隋、唐
【初心者向け雑解説】どんな時代なの?――⑨隋、唐
南北朝末期から
武川鎮とは、前項で解説した鎮、すなわち軍事拠点のひとつであり、その基地の出身である軍人の派閥。つまり軍閥の事ですね。
後期の北朝を二分した
東魏の
そして西魏の
そう見ていくと、
とにかく西魏と東魏、それに次ぐ北周と北斉の争いは、武川鎮と懐朔鎮による派閥闘争だったと言えるわけですな。
なかでも武川鎮は、北魏による急速な漢化政策への反発が強く、かつての部族社会の形を一部戻していたといえるのですね。
「
そうした国家体制を引き継いだまま、隋の楊堅、唐の李淵の一族もそこに属している事からも想像できるように、盟主の一族が乱れたら、盟主を挿げ替えればいいだけじゃんという発想になるのも当然の話ですよね。
北周の第四代・
さて、ここでポイントとなる独孤信は、その姓からも分かるように、北魏の建国者・
しかし彼は生前、少なくとも七人の娘がおり、そのほとんどを八柱国・十二大将軍の一族へ嫁がせていたのです。先祖が拓跋珪に北朝の頂点を取らせただけありますね。
独孤信の長女はもともと宇文泰の長男に嫁いでいましたが、結婚後数カ月で病死。その長男も北周でやりたい放題していた
そんな中で暴君である宇文贇が若くして崩御(死因は諸説あり)し、わずか七歳の
皇帝・宇文闡の生母は、楊堅と独孤伽羅の娘であった事から、いわば外戚でもあったわけです。
楊堅本人は外孫を支えるだけで、別に皇帝になるつもりはなかったのですが、妻の独孤伽羅がこのタイミングで「どう見てもチャンスじゃん。禅譲しろ、皇帝になれ」と強く推しました。
恐妻家であった楊堅は基本的に妻の言葉に反対しない(少なくとも記録に無い)ので、しぶしぶこれに従います。
多くの有力者が楊堅を担ぐ中、反対勢力の筆頭として出てきたのが
彼は西魏時代から仕えている古参の将軍で、北斉との戦いでは初期の強敵である
楊堅(というか独孤伽羅)と、尉遅迥の内紛で北周が二分される中、未だに存続していた南朝の
しかしこの戦いは楊堅軍の勝利に終わり、尉遅迥と同盟をした事が仇となって陳も一気に飲み込まれ、西魏・北周と続けて属国となっていた
ちなみにこの西梁(南朝後梁)は、宇宙大将軍こと侯景の乱で江南が焦土と化した時、皇族や貴族の避難所として機能していました。
この時期の戦争では全く役に立っていない代わりに、南朝で花開いた「六朝文化」を保存したまま、隋、そして続く唐へ伝える事となり、唐の時代に漢詩や漢文学が発展したのは、まさにこのおかげでした。
とにかく、本人は皇帝になるつもりはなかった楊堅は、妻の言うままに皇帝となって「隋」を建国し、西晋滅亡から三百年、後漢からなら四百年ぶりに天下を統一した皇帝(隋の文帝)となりました。
隋が建国されると、楊堅の外孫である宇文闡を含め、かつての北周の皇族は全員まとめて殺害されました。(確証は無いですが、これもおそらく独孤伽羅の指図……)
ちなみに楊堅は、この時代の皇帝としては珍しく、妃は独孤伽羅ただひとりです。
しかしこれは純愛とかそういう話ではなく、楊堅が他の女に手を出そうとしたり、楊堅に近づこうとする女は、独孤伽羅によって陰に陽に皆殺しにされていたからです。
楊堅の長男である
一方で、能力は平凡ながらも、母の気性を理解し、母の前では猫を被って良い子を装える次男の
この楊広こそ、悪い意味で歴史にその名を刻む「隋の
とにかく隋を建国した皇族は、全て皇后である独孤伽羅が仕切っていました。
北周が都としていた
さらに中原には、黄河と長江を縦に繋げる大運河(江南の豊かな物資を、これによって華北に運ぶという意図)の建設も開始します。
ちなみに国家体制としては、
日本史で聞く事が多いなと思った人もいるかと思いますが、それはその通りで、
