隋、唐

【初心者向け雑解説】どんな時代なの?――⑨隋、唐

 南北朝末期からずい、そしてとうを語るには、独孤信どっこしんという武将の存在と、武川鎮ぶせんちんについて語らないといけないでしょう。




 武川鎮とは、前項で解説した鎮、すなわち軍事拠点のひとつであり、その基地の出身である軍人の派閥。つまり軍閥の事ですね。


 後期の北朝を二分した東魏とうぎ北斉ほくせい)と西魏せいぎ北周ほくしゅう)。


 東魏の高歓こうかん懐朔鎮かいさくちん出身で、そこに属した慕容紹宗ぼようしょうそう侯景こうけい(宇宙大将軍)は、ともに懐朔鎮の出身者です。

 そして西魏の宇文泰うぶんたいが武川鎮出身であり、後に隋を建国する楊堅ようけんの一族、唐を建国する李淵りえんの一族、そしてキーマンとなる独孤信などは武川鎮の出身者で、当然ながら西魏に属していたわけです。


 そう見ていくと、北魏ほくぎを滅ぼして自らもさっさと死んだ爾朱榮じしゅえいとかいうオッサンは、この錚々たるメンバーを全員まとめたドリームチームを作ってたわけで、思い返すと凄かったんだなぁと……。


 とにかく西魏と東魏、それに次ぐ北周と北斉の争いは、武川鎮と懐朔鎮による派閥闘争だったと言えるわけですな。




 なかでも武川鎮は、北魏による急速な漢化政策への反発が強く、かつての部族社会の形を一部戻していたといえるのですね。

 「八柱国はちちゅうこく・十二大将軍」と呼ばれる有力な軍人たちが、まるでかつての部族合議制のような形で権力を持ち、宇文泰はその盟主という形だったわけです。


 そうした国家体制を引き継いだまま、隋の楊堅、唐の李淵の一族もそこに属している事からも想像できるように、盟主の一族が乱れたら、盟主を挿げ替えればいいだけじゃんという発想になるのも当然の話ですよね。


 北周の第四代・宇文贇うぶんいん宣帝せんてい)があまりにも暴君すぎて、臣下や民からも支持を失い、その時に支持されたのが丞相じょうしょう(政治責任者)に就いていた隋国公・楊堅だったわけです。「代わって皇帝になってくれ」という声が出るのは当然と言えば当然です。




 さて、ここでポイントとなる独孤信は、その姓からも分かるように、北魏の建国者・拓跋珪たくばつけいの後ろ盾となった匈奴きょうど系の独孤部を先祖に持つ武将で、西魏の建国者・宇文泰と同世代の人です。西魏に属しましたが、北周に禅譲された頃には既に亡くなっていました。

 しかし彼は生前、少なくとも七人の娘がおり、そのほとんどを八柱国・十二大将軍の一族へ嫁がせていたのです。先祖が拓跋珪に北朝の頂点を取らせただけありますね。


 独孤信の長女はもともと宇文泰の長男に嫁いでいましたが、結婚後数カ月で病死。その長男も北周でやりたい放題していた宇文護うぶんごに殺処分されていたので芽が出なかったのですが、七女の独孤伽羅どっこからこそ、隋国公・楊堅の妻だったのです。


 そんな中で暴君である宇文贇が若くして崩御(死因は諸説あり)し、わずか七歳の宇文闡うぶんせん静帝せいてい)が皇帝となると、丞相である楊堅が実質的に権力を握ります。

 皇帝・宇文闡の生母は、楊堅と独孤伽羅の娘であった事から、いわば外戚でもあったわけです。


 楊堅本人は外孫を支えるだけで、別に皇帝になるつもりはなかったのですが、妻の独孤伽羅がこのタイミングで「どう見てもチャンスじゃん。禅譲しろ、皇帝になれ」と強く推しました。

