第1話「水落鬼」
一晩を見知らぬ豪邸の一室で過ごした
馴染みの無い場所なので、方角は全く見当もつかない。普通なら夜明けの時刻なのであるから日の出の方角が東なのだが、太陽はどこにも見当たらなかった。不思議な事に空全体が段々と明るくなってきているのだ。
この奇妙な光景が、ここが冥界である事を閃月に認識させた。
そして、すでに自分が死んでしまっていると言う事もだ。
「これは、信じるしかないか……」
昨日、冥界の獄卒だという
だが、生きているとしたら奇妙な事も確かにある。
先ず、閃月は自分の過去の事を殆ど思い出せない。自分の名前は思い出せるし、身の回りの物の名前やも使い方も分かるし、字も問題なく読める。だが、自分が過去――生前に何をしていたのかがすっぽりと抜け落ちている。
これだけならば、単に記憶喪失の人間に疫凶が噓八百を並べ立ててたばかっているだけの可能性もある。しかし、自らの肌をよく観察してみると、まるで貧血の様に血の気が通っておらず、体温も感じられない。まるで死体の様だ。
というか死体なのだろう。
加えてこの太陽の無い不思議な光景だ。もう自分が死んで冥界にいると信じるより他に無い。死んだと言われると少々気が重いが、現実としてそうなのである。最早受け止めて割り切るより他に無い。
だが、素直に割り切れない事もある。
冥婚の事だ。
閃月は、
だが、これは閃月にとっても陽華にとっても、ありがた迷惑である。もちろんこの時代においては恋愛感情で結婚する事は非常に稀だ。そのため、家の意向で見も知らない女性と結婚する事については、閃月も覚悟していた。それが袁一族を継ぐ者の義務であることは承知している。しかし、それとて一応本人の意思を確認するのが慣例だ。
「そもそも、武人に女がいるか?」
そんな事を呟いた時、閃月は自分が今奇妙な事を考えていたのに気付いた。
袁一族を継ぐとか、自分はそういう立場だったのであろうか。
また、武人とは一体どういう事か。閃月は、見た目からするとまだ少年と言っても差し支えが無い。寝室に置いてあった鏡に映る自分の顔を見た閃月も、その様に認識している。そしてまだ背は低く線も細いように見えるので、とても武人の様には見えないのだ。
精神を集中させ、他にも何か思い出せないかと心の奥底を探ってみる。だが、残念ながら靄がかかったような感触があり、何も思い出せなかった。
諦めた閃月が屋敷に帰ろうとした時、何かの声が耳に飛び込んで来るのに気付いた。
「これは……誰かの泣き声か?」
たった今、精神を集中させて研ぎ澄ませたばかりだったために、そのか細いすすり泣くような声が聞こえて来る。気になった閃月は、声のする方へと慎重に歩いて行った。
ここは冥界であり、生前の常識が通用する世界ではない。現世なら最悪の場合でも女性を利用した物盗りぐらいだろう。だがこちらの世界では、まだ閃月は詳しくは知らないが、何か恐ろしい、神話や伝説で語られる様な化け物が出現してもおかしくはない。
だが、それでも泣いている者を放っておくわけにはいかない。覚悟を決めた閃月は、そのまま歩みを進めていった。
「おやおや。新婚さんが新妻を放っておいて朝帰りですか? しかも別の女性を連れて。これは感心できませんなあ」
「違いますよ。夜が明けてから外に出たのだから朝帰りじゃありませんし、そういうんじゃないって見れば分かるでしょう」
屋敷に帰った閃月を玄関で出迎えたのは、冥界の役人である疫凶だった。奥には陽華もおり、閃月の方をじっと見ている。
疫凶が言う通り、閃月は一人の女性を連れて帰った。泣き声のする方に行くと彼女がおり、放っておくことが出来ずに連れ帰ったのだ。彼女は若い女性の様であるが、髪が乱れておりその顔立ちはよく分からない。そして、不思議な事にその全身がずぶ濡れであり、ずっと水滴を垂らし続けている。
屋敷まで少々歩いて来たのだが、乾く様子は全く見られない。
「どうやら、彼女は水に溺れて死んだようですね。しかも、何か強い思い残しがあって
疫凶は一転して表情を引き締めた。疫凶が言う様に、何か強い思いを抱いたまま死んだ者が、鬼として出てくる話は、閃月や陽華も聞いた事がある。しかし、それは単なる迷信としてだ。まさか現物を見るなどとは思いもよらなかった。
「ちょうどいい。お二人に何か仕事を頼もうと思っていたのですが、これにしましょう。彼女の思いを晴らして、救ってあげてください」
鬼だとか化け物だとかは方士が対処する話である。生前の二人は全く関わったことが無い。事もなげに言う疫凶の言葉に、二人は顔を見合わせた。
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