第2話 さあ、変化は確実に
「レティ様、お帰りなさいませ」
「ただいまヴェルヴェット~……本当に疲れました……」
しばらく屋敷を留守にしていたフルーレティは、帰って来るなり自室に直行して、だらしなく寝具に身を沈めた。
彼女が脱ぎ散らかしたファーコートを、ヴェルヴェットが拾ってハンガーに掛ける。
「下層の様子はどうでしたか?」
「なんかグッチャグチャで、よくわからなかったです」
フルーレティは力なく答えた。
「結局、誰が人間を招いたのかあやふやなままですし。現状はドクター・ロキが一番の容疑者ってことになってますけど、誰かが彼女に都合よく罪を擦り付けてるって考えの悪魔たちと、意見が割れて……魔具の是非がどうだの、話が横道に逸れたりして」
「それで、渦中の人間の方は今どこへ?」
「なんと、一番街で面倒を見てるそうですよ。ルシファーの側近が直々に」
夢みたいな好待遇ですよねー、とフルーレティは笑う。
「地底の上級悪魔であっても、そんなポジションなんて到底狙えないのに」
「……確かに、我々からしてみたら、とんだシンデレラストーリーです」
もぞもぞとシーツの海を泳ぎながら、落ち着きなくタイツを脱ぐ。息苦しく締め付けられていた脚が解放される。
「まあ、そんな下層の事情なんて、どうだって良いんですよ。私は早く十番街の様子が見たくて堪らなかったです」
「こちらは、特に変わりありませんよ」
「それなら良かった! 私にとってはこの街だけが大切で、それ以外の場所のことなんて正直どうでもいいですし」
フルーレティは上半身を起こして、広い窓越しに街の光を見る。
「ふふ、相変わらず美しいです。下層が勝手にいがみ合おうが、地層が醜く荒れようが、ずっと、ずっと守ってきた私の地区。今日も愛していますよ」
失わないで。変わらないで。
愛しいものが変わってしまうなんて耐えられない。
ただでさえ、最近は徐々に人口が減って、気が滅入っていたというのに。
「……あの、フルーレティ様」
ヴェルヴェットは、そんな主にどうしても自分から告げられなかった。
彼女のお気に入りの住民であるネオンが、十番街を出ていこうとしていることを。
「どうしました? そんなに強張った顔をして」
「いえ……」
代わりに、ネオンからの”お願い”について切り出すことにする。
「その、レティ様は、このお屋敷に住民をひとり、招いたら……お気を悪くされますか」
「客人のひとりやふたり、好きにしなさい……って、あなたが客人を招待したいのですか? 珍しい」
「招待、というより、共にここに住んで欲しいと思っているのです。もちろん、ご本人の承諾があれば、ですが」
「メイドとも誰とも慣れ合わなかったあなたが、誰かと共に? いったい最近は、どうしてしまったのです」
フルーレティは明らかに動揺していた。
(この子を変えたのは、あの店員の少女……?)