 恐妻家であった楊堅は基本的に妻の言葉に反対しない(少なくとも記録に無い)ので、しぶしぶこれに従います。


 多くの有力者が楊堅を担ぐ中、反対勢力の筆頭として出てきたのが尉遅迥うっちけいです。

 彼は西魏時代から仕えている古参の将軍で、北斉との戦いでは初期の強敵である斛律光こくりつこう蘭陵王らんりょうおうを相手に正面から戦っていた名将であり、特に宇文泰から受けた恩で出世した事から皇室への忠誠心が強かったわけです。


 楊堅(というか独孤伽羅)と、尉遅迥の内紛で北周が二分される中、未だに存続していた南朝のちんは、尉遅迥に援軍を送る事になりました。

 しかしこの戦いは楊堅軍の勝利に終わり、尉遅迥と同盟をした事が仇となって陳も一気に飲み込まれ、西魏・北周と続けて属国となっていた西梁せいりょうも楊堅に無条件降伏します。


 ちなみにこの西梁(南朝後梁)は、宇宙大将軍こと侯景の乱で江南が焦土と化した時、皇族や貴族の避難所として機能していました。

 この時期の戦争では全く役に立っていない代わりに、南朝で花開いた「六朝文化」を保存したまま、隋、そして続く唐へ伝える事となり、唐の時代に漢詩や漢文学が発展したのは、まさにこのおかげでした。


 とにかく、本人は皇帝になるつもりはなかった楊堅は、妻の言うままに皇帝となって「隋」を建国し、西晋滅亡から三百年、後漢からなら四百年ぶりに天下を統一した皇帝(隋の文帝)となりました。




 隋が建国されると、楊堅の外孫である宇文闡を含め、かつての北周の皇族は全員まとめて殺害されました。(確証は無いですが、これもおそらく独孤伽羅の指図……)


 ちなみに楊堅は、この時代の皇帝としては珍しく、妃は独孤伽羅ただひとりです。

 しかしこれは純愛とかそういう話ではなく、楊堅が他の女に手を出そうとしたり、楊堅に近づこうとする女は、独孤伽羅によって陰に陽に皆殺しにされていたからです。


 楊堅の長男である楊勇ようゆうは、文武に優れた有能な息子であり長男である事から順当に皇太子に建てられていたのですが、女癖が悪かった事から母の気に障り、廃嫡される事になりました。

 一方で、能力は平凡ながらも、母の気性を理解し、母の前では猫を被って良い子を装える次男の楊広ようこうが皇太子に立てられました。

 この楊広こそ、悪い意味で歴史にその名を刻む「隋の煬帝ようだい」その人です。


 とにかく隋を建国した皇族は、全て皇后である独孤伽羅が仕切っていました。

 北周が都としていた長安ちょうあんは、前漢の劉邦りゅうほうが作ってからずっと補修されて使われていたのですが、楊堅(の後ろの独孤伽羅)はそれを全て更地にし、大興城たいこうじょうという新たな巨大都市の建設を始めました。

 さらに中原には、黄河と長江を縦に繋げる大運河(江南の豊かな物資を、これによって華北に運ぶという意図)の建設も開始します。


 ちなみに国家体制としては、律令りつりょう制、均田きんでん制、租庸調そようちょう府兵ふへい制など、北魏、西魏、北周から続く統治体制をおおよそ維持しました。

 日本史で聞く事が多いなと思った人もいるかと思いますが、それはその通りで、聖徳太子しょうとくたいしが送った遣隋使けんずいしは、その名の通り、この隋に送っているわけで、その制度をコピーした以上は、日本史でもお馴染になるわけですね。




 さて、両親である楊堅と独孤伽羅が亡くなり、皇太子であった楊広が第二代皇帝(煬帝)となると、親の代から始めていた大興城建設や、大運河建設を引き継ぎました。

 しかし彼の大きな欠点は、本人に一切の経済感覚が無い事と、諫言する者はその瞬間に処断するという恐怖政治だった事です。


 ちなみに廃嫡された楊勇を始め、隋統一に功績のあった有能な元勲たちなども、この楊広の指示で次々と殺害されてしまいました。


 大土木工事による強制動員、厳格な法律による締め上げ、諫言した者を処断して佞臣を重用、建国の元勲を粛清と、それまでの歴史における皇帝のをひと通り履修していく楊広は、二代目にして既に国が末期になるわけですね。


