一盃口の頻出単語

一盃口

始めに 引用とは

 これからは自分で考える時代だ、だから学校のセンセイの言うことに100%従うのはやめなさい。これは最近よくある言葉ですね。

 しかし、本を読んでいると、本の文末には参考文献一覧というものがあり、そこではつまり、こんなお偉いセンセイがこう仰っていたからこれは正しいんだ、と自分の意見に利用しています。これは傍からみたら矛盾しているように聞こえます。


 しかし、これは自分の作品の内容が正しいという責任を他人に転嫁するという無責任を示すものだけではありません。

 例えば、平行四辺形の証明があります。ここで書くと分かりにくくなるのですが、

四角形abcdの二組の対辺がそれぞれ平行である、という証明の時、


1.二組の対辺がそれぞれ等しいという仮定のとき

△abcと△cdaに於いて

仮定よりab=dc,bc=da……①

同一の辺なのでac=ca……②

①,②より三角形の三組の辺がそれぞれ等しいので

△abc≡△cda


よって∠acb=∠cad,∠bac=∠dca

従って錯角が等しいのでab//dc,ad//bc


 このとき、かなりの事項が省略されています。三角形の合同条件が正しいこと、錯角が等しければなぜ二辺が平行なのか。


 たぶん、この二つはすでに証明されています。しかしその証明をこの中に挟むと証明は冗長なものになります。当たり前のことを証明の中には入れないということもあります。

 高校に入ると、この当たり前がどんどん拡張されて意味不明になっていきましたね。


 ここで証明された平行四辺形の成立証明は、

 よって、二組の対辺がそれぞれ等しいので、この四角形は平行四辺形である、と省略されます。

 ピタゴラスの定理も当然のものとなり、その証明は省略された状態で余弦定理が導かれます。


 私達は、実はその拡張されすぎてよく分からなくなった、当たり前を割と使いこなしています。

 例えば、人間の定義とは。きっとこの問題は永遠に解き明かされませんが、しかしそれでもなお、私達は直感で人間か非人間かを見分けています。

 非人道的、そういった言葉が直感的に使われているでしょう。ナチスのホロコーストとかを形容する時に。なぜ人を大量に殺めてはいけないのか、まず、なんで人は殺されてはいけない価値を持っているのか、どのようなことをもって死を定義するのか、なぜ心臓が止まり、脳も停止し、動きを失った生物を死と見做すのか、そのような問を予め解き明かされたものとして、当たり前として。その当たり前をなるべく可視化しようと試みるのが引用と参考文献の表示という試みです。その文献を追っていけば、根底となる考えに行き着いて、その当たり前が自明なものとして、その始めからきっと理解できるようになると考えられています。

 現代の民主主義の基本原理は多数決ですが、多数決はヒットラーという悪の代表と定義される人を生み出しました。ですから、多数決も怪しいものです。そして、引用の上に重ねられたものも、誤った文献から引用して出来上がったものは誤っているものになります。多数決は、人々の直感、良心には上手く添いますが、専門的で複雑な判断には欠きます。では独裁では、理論的に正しい施策を行うことが可能ですが、その理論が全体的に正しいかどうかはわからない、そしてその理論以外の理論に対して知識が足りないこともあり得る。この折衷は悩ましいものですね。


 その僕にとっての、(多分読者様には混乱するものでしょうが)当たり前をちょっとここではまとめておきます。もちろん、その当たり前が出発点ではないです。もっともっと昔には遡る必要があるでしょうが。



補記:読者様からコメントをいただきました! 大学で習う「引用の目的」だそうです。まだ知らないで書いた身なのでなるほど、となりました。かつ、己のシッタカが露呈してハズカチイですね。(*/ω\*)



「参考文献一覧は「自説の正しさはこれらの文献に担保されている」と責任転嫁している訳ではなく、「これらの文献を正しいと仮定した結果、このような仮説に至った」という根拠を示しているだけですよね。

理系文系を問わず研究をしていると、二十年かそこらで仮説の基となったデータや理論が覆されて別のものが定説となっているというのは日常茶飯事ですし。


自然科学においても人文科学においても、科学的思考においては「あらゆる学説は仮説の域を出ず、通説となっているものは絶対的な真実ではなくてその時点でもっとも広く支持されている仮説にすぎない」という視点を忘れないようにしたいですね。


まぁ、だからこそ厳密な条件で取られたであろう公的なデータなり公的文書なりを証拠として引用する文献が多いわけですが。

逆に、何のデータ的な根拠もなく「自分はこれが正しいと思うから正しいんだ」と言ってもあくまで主観的なものの押し付けにしかなりませんし。

参考資料の正しさは読者が検証して判断すべきかと。

むしろ、参考文献を参照してその是非を考えずに著作だけで「これは正しいはず」と決めつけてしまうのも、読者の思考停止と言えるかもしれません。」



とのことです。数学の証明で良かったんですね、仮定から証明を導くという。

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