第2話 二つの間違いと温かな手のひら

 移動したラウンジの窓辺にある、カウンター席にて。

 紗江子は誠とともに、眼下に広がる夜景を眺めながら、ジンバックのグラスを傾けていた。


「それで、一体なぜ、香水を捨ててしまったんですか?」


「実は……」


 問いかける誠に、紗江子は自分の身に起きたことを語りだした。


 学生時代からの恋人、幸二と婚約したこと。

 その幸二が心変わりしたこと。

 背伸びして買った香水のことを「自分勝手だ」と言われたこと。


「それで……、お店を出て泣いてたんですが……、香水を持ってきてたのを見つけて……、すごく虚しくなって……」


 言葉を続けるうちに、目からは再び涙がこぼれだした。


「幸二は……、勉強も仕事もできて、見た目もカッコイイ、完璧な人でした……。だから……、そんな彼に、見合うような女性になろうと、頑張ってたのに……」


 紗江子は両手で顔を覆い、嗚咽しだした。すると、それまで黙ってうなずきながら話を聞いていた誠が、そっと口を開いた。


「それは、つらかったですね……」


「はい……、でも、仕方ないんです。もともと、私なんか……、幸二につりあうだけの魅力がなかったんですから……」


「そんなことは、ないですよ。ただ、二つほど、間違いはありますが」


「……間違い?」


 両手を離して目を向けると、誠が穏やかな微笑みを浮かべてうなずいた。


「ええ、一つ目は香水の選び方。あの香水は、紗江子さんがはじめて買った香水だったんですよね?」


「はい。でも、選ぶというより店員さんに勧められるまま、というかんじでしたが……」


「それじゃあ、自分でもあまりいい香りだとは、思わなかったのでしょう?」


「え……、それは……」


 正直な感想は、そのとおりだ。しかし、それを口に出してしまうのは、気が引けた。誠はあの香水を生み出した人間なのだから。


 答えあぐねているうちに、誠の微笑みは苦笑いに変わった。


「言葉に詰まる、ということは、正解だったみたいですね?」


「すみません……、正直なところ……」


「ははは、謝ることではことではないですよ。むしろ、それが当然です」


「当、然?」


 問い返す紗江子に、誠は笑顔でうなずいた。


「ええ。だって、あの香水は紗江子さんよりも、もっと年上の方々が好むような香りにしましたから」


「そうだったんですね」


「そうなんです。販売するほうは、とにかく新作を売りたい、という気持ちだったんでしょう。まあ、その気持ちも分からなくはないのですが……」


 誠はそこで言葉を止めると、ジンバックを一口飲んだ。


「心を動かすような香水との出会いは、しばしば恋にたとえられたりするほどです。なので、人に勧められたものよりも、自分が心からいい香りだと思ったものを選んだほうがいいですよ」


「そうですか……」


 もしも心からいい香りだと思える香水をつけていたら、幸二を引き止めることができたんだろうか。ぼんやりとそう考える紗江子の頭を、誠が再びそっとなでた。


「それと、もう一つの間違い。こちらのほうが、重大な間違いです」


「……それは、なんなのですか?」


 目を見つめて問いかけると、優しげな微笑みが返ってくる。


「貴女に魅力がない、という思い込みですよ。貴女はとても魅力的で、美しい女性ですから」


「へ……?」


 予想外の言葉に、紗江子は気の抜けた声を上げた。

 

 男性から容姿を褒められたのは、これがはじめてだった。

 幸二は交際を始めた頃から、目つきが悪い、だの、顔立ちが全体的に男っぽいだの、と容姿をからかっていた。それは、照れくささかくるものだったが、紗江子はその悪態をずっと真に受けていた。そのせいで、誠の言葉の意味が、分からなかった。


 戸惑う紗江子をそよに、誠は席を立った。


「さて、間違いが分かったところで、行きましょうか」


「行くって、どこへ?」


「間違いを正しに、ですよ」


「間違いを正す?」


「はい。決して悪いようにはしないので、ね?」


 誠は微笑みを浮かべながら首を傾げ、紗江子へ手を差し伸べた。

 

 普段なら、いくら「決して悪いようにはしない」などと言われても、初対面の男性についていくことなど、絶対にありえなかった。しかし、婚約を破棄され自暴自棄になっている今夜、自分のことを美しい女性と評する男性の誘いに抗うのは難しい。


「……」


 紗江子は無言でうなずくと、そっと手を取った。

 骨張った温かい手の感触が、心地良い。


 誠は立ち上がった紗江子の肩を抱くと、耳元に顔を近づけた。


「少し酔っているようなので、こうして支えていますね」


「……」


 再び無言でうなずくと、誠は満足げに微笑んだ。


 そうして、二人はラウンジを出ると、高層ビルを後にした。


 

 人でにぎわう週末の街を抜けて二人が向かった先は、ビルからほど近いタワーマンションだった。


「ここは?」


 紗江子が答えの分かりきった質問をすると、誠は穏やかに微笑んだ。


「俺の家ですよ。間違いを正すには、もってこいの場所ですから」


「そう、ですか……」


 予想通りの答えに、紗江子はしなだれかかりながら返事をする。

 誠はそんな紗江子の肩を抱く手に、そっと力を込めた。


 そうして、二人はエントランスホールの中へ、消えていった。

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