 そしてトドメが高句麗こうくり出兵です。


 内地の諸侯は勿論、周辺国も隋に朝貢して頭を下げてきたのですが、朝鮮半島の北部一帯を治めている高句麗は全く挨拶に来る事なく無視を決め込みます。楊広はこれに激怒して「滅ぼしたる!」となるわけですね。


 ちなみに日本史でもお馴染みである、倭国の聖徳太子が隋の煬帝(楊広)に送った「日出づる処の天子、日没する処の天子に書を致す。つつがなきや」という対等宣言と取れる国書は、こんな時期に送られています。

 楊広としちゃ「てめぇ高句麗滅ぼした後は覚えてろコラ」という感じになるわけですね。


 結論から言えば、この高句麗出兵は失敗します。


 百万と号する大軍を発した(敗戦フラグ……)隋は、高句麗へと進軍しますが、楊広は「人数は多ければ多いほどいい」という短絡思考で補給線を無視して北方に兵だけ送り、しかも高句麗は焦土戦術によって食糧の現地調達(略奪含む)を出来なくした状態で、隋軍を北の国土深く誘い込み、飢餓地獄へと追い込んだわけです。

 百万と言われた大軍で、生還できたのはたった数千人という有様でした。


 こんな状態であるにもかかわらず、この敗戦の翌年には、また高句麗出兵をするという無茶っぷりです。

 当然ながら、国内で反乱が相次ぎます。苦しめられた民は元より、武川鎮の八柱国であった有力者たちも次々に蜂起。さらには北方騎馬民族の突厥とっけつまで攻めて来る事になります。


 そんな状況で楊広は、都である大興城に自分の孫・楊侑ようゆう(当時十二歳)を身代わりとして座らせ、自分は江南に(贅沢な遊覧船で)逃げてしまいます。

 しかし遂には、自分を守るべく連れてきた親衛隊「驍果ぎょうか」に裏切られて殺されてしまうのでした。


 そんな楊広の生前、北方から攻め寄せる突厥を防ぐ為に、八柱国の一人であり、母方の従兄でもあるため唐公とうこうに封じられていた将軍に出撃命令を出していました。


 その将軍の名は、李淵りえん


 この李淵こそが後に唐の建国者となる男であり、しかもその生母は独孤信の四女。楊広と李淵が母方の従兄弟というのは、正にこの独孤姉妹の関係の事だったわけですね。


 この李淵は、突厥との戦いで敗北して要衝を失ってしまう事になります。彼は楊広から厳罰を受ける事を恐れ、血縁関係にありながらも隋の皇室に反旗を翻したという経緯がありました。


 しかし隋の首都である大興城は、楊広本人も親衛隊も不在のがら空き。挙兵からわずか半年で大興城を落とした李淵は、そこに残されていた十二歳の楊侑を新たな皇帝(恭帝きょうてい)として擁立。

 間もなく江南で楊広が死ぬと、李淵は楊侑に禅譲を迫りました。ここに隋が滅び、唐が建国されるのでした。

 ちなみに首都は隋が建設した大興城がそのまま使われましたが、名は長安へと戻されました。




 しかし、唐が建国されたとて、すぐに天下が統一されたわけではありません。


 李淵がそうしたように、宇文化及うぶんかきゅう王世充おうせいじゅうらは隋の皇族を擁立し、高句麗遠征の頃から反乱を扇動していた李密りみつや、群盗を集結させた竇建徳とうけんとく、南朝梁の末裔・蕭銑しょうせんといった有力者たちが独立宣言したりして各地で割拠していたのです。


