口紅よりも鮮明な(唇を噛む)

 誰かと触れ合うのは、途方もない彼我の距離を、ほんのひとときでも忘れていたいからだ。どのようにしても決して超えることのできない深い溝が、少なくとも肉体的には、今はないのだと思っていたいからだ。

 目の前の体は、最も露出の多い顔部の最も内部に近い部位、すなわち唇を、私の唇に押し当てている。私にとってはまだ数度目の行為を、慣れたやり方でリードしていく。

 これをどういう気持ちで受け入れるべきなのか、私にはよく分からない。けれども、そのくすぐったさは嫌ではなかった。

 ほんの僅か、くらっとした瞬間、鋭い痛みが走って、私はその柔らかい体を反射的に突き放した。

「痛……」

 目を細める彼女の口元と、ずきずき疼く唇を拭った手の甲に、同じ色。口紅なんかよりも、よほど鮮明な。

 彼女はくすくす笑って、自身の唇を舌で舐めた。私から出たものが、彼女の中に入っていく。

 最初に、何でこんなことを、と思った記憶は、もう薄い。くちづけの度に走る痛みには慣れないけれど、それも含めて、だんだん癖になりつつある。

 彼女の中に私の最も濃いものが入っていくのを眺めるのが、愉しくなりつつある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る