西楚、前漢

【初心者向け雑解説】どんな時代なの?――④西楚、前漢

 さてしん始皇帝しこうていが崩御した後、天下の各地で反乱が起こりました。

 始皇帝によって天下が平定されてから、まだ二十年と経っておらず、各地には戦国七雄せんごくしちゆうの子孫たちが反撃の機会を待ちながら生きており、民たちもまた統一国家としての意識ではなく、更には極端に厳しい秦の法律の下でされる時を待っていたという状態でした。


 各地で戦国七雄の子孫や元家臣が反乱の旗を上げる中、特に目覚ましい台頭を見せたのが項梁こうりょうです。

 彼はかつてのの名将・項燕こうえんの子です。項燕将軍は始皇帝の代になって攻めてきた、李信りしん率いる二十万の秦軍を打ち破った事で、楚の民の中でも英雄視されていたのです。

 そんな項燕将軍も、秦のほぼ全軍である六十万を率いた老将・王翦おうせんによって破れているのですが……。


 とにかく、英雄である項燕将軍の息子が反秦の旗を上げた事で、楚の民も喝采し、こぞって彼のところに駆け付けました。

 項梁は、かつての楚王の末裔である熊心ゆうしんを楚王の座に戻して懐王かいおうとして擁立し、各地で秦軍を打ち破っていきます。


 そんな項梁に付き従っていた彼の甥が項羽こうう項籍こうせき)。そしてその項羽と後に争う事になる劉邦りゅうほうも、その軍門にいたわけですね。


 各地で勝利を収めた楚軍ですが、秦の大将軍である章邯しょうかんとの戦いで総大将の項梁が戦死してしまいます。

 その後、楚の内部で紆余曲折がちょっとあり、結果として甥の項羽が項梁の後を引き継ぐ事になるわけです。


 そうして項羽率いる楚軍は、その数倍の兵力を持つ章邯率いる秦軍とぶつかりました。しかし結果は楚軍の圧勝。これは項羽の軍才も然る事ながら、士気の違いによる所が大きいです。


 章邯率いる秦軍は、万里の長城や始皇帝陵の土木工事に強制従事させられていた囚人たちを兵士として転用した者で、そもそも秦への忠義などない、死にたくないという兵が大多数です。

 一方の楚軍は、秦への恨み骨髄。自分の命を捨ててでも祖国と先祖の恨みを晴らしてやると血気盛んで、楚兵一人で秦兵十人を相手に出来るほどだったなどと言われています。


 ちなみにこの一連の戦いで項羽に討ち取られた秦の将軍・王離おうりは、かつて楚の英雄・項燕を打ち負かした王翦の孫に当たり、三代を経ての仇討ちエピソードも生まれました。


 そんなこんなで楚軍に打ち破られた章邯が秦の本国に伝令を出すも、本国では趙高ちょうこうが政治を牛耳っており、二世皇帝・胡亥こがいには「反乱は順調に鎮圧されております」と報告するだけで、援軍も何もよこさない。そんなこんなで、章邯らは項羽に降伏するわけです。


 さて、項羽率いる楚軍本隊がこれからいよいよ「秦の都・咸陽かんようへと攻め上るぞ!」となった時、咸陽の都は既に陥落していました。


 陥落させたのは同じ楚軍で別動隊を率いていた劉邦。

 実は楚の懐王は出陣前に布告を出していました。「真っ先に秦の領土である関中かんちゅうを落とした者を関中王とする」という物で、この結果から見れば劉邦が関中王で確定です。

 激怒した項羽は、予定通りに咸陽に攻め入って、劉邦を討ち取ると宣言を出します。


 それを伝え聞いた劉邦は、配下たちの助言を聞いて、自ら項羽の陣に出向き「運よく先に到着しただけで、自分はあなたを待っていたのです」と弁明し、項羽をひたすらヨイショします。

 項羽の参謀であった范増はんぞうが、ここで劉邦を殺しておくべきと耳打ちしますが、褒められて嬉しくなった項羽は、劉邦をそのまま許しちゃいます。

 この会見が、後の歴史を大きく分ける事になる「鴻門こうもんかい」です。


 その後は、項羽が主導して天下を再編しますが、彼は始皇帝のような統一王朝を目指していませんでした。あくまでも春秋戦国のような、王や諸侯が天下を分割統治する世の中に戻そうとしたのです。