 ちなみにこの群雄の争いの中で、宇文化及と王世充に擁立されていた隋の皇族は両者とも禅譲を迫られ、気が付けば隋は完全に雲散霧消しました。


 こうした群雄割拠を制したのは、言うまでもなく首都を押さえた唐の李淵でした。そこで特に活躍したのは彼の次男である李世民りせいみんです。

 李淵は本人の能力は凡庸ながら、何故か周囲の人間から好かれるタイプ。そして李世民は、智謀、戦、政務、人材発掘力とあらゆる能力を兼ね備えた完璧超人。

 言うなれば前漢の高祖・劉邦と、後漢の光武帝・劉秀りゅうしゅうが親子として存在しているような感じです。

 そんな彼らの下には有能な人材も次々に集まりました。


 春秋斉の管仲かんちゅうに比される名宰相・魏徴ぎちょう

 孫子や呉子に比される軍略家・徐世勣じょせいせき(のちに改名して李勣りせき)。

 戦国秦の戦神・白起はくきや、前漢の国士無双・韓信かんしんに比される名将・李靖りせい

 西楚覇王・項羽こううや、蜀漢の関羽かんう張飛ちょうひに比される武人・尉遅敬徳うっちけいとく


 これら最強クラスのメンバーが次々と唐の李淵・李世民親子の下に行くわけです。

 しかも首都を押さえた事で次々に兵が集まり、皮肉にも隋の建設した大運河のお陰で次々と江南の物資を得られるわけです。


 もうね、そりゃ勝ちます。




 天下が唐によってほぼ統一された頃、統一に最も功績のあった次男・李世民が、兄である皇太子・李建成りけんせいと、弟である李元吉りげんきつを殺害するという事件が起こります。(玄武門げんぶもんの変)

 この事件は真相が歴史の闇に沈み、記録によって動機や経緯が全く食い違うので、現代に至っても研究が続いていますね。


 とにかくこの事件によって、もはや息子の力は自分を越えていると思ったのか、李淵は存命中にも関わらず李世民に譲位。二代皇帝の座は李世民の物となりました。


 そんな血塗られた経緯で皇帝となった李世民(太宗たいそう)ですが、優秀な人材を活用する器の大きさは失っておらず、多くの優秀な政治家を活用して「貞観じょうがん」という安定した時代を築き、後の中華帝国はもちろん周辺諸国の統治においても模範となりました。


 ただその期間は平穏無事だったかと言えば決してそう言う事もなく、李世民が皇帝になってすぐに北方から突厥が南下してきます。

 そのあまりの兵力に、李世民は国庫が空になるほどの財宝を献上して停戦を求め、突厥は引き返しました。

 その後、江南から唐でも最強クラスの将軍である李靖を呼び寄せて、逆に突厥を討伐。李世民は周辺の騎馬民族から天可汗テングリ・カガン(天帝)の称号を受ける事になります。

 中華皇帝と北族のカガンを同時に称したのは、李世民が史上初めての事になります。


 ちなみに公式史書である『旧唐書くとうじょ』には、最初の突厥南下に際して「進み出た太宗が一喝すると突厥はその威光に恐れをなし、戦わずして帰った」のように記述されてますが、その後に李靖が突厥討伐した時の記述で「この前の屈辱を晴らしても余りある!」と褒めている点から、実際にはほぼ負けていた事がバレました。


 またその翌年には大飢饉などもあって、李世民は食糧の無料配給などを施し(この辺は名君ポイントですね)、とにかく国の出費がかさんでいた為、貞観年間は平穏無事というより、崖っぷちで必死に政治経済を回していた事が伺えます。




 そんな李世民の後の第三代・李治りち高宗こうそう)の代では、隋が成せなかった高句麗討伐を成し遂げ、その後に朝鮮半島を二分した新羅しらぎ百済くだらの争いでは、新羅に援軍を送ってこれに統一させ、百済の後ろにいた倭国をも黙らせました。(白村江はくそんこうの戦い)




 ちなみに小説『西遊記さいゆうき』はこの時代を舞台にしており、そこに登場する三蔵法師こと玄奘大師げんじょうたいしは実際にこの時期に天竺てんじく(インド)へと赴いています。

