第13話 酔い

山肌を切り抜いて作られた起伏の多い地形に、洞穴を利用して建築された独特の建造物のひさしが並ぶ町並み。


リルウォルという名のその町は、駅馬車でたどり着いたひとつめの街である。

しかし観光地としても知られるリルウォルの町並みを楽しむ余裕はふたりにはなかった


ふたりにはというか、オノには。


「おぅ、ぇ、」


女にさすさすと背をさすられるオノの口から、けぷ、とこぼれるどろどろの唾液。胃液は駅馬道に全て吐き捨ててきた彼女である。駅馬車の乗車後数分で最初の決壊が訪れたことを思えば、日をまたいでまだ息をしているだけマシかもしれなかった。


そんな息も絶え絶え死に体のオノをこのまま駅馬車に乗せ続けるのは体力的に無理そうだったので、リルウォルの停留所でふたりは下車していた。

すでに馬車は馬を替えて出発してしまっているので、次に目的の方向に向かう馬車がやってくるのはまだまだ先のことだ。


「なんとか動けそうかオノ」

「……むり」

「無理か」


なるほどいかにも無理っぽい弱々しいオノの返答に女は苦笑する。

すこしでも慰めになればと水を含ませてやれば、オノはくちゅくちゅと口をゆすいでんペ、と吐き出す。それからはふ、と吐息したオノはゆるりと女を見上げた。


「りゅうぢから……」


弱々しいオノの瞳が口づけ、というか唾液を求めてすがるように揺れる。

女は吐息して、優しくオノの頬に手を触れる。

そっとオノが身体を起こして。


むにゅ。


女の手がオノの頬をつまんだ。


「阿呆」

「不服」

「却下する」


オノの不服の申し立てをむにむに却下した女は、オノをまた寝そべらせてぽんぽんと頭を撫でた。


「少し休んでいろ。吐かなくなったら私が丁重に運んでやる」

「それならもう大丈夫だと思う」

「せめて口元を拭ってから言ってくれ」


呆れる女が言えば、オノはぐじゅ、と口元を拭って不快げな顔をしては当然のように女のズボンで手を拭いてくる。

女は顔をしかめるが何も言わず、オノの口元を裾で拭ってやった。


するとオノはなにかじぃと女のズボンについた唾液のシミを見つめ、それから女を見上げた。


「等価交換という言葉がある」

「それが通るのなら自分のツバを呑めばいいということになる訳だが」

「美少女の唾液は高価なものと聞いた」

「安心しろ、それは我々の世界の話ではない」


てしっと額をはたけば、オノは諦めてぐったりするのに戻る。

そんなオノの頭をさらさらと撫でてやりながら、女はふと振り向いた。


―――咆哮が、聴こえた気がした。


心臓が弾む。


全身を巡る血液が熱を持つ。


ぴくりとオノが震えた。


「アルト?」


見上げる視線に女はそっと吐息する。


「いや。どうやら、厄介なことになりそうだ」

「そう……熱いから離れていい?」

「……………………ああ」


気遣いではなく単に上昇した女の体温がうっとうしかったらしい。

返答も待たずにぐいぐいと距離を取るオノに、女はなんとも釈然としないものを感じる。


しばらくすぅふぅと深呼吸して血を鎮めた女は、それからオノを抱き上げ立ち上がった。


「悪いがそろそろ行くぞ」


オノは頷き、女はなるべく人目につかないところへと足早に移動する。


ここまで列車と駅馬車という分かりやすい移動手段を使用してきたが、いちおうふたりは追われる身である。それに、どうにもまだ厄介ごとも終わっていないらしい。

そのため女は、なるべく人の気配を離れた山の上を進もうと考えた。


山の上といっても、霊峰を除けば山脈はそこまでの高度があるわけではない。

岩山のため足場はあまりよくないが、その分行く手を阻むような森も上部まで覆わず、女の身体能力を考えれば特に問題なく進める程度のものだろう。


だから女は、周囲の視線をやや気にしつつ山を飛ぶように登っていく。

英傑の脚力の前には垂直だろうが水平だろうが同じようなもので、瞬く間に女は街を眼下に置き去りにした。


「涼しい」


ほぼ山頂まであっという間にやってきたところで腕の中のオノが心地よさそうに呟く。

どうやら女の腕の中は馬車と比べると快適らしい。未だげっそりとはしているものの、すくなくとも悪化はしていない。


オノの乱れた髪が口元にかかるのを退けてやり、それから女は南の方へと走り出した。

地平の彼方まで続く尾根は弧を描くように王国の端まで伸びているので、それを辿れば自然と共和領の手前まではたどり着ける。もしも女ひとりだったなら、この尾根をひたすらに辿り続けるというルートもありだったかもしれない。オノがいる以上、女の生命力任せの強行軍は難しいだろうが。