さて、両親である楊堅と独孤伽羅が亡くなり、皇太子であった楊広が第二代皇帝(煬帝)となると、親の代から始めていた大興城建設や、大運河建設を引き継ぎました。
しかし彼の大きな欠点は、本人に一切の経済感覚が無い事と、諫言する者はその瞬間に処断するという恐怖政治だった事です。
ちなみに廃嫡された楊勇を始め、隋統一に功績のあった有能な元勲たちなども、この楊広の指示で次々と殺害されてしまいました。
大土木工事による強制動員、厳格な法律による締め上げ、諫言した者を処断して佞臣を重用、建国の元勲を粛清と、それまでの歴史における皇帝のやらかしをひと通り履修していく楊広は、二代目にして既に国が末期になるわけですね。
そしてトドメが
内地の諸侯は勿論、周辺国も隋に朝貢して頭を下げてきたのですが、朝鮮半島の北部一帯を治めている高句麗は全く挨拶に来る事なく無視を決め込みます。楊広はこれに激怒して「滅ぼしたる!」となるわけですね。
ちなみに日本史でもお馴染みである、倭国の聖徳太子が隋の煬帝(楊広)に送った「日出づる処の天子、日没する処の天子に書を致す。
楊広としちゃ「てめぇ高句麗滅ぼした後は覚えてろコラ」という感じになるわけですね。
結論から言えば、この高句麗出兵は失敗します。
百万と号する大軍を発した(敗戦フラグ……)隋は、高句麗へと進軍しますが、楊広は「人数は多ければ多いほどいい」という短絡思考で補給線を無視して北方に兵だけ送り、しかも高句麗は焦土戦術によって食糧の現地調達(略奪含む)を出来なくした状態で、隋軍を北の国土深く誘い込み、飢餓地獄へと追い込んだわけです。
百万と言われた大軍で、生還できたのはたった数千人という有様でした。
こんな状態であるにもかかわらず、この敗戦の翌年には、また高句麗出兵をするという無茶っぷりです。
当然ながら、国内で反乱が相次ぎます。苦しめられた民は元より、武川鎮の八柱国であった有力者たちも次々に蜂起。さらには北方騎馬民族の
そんな状況で楊広は、都である大興城に自分の孫・
しかし遂には、自分を守るべく連れてきた親衛隊「
そんな楊広の生前、北方から攻め寄せる突厥を防ぐ為に、八柱国の一人であり、母方の従兄でもあるため
その将軍の名は、
この李淵こそが後に唐の建国者となる男であり、しかもその生母は独孤信の四女。楊広と李淵が母方の従兄弟というのは、正にこの独孤姉妹の関係の事だったわけですね。
この李淵は、突厥との戦いで敗北して要衝を失ってしまう事になります。彼は楊広から厳罰を受ける事を恐れ、血縁関係にありながらも隋の皇室に反旗を翻したという経緯がありました。
しかし隋の首都である大興城は、楊広本人も親衛隊も不在のがら空き。挙兵からわずか半年で大興城を落とした李淵は、そこに残されていた十二歳の楊侑を新たな皇帝(
間もなく江南で楊広が死ぬと、李淵は楊侑に禅譲を迫りました。ここに隋が滅び、唐が建国されるのでした。
ちなみに首都は隋が建設した大興城がそのまま使われましたが、名は長安へと戻されました。
しかし、唐が建国されたとて、すぐに天下が統一されたわけではありません。
李淵がそうしたように、
ちなみにこの群雄の争いの中で、宇文化及と王世充に擁立されていた隋の皇族は両者とも禅譲を迫られ、気が付けば隋は完全に雲散霧消しました。
こうした群雄割拠を制したのは、言うまでもなく首都を押さえた唐の李淵でした。そこで特に活躍したのは彼の次男である
李淵は本人の能力は凡庸ながら、何故か周囲の人間から好かれるタイプ。そして李世民は、智謀、戦、政務、人材発掘力とあらゆる能力を兼ね備えた完璧超人。
言うなれば前漢の高祖・劉邦と、後漢の光武帝・
そんな彼らの下には有能な人材も次々に集まりました。
春秋斉の
孫子や呉子に比される軍略家・
戦国秦の戦神・
西楚覇王・
これら最強クラスのメンバーが次々と唐の李淵・李世民親子の下に行くわけです。