 しかし各地に冊封した王は、対秦で功績があった部下たちや、戦国七雄の子孫の中でも特に項羽と親交があった者を優先し、新たな戦火の火種を作ってしまいます。


 楚の懐王を「義帝ぎてい」として一応は皇位に付けますが、ほとんど項羽の傀儡かいらいであり、間もなく義帝は項羽の意によって謀殺されてしまう事になります。


 そうした項羽の暴挙に、天下は鎮まる暇もなく、再び各地で反項羽の反乱が相次ぐ事になります。しかし「覇王はおう」を名乗るだけあり、項羽が出向けば連戦連勝、瞬く間に鎮圧されますが、その体はひとつしかありません。いくら常勝不敗であろうと、天下のあちこちで反乱が起きては、もはや無限のモグラ叩きになるわけですな。


 ここで目玉となるのが彭城ほうじょうの戦いです。

 漢中かんちゅうに封じられた劉邦が調子に乗って項羽が留守の居城である彭城を攻め落とし、劉邦に賛同する者たちがそこに駆け付けて兵力が膨れ上がります。一方で自分の居城が落とされた項羽は激怒して舞い戻ってきます。

 漢軍五十六万。対する項羽の楚軍は三万。二十倍近い差です。普通に考えれば勝負にもなりません。


 結果は、項羽率いる

 漢軍五十六万の内、二十万が戦死したとも言われています。三万人相手に。


 覇王強すぎる。


 章邯の時もそうでしたが、項羽が率いる軍は、何故か数が問題にならず勝ってしまうのです。


 とにかく項羽は、行く先々で勝利します。各地の群雄は手も足も出ません。

 一方の劉邦は、項羽から逃げます。とにかく逃げます。


 ところが、どうした事か項羽の方は勝てば勝つほど味方が減っていきます。とにかく項羽は反乱を起こした諸侯を許さず、一族郎党皆殺し。領民は大虐殺です。自分の部下の助言もほとんど聞きません。


 一方で劉邦は、項羽に対しては逃げの一手ですが、自分の所に投降した兵士たちをそのまま許しますし、部下の話もよく聞きます。かつて項羽の下にいた韓信かんしん英布えいふといった優秀な人材も、多くが劉邦の下に行ってしまいました。


 項羽が高スペックのワンマンとするなら、劉邦は本人は低スペックながら人材活用の天才だったわけです。


 一時期は劉邦の下にいた天才軍師・張良ちょうりょう。彼は秦が滅びた後に祖国であるかんに戻っていましたが、仕えていた韓王・せいが項羽に斬られてしまった事で再び劉邦の所へ行ってしまいました。覇王ここでも痛恨のミス!


 そんな張良の補佐を再び得た劉邦は、ひたすらに項羽との決戦を避けながら、項羽の後ろを別動隊を率いた彭越ほうえつに攪乱させます。その間に国士無双こくしむそうの異名を持つ韓信に軍を率いさせて、ちょうえんせいと、次々に諸侯を下していき、項羽の包囲網を作っていきます。

 名宰相である蕭何しょうかが、それら諸軍の補給体制を万全に整えます。さらに陳平ちんぺいによる離間策で、項羽とその参謀役である范増の仲を裂きます。


 そうして劉邦の陣営が適材適所の活躍をする内に、気が付けば項羽は戦場で一度も負ける事がないまま、ほとんどの味方を失っていました。


 そして迎えた垓下がいかの戦いで、総勢で十万とも言われる劉邦の軍に対し、項羽の下に残ったのは僅か二十八騎。

 最後の突撃を敢行した楚軍二十八騎は、漢軍を次々に討ち取っていきます。覇王・項羽は最後まで残って孤立しながらも、単騎で漢軍の将兵百人以上を斬った後、軍の中に見つけた知人に「戦功をくれてやる」と言って自決します。

 この男、最後まで不敗のまま滅びました。まさに覇王……。




 さて、項羽を滅ぼした後、劉邦は「漢」を国号として皇帝に即位し、秦の都・咸陽の跡地近くに都・長安ちょうあんを築きました。この場所は西周時代の都である鎬京こうけいがあった場所でもあります。