「とりあえず夜になる前に次の停留所には着くぞ」


女が言えばオノはこくりと頷く。

しかしすこし考えるそぶりを見せて、それから女を見上げて問う。


「アルトは、寝ない?」

「ん、まあ、そうだな。どうやらこの身は眠らなくとも問題ないらしい」


彼女が列車で眠っていなかったことに気がついていたのか、たしかめるように尋ねるオノに女は冗談めかして笑う。


そんな彼女にオノはさも当然のように言った。


「なら、別に通り過ぎていい」

「なに?」

「私は勝手に寝ているから、アルトはその間も走った方が効率的」


ぱちくりと瞬いた女がまじまじとオノを見下ろすが、オノはいたって普通のことを言ったとばかりにすまし顔で、むしろなにか問題があるのかと首を傾げてみせた。


女はたまらなくなって噴き出した。


「くはっ、ふ、ふふふっ」

「なに」

「いやなに。当然のように人をゆりかご扱いするのだなと」


くつくつと楽しげに笑う女にオノは怪訝な表情を浮かべ、しかし特別なにを言うでもなく視線を前方に向ける。


「でも、お腹がすいたら言う」

「ああ、ぜひそうしてくれ」

「?」


妙に元気な女の返答に、やはりなにかおかしいとオノは首を傾げる。

じぃ、と女を見つめてみるが、それに気がついても彼女はただ笑みを浮かべてオノを見下ろすばかり。


まあいいか、とオノはひとつ吐息してさっそく目を閉じた。


「試させてもらう」

「ごゆっくりどうぞ」


そう言ったっきり呼吸を整えて寝入るオノをしばらく見降ろし、危うく足を踏み外しそうになったのをなんとか堪えた女は、それからはさすがに前を向いてひたすらに走っていく。


けっきょく夕方には遠くに人の喧騒と町の灯りを見つけることができたが、オノがそのころにはぐっすり眠ってしまっていたこともあって、下山もせずに通り過ぎる。

次の町ではさすがに一度補給をする必要がありそうだったが、それでも駅馬車を利用するよりははるかにスピーディだった。


列車を降りてからは、オノが死にかけたくらいであとは順調に進んでいると言っていいだろう。


しかしそれでも女は、まったく安心できていなかった。

不安や恐怖とそう呼ぶべきなのだろうか、なにか、予感がするのだ。

それはまだまだ遠くにある。

しかしきっとすぐに自分を追ってくるだろうという確信があった。


「絶対正義……」


次こそは確実に仕留めなければならない。

そうでなければきっと、永遠に彼は止まることがないのだろう。


血が、ざわつく。


かの強力無比なる吸血鬼を想えば、それだけで女の身は闘争の匂いを思い出した。

あの狂信者には辟易としているはずが、表情は意志と裏腹に笑みを浮かべるのだ。


「……?」


ふと気がつく。


なにかがおかしい。

おのれの中で闘争を求める感覚が、あの男以外のなにかを察知していた。


心臓が弾む。


女は殺意をみなぎらせて薄く見える星空を睨んだ。


紫色の彼方にそれはいた。


理解する。


互いにその存在を認知し、そして衝突することを一切疑っていない。


「オノッ」

「、……あると……?」

「すまないが、退いていろ」


今にも飛び出さんとするのをこらえるようにぎりりと歯を噛み締める女に、オノは瞬きひとつで眠気を払うとその視線を追う。


その眼が紫水晶に変貌し、彼女はそれを知った。


「飛竜?」

「どうやらこの俺に用があるらしい」


女はオノを下ろし、オノが近くの岩陰に隠れるのを尻目にマチェットを抜く。

血液が熱く滾るのを感じ、彼女はギッと歯を噛んだ。


数秒の内にみるみる肥大する影。


それは二対四枚の翼を持つ甲殻の飛竜。

亜竜の中でも飛行能力を有するもの。

その中でももっとも危険性が高いと知られる『空の暴君ワイバーン』。

しかもその個体はどう見ても一般個体より一回りは大きく、その身を長きに渡り鍛えぬいてきたのだと一目で分かる。


本来であれば人類の手の届かない高高度―――天蓋の外、天上領域に住まいを置く彼が、なんの因果か偶然にも彼女を見つけてしまった。


否。


それは定めとでも呼ぶべきことだったのだろう。

英傑たるものの定め、闘争の運命、圧倒的な力に見初められた彼女に、安寧など許されない。


「ああ上等だとも竜よ」


であれば全てを捻じ伏せよう。


女は笑い。


見上げる空に、飛竜は燃えた。

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