 その旅行記は『大唐西域記だいとうせいいきき』としてまとめられ、『西遊記』はそれを大幅に脚色した物と言えますね。




 さて、第三代・李治が亡くなった後、その皇后であった武照ぶしょう武則天ぶそくてん)が権力を握って、息子である李顕りけんを傀儡皇帝に据えた直後に廃すると、自らが帝位に就いて国号を「しゅう」に変えました。中華帝国の歴史において皇帝の座に就いた最初で最後の「女帝」です。

 ちなみに古代王朝の周や、南北朝の北周と区別する為「武周ぶしゅう」とも呼ばれます。


 武照は政治を大いに乱し、十五年の統治の後に病死しました。


 その後、武照によって廃されていた息子である李顕(中宗ちゅうそう)が即位する事で、国号が再び「唐」へと戻りました。


 しかし李顕はその後に自身の皇后である皇后に毒殺されます。(踏んだり蹴ったりだなこの皇帝ひと……)

 この韋皇后もまた武照と同様に簒奪を企てますが、李顕の妹である太平公主たいへいこうしゅによって誅殺されました。

 しかしその後、その太平公主が権力を握ってやりたい放題したので、これも誅殺されました。




 そうして迎えた第八代・李隆基りりゅうき(玄宗)の時代、唐は最盛期を迎える事になりました。

 かつて李世民が突厥を降していた事で、唐の国土は西アジアのイスラム圏にまで達しており、中華帝国としては最大版図を持つに至ります。

 唐が世界帝国と言われるのは、この時代の存在があるためですね。この時代を指して「盛唐せいとう」と呼ばれます。


 この盛唐時代、六朝から受け継いだ文学や漢詩などの文化が花開き、李白りはく杜甫とほなどが登場しています。




 しかし盛唐時代も長くは続かず、皇帝である李隆基は皇后の楊貴妃ようきひに溺れて政治にやる気を失くし、その外戚である楊国忠ようこくちゅうが台頭します。


 この楊国忠と対立したのが、節度使せつどし安禄山あんろくざんです。


 節度使とは、あまりにも広大になった領土を管理する為に、軍権や行政権などを与えられた地方統治者であり、実質的に諸侯王に匹敵する影響力を持つ役職です。

 楊国忠と対立した安禄山は、身の危険を感じて反乱を起こしました。大軍を擁していた安禄山は華北を一気に制圧すると首都・長安すらも陥落させ、李隆基は蜀へと逃亡。その最中に「お前らのせいだ!」として楊国忠と楊貴妃は処刑されました。


 華北を制圧した安禄山は「えん」を国号に自立しますが、唐の名将・郭子儀かくしぎの活躍や回鶻かいこつ(ウイグル)の援軍によって、数年で鎮圧されました。この一連の乱は、首謀者の安禄山と、その死後に帝位を継いだ史思明ししめいの姓を取り「安史あんしの乱」と呼ばれます。


 安史の乱で国力が衰退した唐は、その国土が次第に縮小し、世界帝国としての覇権は終わっていく事になります。


 また安史の乱の教訓から、節度使の力を削りますが、それが逆に西域の国である吐蕃とばん(チベット)の侵攻を招いてしまいます。

 吐蕃は疫病などによって撤退しますが、その反動で内地の各地にも節度使を置いて軍事防衛力の強化を図った事が、後に五代十国時代という分裂期を生む要因にもなりました。


 その後は、外戚と宦官の専横、それに対抗した官僚や節度使による政治闘争、そして仏教弾圧など、歴代王朝と同様のやらかしを繰り返す内に民心を失う事になります。


 そうして群盗による大規模反乱であった「裘甫きゅうほの乱」や、節度使と対立した将兵が起こした「龐勛ほうくんの乱」などを経て、再び首都である長安が陥落した「黄巣こうそうの乱」へと繋がっていきます。


 この黄巣の乱は結局は失敗して鎮圧されるのですが、乱を実質的に鎮圧した独眼龍どくがんりゅう李克用りこくようと、黄巣軍から唐王朝へと寝返って権力の座に座った朱全忠しゅぜんちゅうが出てきます。


 この二人の対立によって、唐王朝が遂に滅亡し、五代十国の乱世がやってくるのですが、これは次の枠となります。






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