しかも首都を押さえた事で次々に兵が集まり、皮肉にも隋の建設した大運河のお陰で次々と江南の物資を得られるわけです。
もうね、そりゃ勝ちます。
天下が唐によってほぼ統一された頃、統一に最も功績のあった次男・李世民が、兄である皇太子・
この事件は真相が歴史の闇に沈み、記録によって動機や経緯が全く食い違うので、現代に至っても研究が続いていますね。
とにかくこの事件によって、もはや息子の力は自分を越えていると思ったのか、李淵は存命中にも関わらず李世民に譲位。二代皇帝の座は李世民の物となりました。
そんな血塗られた経緯で皇帝となった李世民(
ただその期間は平穏無事だったかと言えば決してそう言う事もなく、李世民が皇帝になってすぐに北方から突厥が南下してきます。
そのあまりの兵力に、李世民は国庫が空になるほどの財宝を献上して停戦を求め、突厥は引き返しました。
その後、江南から唐でも最強クラスの将軍である李靖を呼び寄せて、逆に突厥を討伐。李世民は周辺の騎馬民族から
中華皇帝と北族のカガンを同時に称したのは、李世民が史上初めての事になります。
ちなみに公式史書である『
またその翌年には大飢饉などもあって、李世民は食糧の無料配給などを施し(この辺は名君ポイントですね)、とにかく国の出費がかさんでいた為、貞観年間は平穏無事というより、崖っぷちで必死に政治経済を回していた事が伺えます。
そんな李世民の後の第三代・
ちなみに小説『
その旅行記は『
さて、第三代・李治が亡くなった後、その皇后であった
ちなみに古代王朝の周や、南北朝の北周と区別する為「
武照は政治を大いに乱し、十五年の統治の後に病死しました。
その後、武照によって廃されていた息子である李顕(
しかし李顕はその後に自身の皇后である
この韋皇后もまた武照と同様に簒奪を企てますが、李顕の妹である
しかしその後、その太平公主が権力を握ってやりたい放題したので、これも誅殺されました。
そうして迎えた第八代・
かつて李世民が突厥を降していた事で、唐の国土は西アジアのイスラム圏にまで達しており、中華帝国としては最大版図を持つに至ります。
唐が世界帝国と言われるのは、この時代の存在があるためですね。この時代を指して「
この盛唐時代、六朝から受け継いだ文学や漢詩などの文化が花開き、
しかし盛唐時代も長くは続かず、皇帝である李隆基は皇后の
この楊国忠と対立したのが、
節度使とは、あまりにも広大になった領土を管理する為に、軍権や行政権などを与えられた地方統治者であり、実質的に諸侯王に匹敵する影響力を持つ役職です。
楊国忠と対立した安禄山は、身の危険を感じて反乱を起こしました。大軍を擁していた安禄山は華北を一気に制圧すると首都・長安すらも陥落させ、李隆基は蜀へと逃亡。その最中に「お前らのせいだ!」として楊国忠と楊貴妃は処刑されました。
華北を制圧した安禄山は「
安史の乱で国力が衰退した唐は、その国土が次第に縮小し、世界帝国としての覇権は終わっていく事になります。
また安史の乱の教訓から、節度使の力を削りますが、それが逆に西域の国である
吐蕃は疫病などによって撤退しますが、その反動で内地の各地にも節度使を置いて軍事防衛力の強化を図った事が、後に五代十国時代という分裂期を生む要因にもなりました。
その後は、外戚と宦官の専横、それに対抗した官僚や節度使による政治闘争、そして仏教弾圧など、歴代王朝と同様のやらかしを繰り返す内に民心を失う事になります。
そうして群盗による大規模反乱であった「
この黄巣の乱は結局は失敗して鎮圧されるのですが、乱を実質的に鎮圧した
この二人の対立によって、唐王朝が遂に滅亡し、五代十国の乱世がやってくるのですが、これは次の枠となります。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます