期待とトラウマ


 がさこそと、ベットから起きる音がして、小さな足音が部屋の外に出ていく。追いかけて食卓へと行くと、キー、とかすかにドアの開閉音が鳴った。この方向はおそらく、よくテトが鍛錬で使っている部屋だろう普段はもっと開閉時に悲鳴のような音が鳴るのだが、眠っている俺たちを起こさないよう配慮しているようだった。

 

 俺も同じように、静かにドアを開ける。それでもやはり、キーっとかすかな音が鳴ってしまった。でも気づかれた様子はない。暗い部屋の中には、人型のシルエットがおぼろげに浮かび上がっていた。


「どうして、どうして使えないの。なんでっ!」


 囁くような小さな声。けれどそこには抑えきれない焦燥が滲み出ていた。シルエットは、何度も何度も繰り返し虚空に手をかざす。自身の後から部屋に入ってきた俺の存在に気づく余裕すらないほど必死に。


「エル……?」


 声をかけると、エルはびくっと肩をはねさせて、こちらを向く。


「今の、見てたの……?」

「ああ」

「なんで……」

「自分じゃ気づいてないかもしれないけど、おまえ最近隈がすごいんだよ。そりゃあ、なにか夜になにか無理してるんじゃないかって思うだろ」


 そしてエルが夜な夜な無理することといえば、一つしかない。浄化魔法の開発だ。


「すんなりできないのなんて当たり前だろ。オリジナルの魔法を開発するのは難しいらしいし」

「違う。そうじゃない。ボルドルさんの誕生日までに使えるようにならなきゃって焦ってたのは、そりゃあ確かだけど。でもそれだけじゃない」

「それだけじゃないって、さっきやってたのは明らかに浄化魔法だろ」


 そう尋ねるも、エルは答えない。ただ黙っているんじゃなくて、どう言おうかと悩んでいるのが空気で伝わってきた。


「今使おうとしてたのは、浄化魔法じゃない。クリーンなの」


 たっぷり時間をかけて、やっとエルはそう答えた。


「え? いや、そんなわけないだろ」


 だって、さっきエルはなんで使えないのって言ってたんだ。エルはクリーンを毎日のように使ってたじゃないか。


 エルはその場に崩れ落ち、床に手をついた。


「マサト。わたしクリーンも使えなくなっちゃった。正真正銘の、役立たずになっちゃった」


 突然の告白に、俺はただ呆然と立ち尽くした。




「いつからなんだ?」


 ぼくは壁に寄りかかって座るエルの横にあぐらをかいて尋ねた。


「覚えてない。でも、ここ何日か。朝にみんなにクリーンを使おうとしたら、発動しなくて」

「なんで隠してたんだよ」

「だって期待、してくれてたから。マサトはわたしが瘴気を消せるって思ったから、仲間に選んでくれたんでしょ? その期待を裏切って、失望されたくなかった」

「たしかに頼むとは言ったけどさ……」


 でも俺はそんな呪いみたいな意味で言ったわけじゃなかったのに。でも気軽な気持ちでかけたその一言が、両親に捨てられた経験のあるエルにとっては、潰れてしまうほど重かったのか。


「俺の期待で頑張りたいってそう思ってくれるのは嬉しいけどさ。それでエルが頑張らなきゃいけないって思うのは嫌だよ。だから、無理しないでくれ」


 エルは「はっ」と力なく笑った。


「自分はさんざん無理するくせに、勝手なことばっか言うじゃない」


 痛いところをつかれて口ごもる。


「わかってる。うまくいかないからってぶっ倒れるまでやったって好転なんてしない。むしろ効率を落とすだけだって。そんなのわかってるけど、でもどうしても怖くなっちゃって」


 暗闇に目が慣れてきたのか、その表情もいくらか読み取れるようになっていた。そのしおらしい顔をみて、ぼくはエルはやっぱり、いつもちょっと怒ってるくらいがよく似合うとそう思った。


「なあ。俺を見ろよ、エル。俺はまだ自分の魔法がどんな魔法かもわからない役立たずだ。でも、孤児院のみんなも、そしてエルも、俺を受け入れてくれた。だから瘴気が消せなくたって、クリーンが使えなくなったって、どんなエルでも俺は受け入れるよ」

「うん。わかってるよ。わかってるけど、こういう怖さって理屈じゃないから」


 わかっていてもどうしようもならない。それがトラウマってやつなのだろう。両親に捨てられてできたエルの傷は深く、まだ癒えていない。


「別にそんな顔しなくても大丈夫。あんたの口から直接聞いて、なんかちょっとホッとしたっていうか、大丈夫なんだって、ちゃんと思えた……から」


 声に力はなかったけど、やせ我慢というわけでは無さそうだった。その証に張り詰めていた表情が、今は大分やわらいでいる。


「エルが頑張り屋なのは知ってる。だから、そんなエルが無理って時はきっと、努力じゃどうにもならない別の問題があるってことだと思うんだよ。魔法はエルしか使えないけど、その問題がなにかとか、どうしたらいいかとか。考えるだけなら俺も一緒にできるから。なにかあったら一人で抱え込まずに、俺にも一緒に悩ませてくれよ」

