第94話 なんと、事件なのだ その四
その絵は、一枚の肖像画だった。
モノクロの世界の中で、それだけが彩り鮮やかに見えたのだ。
実際、カラーで描かれているみたいなんだけれど。
うす暗いお座敷の中、その肖像画だけが、はっきりと色彩を伴って視界に飛び込んできたのさ。
周りにペタペタと書やら水墨画が貼ってあるけど、それさえなければ、それは正面の壁のど真ん中。一番良い場所に、その絵は掛けられていたのだ。
わたしの目は、その絵に釘付けになる。目に留まりやすい、というだけではない。周りが書だの水墨画だのの中、まさに異彩を放っているんだよ、この絵は。
うーーーん?
それにしても、この絵の画材はなんだろう。油絵とも水彩とも違う。
強いて言えばパステルっぽいのかな。この世界に、パステルながあるのかどうかは知らないけれど。
しかも、なんだか妙に写実的。さっき見た手配書も、かなりのものだった。
さすがに写真とまではいかないよ。でも、この肖像画も負けず劣らず写実的なタッチで描かれとる。
でもって最大の謎は、この絵のモチーフなのだ。
肖像画なんだから、人物が描かれているに決まっている、とお思いのそこのキミ。
その人物が、この世界にいるはずのない、自分の良く知る人物だったどうするね?
例えば、クラスメートとか、兄弟とか、あるいは恋人、あとは……両親とか。
そして……、こ、これは?
そこに描かれていたのは、わたしの今は亡き両親なのだ。
思わず、目頭を熱くしながら、その絵を食いいるように見つめるわたし。
おや? なんか端っこに文字が書いてある。
なになに、『我が友人、農の聖人様たち』か。
その書き込みに続くのは、なんだろう。
数字は、年号とか日付かな?
最後のは、描いた方のサインかな。
ウ・ル・リ・ッ・ヒ?
ウルリッヒ?! ウル翁なの?!
この絵を描いたのは?!
二度びっくりだ! ウル翁ってば、こんな趣味まであったのか。
思わず後ずさりをして、今さらながら、そのお部屋を見渡すわたし。
この数々の作品が、ウル翁の手によるものなのだっだとしたら、この古民家風のお家はウル翁のものなんだろうか。
何故、こんなところに両親の肖像画があるのか? しかも、それがウル翁が描いたものかもしれないだなんて。
謎は深まるばかりでございます。
しかしだよ。わたしは、本当はわかっているのだ。
その肖像画に描かれているのは、自分の両親などではないことに。
だって若いんだもん、描かれている方々。
そりゃまあ、わたしの目から見ても、うちの父ちゃんと母ちゃんは若々しい方々だったよ。
だからといって、この絵に描かれた人物たちには、皺ひとつないんだぞ。
どう見ても、わたしより、せいぜい十歳くらい年上のような若者たちにしか見えない。
おっちゃんやルドルフさんたちと、同世代くらいにお見受けする。
そりゃもう、別人に決まっている。他人のそら似ってやつなんだろうね、残念ながら。
それより気になるのは、この絵を描いたのが、本当にウル翁だとしたら、彼はいったい今おいくつなんだ?
記録によれば、もう何十年もの間、この国には聖人様が現れてはいないっていうじゃないか。
あの肖像画の人物が、本物の『農の聖人様』だとしたら、あれが描かれたのは、少なくとも何十年か以上昔の話ということになるのだ。
ますます、謎は深まるばかりでございます。
と、考え込んでばかりはいられない。
今宵のわたしには、大きな
少しだけ、というかホントはかなり後ろ髪を引かれる思いを振り払って、そのお部屋から廊下へ戻る。
とりあえず、今度は、この廊下を端まで進んでみることにしようではないか。
なんて思って再びそろりそりと歩く、わたしの目の前に現れたのは……。
これは土間かな?
わたしは、履いていたソックスを脱ぐと、それをジャージのポケットに突っ込み、とんとんと、一段下がった床まで降りてみる。
足の裏側に伝わるのは、ひんやりとした固い土の感触。念のため、しゃがみ込むと、平に均された
やっぱり土間だ。
明り取りの窓から差し込む、薄い月の光を頼りに目を凝らすと、そこにみえるのは薪で煮炊きするタイプの竃。
その上に乗っかっているのは、まごうかたなきお釜。その傍らに並んでいるのは、大小のかめ。ひしゃくもある。
昔は農家をやっていた、田舎のお婆ちゃん家が、こんな感じだった。
お婆ちゃんが大好きだったわたしは、テンションが上がるぜ。
竃の周りを、うろうろとしながら、あれこれと観察する。
よく手入れはされているけれど、最近は使った形跡がない。
ふむふむ。このお屋敷の主、近頃は、あんまりここを訪れないようだね。
次に、実は最初から気になっていたかめを調べる。
だって懐かしい匂いがするんだよ、そのかめの数々から。
その内のひとつの蓋を、そっと開けて、中を覗き込んでみれば……。
これは、お味噌だ。どう見てもお味噌だ。この香りは味噌に違いない。
味を確かめてみたいけど、いきなり指を突っ込むのは、気が引ける。
ものすごーく気になるけど、確かめるのは、また今度にしておこう。
お味噌があるってことは、あれもあるのかな。
わたしは、きょろきょろと辺りを見回す。
目に入ったのは、奥にある棚。
そこには徳利風の容器やら、食器やらが並んでいた。
あれかしら?
わたしは、棚に近づくと、その徳利風の容器の一つを手に取る。
むー、以外に重い。
でも、中身が入ってるって証拠だよね。
その口にしてあった栓を抜いて、中の香りを伺えば……。
やっぱり、お醤油だ。
そっと徳利を傾け、手のひらに一滴、二滴。
素早く、ペロリとすれば、懐かしい香りとしょっぱさが、口いっぱいに広がる。
おー、こんなところで、お醤油に再会するなんて。
感涙にむせぶわたし。
お味噌に、お醤油ときたらば、その辺りに米俵の一つもあるんじゃないの?
徳利を抱えたまま、再びきょろきょろと、辺りを見回すわたしの耳に届くのは、絹を裂くような悲鳴。
ではなくて、どこかで誰かが争っているような怒号が、夜のしじまの中、響いてくるのでした。
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