 統治制度は、天下全ての土地を皇帝の直轄領地とする秦の「郡県制ぐんけんせい」と、春秋戦国時代の「封建制ほうけんせい」の間を取り、かつて秦の領土であった土地のみを郡県制とし、旧六国の土地には封建制のように諸侯王を置く「郡国制ぐんこくせい」としました。


 しかし、間もなく劉邦は大粛清をおっぱじめます。

 項羽を滅ぼした後に、別姓の者を王としておけば再び天下が乱れると思ったのか、国士無双・韓信を始めとして、諸侯王に封じた建国の功臣たちを次々と粛清。

 粛清後の土地には、劉邦の息子たちを王として封じ、劉氏一族による支配体制を固めました。まさに「劉氏にあらずんば、王たるべからず」って感じですな。


 ちなみに天才軍師・張良はこの事態も想定していたのか、項羽を倒した後に地位も領土も放棄。仙人になるための修行をすると言い残して華麗なるトンズラをしました。それ以後の行方は不明です。




 しかしそんな時、忘れていた敵の存在が出てきます。

 秦の始皇帝の時代、国境に万里の長城を築いて防衛せねばならぬほどの勢いで北方から攻め寄せていた騎馬民族・匈奴きょうど


 秦の末期、名将の蒙恬もうてんや、始皇帝の長子である扶蘇ふそによる防衛戦が展開され、長城の建設もされていました。

 しかし趙高による謀略で蒙恬も扶蘇も死罪となり、長城を建設していた労働者や防衛の兵士たちは、全て反乱鎮圧の為に転用され、そのほとんどがおそらく項羽によって昇天しています。


 こうして秦からの圧力を気にしなくてよくなった匈奴は、項羽と劉邦が争っている間に、当時の単于ぜんう(大王)・冒頓ぼくとつが各地の部族を統一し大勢力となっていたわけですね。


 そんな事とはつゆ知らず、項羽を倒した以上は才能のある軍人たちは危険だとして、韓信、彭越、英布といった名将たちを粛清してしまっており、天才軍師・張良すらも去っていました。


 こうして嫌々ながら自ら軍を指揮する羽目になった劉邦は、冒頓の率いる匈奴と激突します(白登山はくとさんの戦い)。


 結果はボロ負け……。


 冒頓に財宝やら娘たちやらを献上して、「匈奴を兄、漢を弟」という屈辱的な土下座外交を展開した劉邦は、何とかその命脈を保ったってわけですな。


 そんな高祖こうそ・劉邦が崩御した後、劉邦の妻であった皇太后・呂雉りょち(世界史最凶の悪女とも言われる)による専横、諸侯王の権力を削いで中央集権へ移行する過程で発生した呉楚七国ごそしちこくの乱などの紆余曲折を経て、ようやく漢王朝として定まってきた第七代・劉徹りゅうてつ(武帝)の頃に、それまで貢物を送って頭を下げてきた匈奴に対し積極的に戦争を仕掛けていきます。


 この対匈奴戦争で、衛青えいせい霍去病かくきょへい李広利りこうり李陵りりょうといった名将が活躍。(細かい部分は各自でググってね)


 とにかくこうした漢の攻撃によって匈奴は連敗し、冒頓の時代に傘下に加わっていた諸部族の離反も相次いだ事で、匈奴の勢力は大きく弱体化していく事になるわけですな。




 匈奴との戦いで国庫が空になった漢は、次は経済の立て直しを図っていく事になります。その中心政策が「塩鉄専売えんてつせんばい」です。当時は貴重品だった塩と鉄の民間での売買を禁止し、朝廷が取引を独占。その儲けで国庫を補填するというものですね。


 その後は大司馬だいしば(軍務長官)・霍光かくこうと、経済官僚である桑弘羊そうこうようの政争などを経て、中興の祖と呼ばれる第十代・劉詢りゅうじゅん宣帝せんてい)の代で経済的にも豊かになっていくのですが、その次の第十一代・劉奭りゅうせき元帝げんてい)の代から朝廷は次第に儒教に傾倒するようになっていき、儒者であり外戚がいせき(皇后の親族)でもある王莽おうもうが登場してくるわけですね。


 というわけで、次の「新・後漢」は、この王莽からスタートとなります。




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