「……うん。なんか急にまぶたが重くなっちゃった。ちょっと、休ませて」


 そう言って、エルはあぐらをかいた俺のふとももに頭を降ろし横になる。その口から、すー。すーと静かな寝息が聞こえてきた。


 これで、睡眠不足が解消されればいいんだけど。


眠ったエルをどうしたものかと思案していると、


「お前たちは、瘴気を消そうとしてるのか?」


 突然聞こえた声にびくっと体が跳ね、せっかく寝たエルを起こしてしまいそうになる。

 

 ボッと暗闇に小さな火が浮かび、人形のように精巧な作りの白い肌がオレンジ色に照らし出された。


「ヨル。聞いてたのか」

「気になったから、様子を伺っていた。それより、瘴気を消すというのは、色々とまずい」

「ああ、テトに聞いた。エステリカ教って宗教の教えに反する可能性があるとかなんとか」


言っていて、もしかしてこれは知られるとまずいことなんじゃと気づいた。


「知ってたのか」


ヨルの感情の伺えない問いに、俺はごくりとツバを飲み込んだ。どのみちもう隠すことはできないだろう。なら、正直に言うしかない。


「ああ。知っててやろうとしてるんだ。なあヨル。このこと、神父様や他の人には黙ってて」「ならまあいいか」

「え? いいのか?」


 そんなにあっさりと流されるとむしろ不安になってくる。


「この話、教徒に知られると、やばいってめちゃくちゃ念を押されてるんだけど」

「わたしは別に、神なんて信じてない。だからどうでもいい」


 そういえば、エルに最初瘴気を消すって話をした時もそんなに気にした様子がなかったよな。


「もしかして俺が敏感になってるだけで、実際は教えを信じてる人って、そんなにいないのか?」

「それは違う。教徒も多い。知られたらヤバいというのも正しい。少なくとも神父様には、話さないほうがいい」


 楽観的になりかけていた俺の考えを、ヨルは食い気味に否定した。ヨルからしても、瘴気を消すという目的は、それくらいヤバいということらしい。


「じゃあヨルはこの話、神父様や他の人には黙ってくれるってことで、いいのか?」

「別にいい」

「そうか、助かるよ」


 どうやら面倒なことにはならずに済みそうだ。そう安心した途端、


「あ。」


 とヨルはなにかを思い出したように、無機質な声を漏らした。


「やっぱり良くない。このことを黙っていてほしいなら、条件がある」


 と、文面だけなら極悪非道な脅し文句だが、ヨルが言うと大根役者がカンペを読まされているような、なんとも気の抜けた感じになってしまう。寝ているエルを気遣って、小声になっているのもそれに拍車をかけていた。


「なんだよ。その条件っていうのは」


 「一体なにを言う気だっ」と、身構える気が微塵も起きない。多分たいした事は言ってこないだろうなという謎の信頼感が緊張感を消し去っていた。


「あっ」とか言ってたし。


「わたしも、仲間に入れてくれ。みんなだけこそこそなにかしてるのに、仲間外れは嫌だ」


 それはまるで子供のような可愛らしいお願いだった。表情が変わらないせいで、どこまで本気で言ってるのかよくわからない。でもまあバレてしまったからにはこちらに拒否権はないわけだし。ただ、


「一応言っておくと、この舟、泥舟らしいけど」


 もしくはタイタニックか。まあ、こっちの世界じゃ誰にも伝わらないだろうけど。


「大丈夫だ。私は泳ぎがうまい」


 なぜかヨルはふんっと袖をめくり、上腕二頭筋の力こぶを強調した。それ、泳ぎと関係あるんだろうか。というか、そもそもそういうことを聞きたかったわけじゃないんだけど……まあ、いいか。


「なら大丈夫だな」


 俺は色々と考えたのち、最終的に思考を放棄した。


 それから俺とヨルは、眠ったエルをそっと抱えてそろりそろりとベットまで運んだ。


「おやすみ、ヨル」

「ああ、おやすみ」


 聞こえるか聞こえないかぎりぎりの声量でそんなやりとりをして俺たちは再びベットに入る。


 その日見た夢で、俺は競泳水着を着たヨルがバタフライでプールをひたすら往復しているのを延々と見せられることとなった。それが良い夢か悪夢かは判断に迷うところだった。

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