三国、西晋

【初心者向け雑解説】どんな時代なの?――⑥三国・西晋

 というわけで「三国・西晋」枠ですが、日本人が大好きな『三國志』の時代です。さも当然のようにスコップ予定リストが最も多い枠ですねハイ。




 長安ちょうあんから逃げ出した第十四代・劉協りゅうきょう献帝けんてい)は群雄の一人である曹操そうそうに保護されました。

 ちなみに皇帝に逃げられた長安の李傕りかくは「虎の威を借る狐」が虎を失った状態なので、周囲の豪族(関中軍閥かんちゅうぐんばつ)にボコられて瞬殺されました。


 この時点での中原では、後漢中期に清廉潔白な官吏として名を馳せた袁安えんあんを始祖とする名門・汝南袁氏じょなんえんしに属する袁紹えんしょう袁術えんじゅつが対立し、二大勢力となっていました。


 対立していた曹操が皇帝を保護した事で、出し抜かれたと思ったのか、或いは後漢皇室の権威も地に落ちたと思ったのか、袁術は国号を「ちゅう」として皇帝を号しました。

 しかし諸侯が膝を屈するわけもなく、逆に同盟を結んでいた諸侯からも見捨てられ、全方位フルボッコにされて袁術は滅びました。




 そんな袁術が滅びるのと前後して、徐州じょしゅうを治めていた劉備りゅうびを引き入れ、呂布りょふを倒し、曹操は順調に中原の支配域を広げていきました。

 一方で袁紹は、同族の袁術とは違って対立していた公孫瓚こうそんさんらを滅ぼして河北かほく(黄河下流域の北側の事。南側が中原)を制圧。

 こうして華北かほく(中華の北半分)では、黄河を挟んで袁紹と曹操の対決に絞られました。


 この曹操と袁紹の戦いは、直接的な対決となった「官渡かんとの戦い」を分かれ目にして、次第に袁紹は衰退。華北は曹操の手に渡る事になります。

 ちなみに一時は曹操の下にいた劉備ですが、この辺りで曹操の下から離脱し、手勢の部下たちと一緒に放浪を始めます。小説『三國志演義』では、この劉備一党が主役として描かれる事になります。




 さて、華北一帯を曹操が手にした頃、南の長江流域はどうだったかと言えば、上流域の益州えきしゅうしょく)では劉璋りゅうしょうが、中流域の荊州けいしゅう)では劉表りゅうひょうが、下流域の揚州ようしゅう)では孫権そんけんが、中原の事を文字通り対岸の火事として眺めながら経済的な自立運営をしていました。


 益州の劉璋は父の劉焉りゅうえんが、荊州の劉表は自身が、それぞれ朝廷から正式に州牧しゅうぼく(州の統治権と軍権を持つ役職)に任命されていますが、揚州に関しては孫権の兄・孫策そんさくがわずか数年で群雄を平定して支配権を確立し、後追いで地位を得ています。

 この孫策は「小覇王しょうはおう(覇王・項羽こううの再来という意味)」と呼ばれますが、華北で曹操と袁紹が争っている時期に若くして亡くなり、弟である孫権が引き継ぎました。


 ちなみに放浪していた劉備は、中流域である荊州の劉表の下に滞在する事になり、この時に「臥龍がりょう」と呼ばれる天才軍師・諸葛亮しょかつりょうあざなである孔明こうめいの方で諸葛孔明とも)と出会っています。




 華北を統一し、後漢皇帝も自分が擁立している曹操は、このまま天下に手を伸ばそうと南へと目を向けます。

 ちょうどそのころ荊州を治めていた劉表が亡くなり、子の劉琮りゅうそうが治め始めた事もあって、まずは荊州へと攻め込みます。曹操の大勢力を恐れた劉琮は、曹操に全力の土下座で屈しますが、荊州にいた劉備たちはトンズラしました。(長坂ちょうはんの戦い)


 荊州を手に入れた曹操は、そのまま東に向かって揚州の孫権を攻撃しますが、疫病やら火計やら色々あって大量の死者を出した為に曹操軍は撤退します。(赤壁せきへきの戦い)


 戦勝の勢いのままに荊州に攻め込む孫権軍(と劉備軍)は、荊州から曹操軍を追い出しました。


 天下統一の出鼻を挫かれた曹操ですが、豪族が割拠していた涼州りょうしゅうしん)で馬超ばちょうが蜂起した事で(潼関どうかんの戦い)、しばらくは南に目を向ける事が出来なくなりました。


 その間に孫権と同盟を組んだ劉備が、荊州を拠点にして益州の劉璋を降伏させ、曹操に負けた馬超も引き入れたりしながら、天下はいつしか曹操、孫権、劉備の三者で争われる形(三国鼎立さんごくていりつ)へとなりました。




 三国がぶつかる真ん中の位置にある荊州は、劉備の勢力が抑えており、彼の義弟であり軍神ぐんしんとも呼ばれる関羽かんうが守っていました。

 本来は劉備・孫権の同盟で北の曹操と戦う予定でしたが、この荊州の利権問題で両者の関係が崩れていました。ここで孫権はこっそり曹操と結んで挟撃。関羽を討って荊州を取り返します。


