第48話 世界の終わりと始まり

 バビロンの兵士たちは一人また一人と地面に倒れていった。門をくぐって突入してきた大軍勢は、すでに街の中枢まで押し寄せてきていた。灰色の鎧を身に着け、長い列をなしてこちらへ向かってくる。どうやら狙いはこの神殿らしい。やはりこの巨大な塔が都市の中核をなしていたのだ。

 アンの話を最後まで聞いた後、俺の心の内は異様なほど平静だった。もはや「驚く」という範囲をはるかに超越しており、逆に思考は澄み渡っていた。

 だから、俺はずっと聞きたかった質問を彼女にしてみようという気が起きた。その声にはもう動揺と恐怖の色はなかった。

「――あなたは、神なんですか?」

 一瞬の間があった後、彼女は答えた。

「お前にとって、神とはなんだ? 私は人間ではないから神というものを心に抱いたことはない。だから分からない。……強いて言うなら、”お前たちの外にいる者”としか言えない。それに、私だって自分のことを本当に知っているわけじゃない」

 気づけば、彼女の背景にあるのはもうバビロンではなかった。

 まったく別の世界だった。

 雲一つないが、薄い青空。見渡す限り深い森。

 ごつごつした巨大な岩石の上に立っていた。一面の緑ははるか下にあり、俺がいるのはかなり高い崖のようだった。

 突然、背後から爆発音が聞こえた。心臓が破れそうなほどの大音量だ。

 その爆音は俺の背中を突き抜け、頭上を渡って行った。

 見上げると、黒っぽい飛行船のようなものが上空を飛んでいた。

 SF映画で見るような、とてつもない大きさの、宇宙空間を飛ぶ航空母艦のようだ。

「お前たち人間が生まれる瞬間を覚えていないように、私も自分がどんな風に生まれたのか知らない。私の親は、たぶん、いたんだろう。だけどもう、いまとなっては知りようがない。自分が覚えている限りのもっとも古い記憶をどれだけ辿ろうとしても、いつもここから始まる」

 その時、宇宙船が崖を崩さんばかりの轟音を立てているからか、そばを一人の少女が通り過ぎて行ったのを、俺は遅れて知った。

 純白のワンピースのような服を着たその少女は、巨大な船が巻き起こす強風に黒髪をなびかせながら崖の先端まで歩いて行った。そして、ただ船が空を泳いで行くのを眺めていた。彼女の白のスカートの部分は風にゆらめいていた。俺からは彼女の背中しか見えなかった。

 船が頭上を通り過ぎ、大空の一粒となるまでの間に、鋼色の側面に小さく開いた扉から、二つのシルエットがこちらを見ているのが分かった。

 俺は目を凝らしてそれを見た。最初、かつて見た全裸の緑色の肌の人間が乗っているのだと思った。しかしそうではなかった。よく見ると、その目、その肌は、まぎれもなく蛇のそれだった……。

「世界は渦を巻き、変化しつつ繰り返し、永遠に同じ”時”を踏む。世界は人間のように死に、また生まれる。――ここはまだ世界というものが”再び生まれて”間もない頃の世界だ。お前たちの伝説に伝わっている通り洪水が全地球を襲い、全てのものが”やり直し”となった後の世界」

 崖の上で飛行船を見つめている少女は、十代後半くらいに見えた。

 アンはその少女の背中を見ながら言った。

「繰り返しが自然の真理とはいえ、どんな物語にも始まりがある。ここはお前が生きる世界にとって物語の一ページ目だが、”前の物語”の最後のページでもある。そして私の物語の一ページ目だが、誰かの物語の最後のページでもある。物語は連綿と続いていく。完全なるフィナーレなど存在しない。

 まだ幼かった私は、置き去りにされたことも分からなかった。別れの意味さえ分からなかった。だから、寂しさも感じず、泣くこともなかった。

 しかし私は気づけば、心のどこかで”復讐”を求めるようになっていた」

 陽は落ち、夕暮れの赤が世界を包み始めた。空と森の境目は黒っぽく見えた。

 少女は変わらず崖のところにいた。腕を背後につき、脚を前に投げ出して座っていた。

 周りの雄大な自然が俺の視界に入れば入るほど、目の前の少女の孤独が絶望的に深まっていくような感じがした。どこを見ても人の気配はなく、文明の陰もない。始まったばかりの広大無辺な世界、そのままの世界の中に、たった一人……。

「その思いが私をこの地へと引き合わせたのかもしれない。私が世界の中心を訪れたのは、ほんの偶然だった」

 少女は草原の上を歩いていた。生まれたばかりの草の青い生命力の強さは、俺の目を射た。

 彼女の進むかなたには一本の巨大な木が立っていた。

 周りに同じような木は他に見られなかった。

「ここで見つけたのだ。二度と独りにならないための方法を」

 少女は立ち止まった。草を踏む音がやんだ。

 風が吹き、青い葉と彼女の黒い髪は同時にそよいだ。

「支配への強い欲求が、私を動かした。

 私は知っていた。世界の隅々にまで脈を走らせる生命の中枢、この霊妙なる一点を司る、偉大な木の力を手に入れれば、一枚一枚の葉のように生み出され続ける全ての世界は私の中で息づき、脈打ち、万物の生生化育や人間のあらゆる喜びや苦しみは私のものになると。青々とした葉も枯れた葉も、満開の花もしぼんだ花も、全て私のものになると。

 その力を手に入れた時、”世界の形”が私の中に移った。根のように無数に別れたものは幹のように集束し、また、幹のように統一されたものは枝のように再び別れる運命にあるのだと知った。

 全ての真理が私と一体となった。過去、現在、未来は、全て私の知るところとなった。

 だが、その木は今にも滅びてしまいそうだった。

 そこで私は、この木を他の場所に移すことにした。

 ”再生”したばかりの人間たちの楽園に。

 そこには、まだ動物のように遊びまわることしかできない人間が暮らしていた。

 私は賭けをした。

 私と一体となった聖なる世界樹をここに植えたら、この生き物たちは食いつくのか?

 最初、彼らは全く気づく様子がなかった。

 だから私は、出来る限り彼らを誘いこもうと努力した。

 彼らを観察して、女の方が本能に従順であるのだと分かった。

 ついに女がその木に触れた時、私は永遠に人間というものを飼いならすことができると確信した。私は歓喜に溢れた」

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