程ですので、それほど遠いとなると可能性は低いですね」


 犬ではないので、縄張りを越えてそんなに遠くに行く事はまれだと言う。でも可能性が無い訳じゃない。今週末の休みに、その家の近所も探してみよう。二人にはありがとうと言って仕事に戻る。


 ナルの事を佐々木から聞いたであろう橋本女史にも心配されてしまった。


「どうりで元気がないと思っていたわ。猫の事は分からないけど仕事の方は私がカバーするから、篠崎さんは残業を減らして早目に帰ってもいいわよ」


 班員にまで心配や迷惑をかけて、俺はなんて情けない奴なんだ。



 休日。俺はスクーターの後ろにキャリーバック積んで、前の飼い主が最後に住んでいた家に向かった。ここは家族向けの賃貸マンションで、俺はここでナルとその他の猫用品一式を受け取っている。確かここに住んでいたのは一年弱ぐらいの短い間だったはずだが、その前に住んでいた所はもっと遠い場所だから、ナルが来るとするとここだろう。


 俺はマンションの管理人に事情を説明して、敷地内を探させてもらいたいと言った。ここには何度か来ていて管理人とも顔を合わせている。一、二時間程度なら敷地内を探しても良いと許可をもらった。

 このマンションの敷地内には駐車場や花壇もあり、猫が隠れられそうな場所はいくつかある。


「ナル、ナル」と呼びかけながら暗くて狭い場所を探して回る。臭いでもこちらに気づいてもらえないかと、手には猫のおやつを持って探して回る。だがナルは何処にもいなかった。非常階段を登って八階の最上階まで行ったが廊下にも階段にもいなかった。


「どうだい、猫は居たかい」


 管理人の人も心配して声を掛けてくれたが、これだけ探しても見つからないのなら、ここには居ないのだろう。


「すみませんでした。どうもここには居ないようです。お世話をおかけしました」


 家へ帰る途中も、暗い場所を見つけたら道の端にスクーターを停め、ナルを探しながら三キロ程の道のりをゆっくりと帰って来た。だが猫が歩くにしては、この道のりは少し長すぎるように思うな。


 猫を飼い始めて一年半ほどの俺は、猫が外でどんな行動を取るのか全く分かっていない。

 早瀬さんに聞いた話だと、住んでいた家の周りから遠くへは行かないと言っていた。しかし外には同じ縄張りを持つ野良猫も居るだろう。そんな猫と喧嘩して遠くに行く事もあるんじゃないか。

 とにかく俺の家近辺と、もう少し捜索範囲を広げた所を丹念に見て回ろう。今の俺にはこんな事ぐらいしかできることはない。すまない、ナル。お前を守ってやることができない不甲斐ない飼い主を許してくれ。



 そしてナルが見つからないまま、また一週間が過ぎた休みの日。ドアの向こうで何かが引っ掻いているような音がした。

 ナルか! ナルが扉に貼ったプレートを引っ掻いているのか!

 急いでドアを開けると、大柄の茶トラの猫がそこにいた。その猫は俺が明けたドアの隙間から躊躇もせず部屋の中に入って来た。俺があっけに取られて見ていると、ナルのトイレの方に行って臭いを嗅いでいる。そして部屋を見渡して「ミャーオ」と鳴いた。首輪はしていないが明らかに人に馴れた元飼い猫だ。


 ナルがいなくなってから三週間。もうナルは帰って来ないかもしれない。この猫をナルの代わりに飼うのはどうだ。これだけ人馴れした猫なら、すぐ俺に懐くだろう。この茶トラの猫と一緒に過ごす生活が頭をよぎる。


「コラ!」


 俺は大声を上げた。その声に驚いて部屋にいた猫はドアの方へと走っていく。それは俺自身への叱責だ。


「すまない……お前と暮らす事はできないんだ」


 ゆっくりとドアを開けると、茶トラの猫はドアの外へと駆けて行った。すまない……。すまない……。

 そう謝ったのは、俺の家に迷い込んで来た猫に向けてなのか……今ここにいないナルに向けてなのか……。俺は玄関前に膝をついて、誰も帰って来る事がないドアを見つめ続けた。

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