最初は、見慣れぬ珍しい姿を微笑ましく思っていた。
だけど、自分の与り知らぬところで変えられていく彼女の可能性を、フルーレティはいつしか恐ろしく思うようになっていた。
変化は死だ。
肉体の死が存在しない上級悪魔にとって、魂の変質こそが、実質的な死。
フルーレティは従者に死の影を見た。
「どうして……?」
「え?」
「私は嫌です……っ! あの子とこれ以上一緒にいたら、あなたは変えられてしまう……」
「私の変化を、嫌、とおっしゃったのですか」
「だって、そうしたら、前までのあなたはいなくなってしまう……」
「レティ様?」
困惑した表情で、ヴェルヴェットは主を見た。
主の考えが理解できぬ自分を、申し訳なく、そして不安に思った。
「いなくなるわけが、ないです。私が新しい価値観を……恋を、手に入れたところで、変わらずあなたの従者です」
「違うんです、ヴェルヴェット。そういう問題じゃないんです。古くなった肉体を捨てて生まれ変われるあなたたちに、私の感覚はきっと理解できません」
わからない、とヴェルヴェットは心の内で呟く。
種族差。飛び越えられない溝。
不死に近い悪魔が抱える不安が、どのようなものなのか、まるで想像がつかなかった。
(加えてネオン様が去ると知ったら、レティ様は……)
ヴェルヴェットの胸中に、灰のような心苦しさが降り積もっていく。
そして、下層で起きた事件については、これまでの大騒ぎが嘘のようにあっさりと収束を見せた。
地底のニュースはまだしばらく賑わっていたが、じきに話題は新しい事件に取って代わられるだろう。
ただの一住民でしかないネオンとシーシャは、垂れ流しになっていたスマホから事件の顛末を知る。
「ロキの言った通り、地底のほとぼりなんて本当にすぐ冷めるモンなんだな……」
「ふーん、そんな事件があったんだ」
「あんたはもう少し世の中を気にしなさいよ」
ネオンは野菜スティックに手を伸ばす。
興味なさそうに、シーシャは一瞬だけニュース画面に視線を投げた。
「このひとが犯人なんだねー」
地上にポータルを開き、その罪をロキに被せたのは、下層育ちのひとりの召使い。
なんでもその悪魔は、こっそり地上から好みの人間を攫ってきては、愛でたのち喰らうのが癖であり常習だったという。
「悪魔同士でやってるぶんには掟破りにはならないのに、どうしてわざわざ規制されてる地上の人間を選んだんだろ?」
シーシャがさらっと怖い地底事情を明かす。
「掟破りだからこそ、興奮したり価値があると思ったりしたんじゃないの? 知らんけど」
「ふーん」
「にしても、ロキの奴、都合よく悪者にされすぎじゃない? 連絡ついたと思ったら『よくあることだから、気にしなくていいよ』とか言い出すし、どんな生活送ってたらそんなに慣れきった態度が取れるんだよ」
「あー、騒ぎになってもなんか許される感じのひとって、いるよね」
「そんな軽い感じで流されても……」
ネオンは野菜に短い牙を突き立てて、ぼやいた。
「でも結局、魔具が危険因子だっていう決定は変わらずだし……研究も一時凍結されちゃったみたいだし。あいつ、それでも呑気にしてるんだよ」
ネオンへの七番街への誘いも、覆ることはなく。
冤罪もとばっちりも、全く痛手に捉えていない様子で、ロキが笑っていたのを思い出す。
「なあに、規制されたらこっそりやればいいだけさ」
「うわ、びっくりした」
ガラガラと窓が開き、噂話の本人が突然、顔を出したのを見て。ネオンは思わずブラッドマヨネーズの小皿を取り落としそうになる。
「シーシャ、窓の鍵忘れてる!」
「えー? どうせ地底に鍵なんて意味ないじゃん」
「やっぱりそれが一般住民の防犯意識かあ」
「なんだその反応は」
ネオンがシャッターを開けてやると、ロキは片手でピースサインを作りながら室内へと入ってきた。
「やあやあ、こんばんは」
「連絡してから来いよな。っていうか、もうフラフラ歩いていいわけ?」
「言ったろう、あの程度は大天才のワタシにとっては日常茶飯事だと。気にすることはないよ」
その余裕の中に、ネオンはロキの積み重ねてきた年数と、悪魔人生経験を垣間見た。その若く飄々とした姿で何年、あるいは何百年生きているのか知らないが、今回の一件は彼女の生活にとって本当に些細なことなのだろう。
「下層なんていっつもこんなものだよ。怖気づいたかい?」
「……まさか、今さら。で、何の用?」
「キミの気が変わっていなくて嬉しいよ! 一緒に引っ越し先を見に行かないかい? ワタシの今までの拠点は、見張られて居心地が悪いしさ」
ロキはスマホに映った不動産情報を掲げて、にっこりと笑った。
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