第9話 ミノル、ナオト、カレン
ミノルは電車の手すりにつかまりながら、瞬きのたびに移り変わる景色を眺めていた。彼が見ている世界はいまだにフワフワしている。
今日は祝日の昼間ということもあって座席は自分と同じ二十代、あるいは十代の若い男女でほとんど埋め尽くされており、みんなが各々”お出かけ用”の格好をしていて、見るからに賑やかだ。
待ち合わせ場所は、いつもどおり盛谷駅前。今日はその盛谷駅の近くにある「ムーンドゥス」という最新テクノロジーを結集した体験型レジャースポットに行くので、近場でちょうどよかったとミノルは思った。彼、ナオト、それからカレンの三人の予定が合うことが最近なかなかなく、三人そろって遊びに行けるのは数か月ぶりだった。カレンにメッセージを送ってOKをもらった時は、高校時代から何度も一緒に遊びに行っているのにもかかわらず彼は素直に嬉しさを感じていた。
電車がゆっくりと速度を下げ、硯川駅に停車した。あと一駅で盛谷駅に着く、とミノルは思った。まもなく電車は音もなく滑るようにして走り出した。
『あの夢を見てからというものの、何かがおかしい……』とミノルは思った。はっきりどこがどうこうと言えるわけではないが、自分の心の中と今見てる世界がきちんと結ばれておらず、ほんの少し食い違っているような気がする。この違和感は、数日前に自分が明らかに別の国、別の時代の人間になって謎の美女に抱擁されたあの夢から覚めた朝からだ。その日から、『我も忘れるほど没入して映画を観たあとに劇場を出るとき』のような、あの自分と世界とのはっきりとした隔絶感に戸惑う感じがずっと続いている。
ミノルとしてはこの数日間、いつも通り生活をし、いつも通り働いていたつもりだが、外側からそうは見えなかったのか、同じ映画に出演しているベテランの大御所俳優に、撮影現場の人気のないところで「大丈夫?」とか「何か悩んでいることがあれば全部打ち明けて」と心配させてしまったことを考えると、自分は相当動揺していたんだろう、とミノルは思った。
電車は盛谷駅に停車した。扉が開いた。少し遅れてミノルも他の乗客と一緒に出た。
集合場所に着くまで、ミノルはこの数日間、何度も繰り返されたあの朝のワンシーンを振り返っていた。
夢から目覚めて気づいたとき、目元と枕が涙でぐっしょりと濡れていた。悲しみからか? いや決して悲しみではなかった。パジャマで顔いっぱいの涙の跡を拭っていたときに心に残っていたのは、遠く、深いところからやってきた感動の余韻だった。
いつも目印にしている尻尾を空に高く掲げた大きな猫の銅像の前に着いたときには、すでにナオトはそこにいた。待ち合わせの時間よりまだ十分も早いのに、誰よりも先に着いているのがナオトだった。
「おお! レイン!」ミノルはあえて高校時代にナオトが呼ばれていたあだ名で大仰な調子で呼びかけた。
「いやそのあだ名はやめろって」
「レイン」は当時流行っていたゲームの主人公の名前で、ナオトがあまりにゲームオタクなのでクラスメートがからかって付けたものだった。こうして毎回出会い頭に何かしら仕掛けるのが暗黙の”礼儀”になっている。
「めちゃくちゃ晴れたな。本格的に夏って感じ」
そう言うナオトは、今日のような梅雨明けの雲一つない快晴になることが分かっていたかのように、いかにも夏に備えた格好だった。いま彼がはまっているゲームの主人公「ドーギー」の躍動感のあるイラストがプリントされた黒いTシャツを着ており、下はベージュの半ズボンに青いスニーカーだった。二十六歳にもなってキャラクターTシャツ一枚を堂々と着てくるナオトは、もちろん三人の中でぶっちぎりで一番ファッションセンスがなく、それを高校生の頃から他の二人は幾度となくいじってきた。
――待ち合わせ時間から二十分が過ぎた。
「カレン、思いっきり遅刻だな。……まぁ今に始まったことじゃないけど」
そうミノルが言いながら人ごみの中を眺めていると、すごい勢いで駆けてくる女性がいた。カレンだ。
「ごめんごめんごめん!!」
二人の前で急ブレーキをかけるやいなや、眉毛を八の字にして手を合わせながら謝っているカレンは、その滑稽なポーズにもかかわらず、いつにもまして美しかった。オーバーサイズの淡い灰色のTシャツの袖をまくっているところからは白い肌が見え初夏の強い日差しを受けて眩しい。ズボンの青いデニムはくるぶしの上まで伸び、足には黒いサンダルを履いておりいかにも涼しそうだった。
ミノルもファッションにはこだわりはなかったから、はたから見てもすぐに分かる通り、明らかに三人の中でもっともおしゃれなのは、カレンだった。
ようやく揃った三人は、目当ての体験型施設に行くために涼しいビルの中へと入っていった。
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