 この関羽の死から間もなく、曹操が亡くなる事となりました。

 曹操の死後、その息子である曹丕そうひが皇帝・劉協に対して、かつての王莽おうもうのように禅譲ぜんじょうを迫り、遂に後漢王朝は消滅。ここに王朝が誕生しました。


 後漢王朝の滅亡を聞いた劉備は、彼がもともと前漢の劉邦りゅうほうの血筋を引いていた事もあり、対抗して皇帝となります。ちなみに蜀の地を領土にした事で、後世に一般的には「蜀」と呼ばれていますが、漢王朝の後継なので、正式な国号はあくまでも「漢」です。

 前漢(西漢)、後漢(東漢)に対し、蜀漢しょくかんと呼ばれます。


 そんな劉備は義弟・関羽を討った孫権が誰よりも許せませんでした。「後漢皇室を滅ぼしたのは曹丕なんだから、曹丕が敵でしょうが」という部下の反対を押し切り、北の曹丕なんて放置で孫権に戦いを仕掛けます。

 序盤は攻め込んだ大軍勢が荊州を蹂躙しますが、孫権軍の陸遜りくそんによる大火計でボロ負け。兵士の死者も然る事ながら、特に上層部の将軍を大勢失いました。(夷陵いりょうの戦い)


 夷陵の敗戦で劉備自身も鬱になり、間もなく病死します。

 劉備の息子・劉禅りゅうぜんが蜀漢の二代皇帝となり、その補佐を臥龍・諸葛亮が行いました。


 そんな魏・蜀に遅れて、揚州の孫権もまた皇帝の座に就き、国号を「呉」としました。

 こうして天下を三つの王朝(三人の皇帝)が争い合う時代となります。「三国」という時代名称は、この状態を指して言われるわけですね。




 魏王朝では、初代皇帝となった曹丕が若くして病死しており、その息子(曹操の孫)にあたる曹叡そうえいが二代皇帝となっていました。


 その時期を狙ったように、諸葛亮に率いられた蜀漢の軍が北上して魏の領土に攻め込みました。(孔明の北伐ほくばつ

 しかしそんな北伐を数度に渡って仕掛けた諸葛亮ですが、その度に魏の司馬懿しばいによって阻まれ、五度目の北伐(五丈原ごじょうげんの戦い)では遂に魏軍と対陣中に諸葛亮が亡くなってしまいます(寿命、病死、過労死と諸説あります)。




 余談ですが、当時の日本列島にあったとされる邪馬台やまたい国の卑弥呼ひみこが使者を送ったのは、この時期の魏の皇帝・曹叡に対してであり、ここで「親魏倭王しんぎわおう」の金印を貰っています。




 さて、諸葛亮の侵攻を防ぎ切った司馬懿の存在によって、魏王朝の内部で司馬氏が強い影響力を持つに至ります。

 この頃になると三国は良くも悪くも安定してしまい、小競り合いは何度もある物の、国境線を大きく変えるような戦いはほとんど起きませんでした。


 そうした状況の中で、各国は内部での政争を起こすようになっていきます。

 魏では司馬氏の影響力を恐れた反司馬派の内乱が続き、呉では年老いた孫権の後継者問題で国内が割れ、蜀漢もまた諸葛亮の後を継いで北伐を続けようとする姜維きょうい継戦けいせん派と、北伐で傾いた国家財政をまず立て直すべきという厭戦えんせん派に分かれてしまいます。


 幾多の政争を勝ち抜いた司馬氏は、司馬懿から長男・司馬師しばしを経て、次男の司馬昭しばしょうの代になっていました。

 国内をとりあえず安定させた司馬昭は、何度も北伐を仕掛けてきた蜀漢に対して逆に攻め込んでいき、蜀漢の二代皇帝・劉禅りゅうぜんを降伏させました。


 この時、蜀攻めを主導した鄧艾とうがいの手柄になる事を恐れた同じ魏軍の鍾会しょうかいが蜀残党の姜維と手を結んで反乱を起こしたりしましたが、彼らを三人まとめて失脚させる漁夫の利アタックを仕掛けた衛瓘えいかんが、後に司馬氏政権の下で重鎮になりました。




 蜀漢が滅び、天下は魏呉の二国に絞られるわけですが、蜀の領土を飲み込んで勝ちがほぼ確定してしまった魏。

 その中枢を司馬一族が占めていた事で、司馬昭の息子・司馬炎しばえんの代になって魏の第五代・曹奐そうかん元帝げんてい)に、(そろそろパターン化してきた)禅譲を迫って帝位を奪い、国号を「しん」としました。


 晋の初代皇帝となった司馬炎は、内政に力を注ぎ、民の暮らしの立て直しを図る名君でした。(この時点では……)

 かつての曹操の意向で自分の一族(曹氏)に土地や権力をほとんど与えなかった事が、魏の皇室の力が弱かった原因だとして、自身の血縁者(司馬氏)の多くの者を王として各地に冊封しています。(この点は次の枠で、まぁ色々と……)




 そうして国内を安定させていった司馬炎は、もはや国力の差では勝負にならない呉の討伐に乗り出します。

 呉の第四代・孫皎そんこう末帝まつてい)は元々は魏と国交を結んで融和路線をしていたのですが、司馬炎が魏を簒奪したのを契機に外交を打ち切っていた事も理由のひとつです。


 二十万とも言われる晋の大軍が東西から長江を渡り、呉は一挙に攻め滅ぼされてしまいます。


 こうして三国時代を彩った魏・呉・蜀は、司馬一族による晋によって共に飲み込まれたわけです。

 ここに後漢以来百年ぶりに天下が統一されたのでした。


 しかし晋朝の苦難はこれから始まります……。


 というわけで、次の時代枠「東晋・五胡十六国」へと移ります。






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