無限の猿の手

半私半消

編集者視点①

 あの先生の作品が好きというのも、この会社へ入りたい一つの理由だったが、まさか未だに完全アナログで執筆しているとは。FAXすら使わないので生原稿を受け取りに行く必要があり、職場からまあまあ遠いので役目が下っ端編集者に回されがち、というのは、私にとっては幸運だったかもしれない。


 初めて行く場所だから、遅れたりしないように余裕をもって移動するも、予定時刻よりだいぶ早めについてしまいそうだ。先輩から、あんまり早く行っても書き上がるギリギリまで待たされるだけだぞ、と聞かされているものの、作家が原稿用紙に向かっている後ろで、ただ座ってプレッシャーを与える、なんて編集っぽくていいじゃないか。それとも、作家との打ち合わせというものは遅れてくるのがマナーなのか?


 先生の自宅に着く。なるほど、昔ながらの住宅って感じで、門扉の横のインターホンもカメラすら付いてない、ただ鳴るだけのタイプだ。ここから見える玄関も引き戸で、なんだか祖父母の家を思い出す。表札も合っている(先生はペンネームでなく本名で執筆している)から間違いなくこの家だと確認できたし、さてどこかで時間を潰そうか、いや土地勘のない場所だから迂闊に動くのは危険か、せっかくここまで来たのに遅れてしまったら第一印象が悪くなってしまうか、など逡巡した結果、ちょっと早くても呼び鈴を鳴らすことにした。


 最後の追い込みの執筆をしていたらどうしよう、と不安だったが杞憂だったようで、すぐさま先生が玄関までいらしてくださった。著者近影で何度か見たことがある顔だったので、近所に住んでいる同じ苗字の赤の他人という可能性が完全になくなって安心した。


 しかし、右手に分厚い本を持っている。やはり書いている途中であり、辞書を引こうとした瞬間に呼び鈴を鳴らしてしまったのだろうか?


「はじめまして! この度新しく担当させていただく──」

「ああ、君が新しい編集さんだね。とりあえずお上がりくださいな」

 自己紹介もそこそこに招かれてしまった。緊張も少なからずしていた第一声だったのに、出鼻をくじかれたような気分だ。まあ書き上がるのを待ちながら時々邪魔にならない程度に世間話でもすればいい、長期戦は覚悟の上だ。


 連れられるままに廊下を歩く。途中に置いてある電話が黒電話だったのは驚いた。FAXでないからってここまでアナログなものが出てくるとは思っていなかった。先輩方から聞いていたものの、ここまで筋金入りの機械オンチだとは。

 客間の座布団に座り、ほうじ茶をいただく。長期戦だ、なんて意気込んでいたがなんだか気が抜けてしまう。考えてみれば、カンヅメ部屋のドア付近に陣取って完成を待つ編集、なんてマンガで誇張されたイメージでしかなかったのかもしれない。


「いやあ、いつもだったら二階の執筆部屋で逃げ出さないように頼むんだけどね」

 そうでもなさそうだ。

「今日はちょっと頼みたいことがあるから、先にあらかた仕上げておいたよ」

 そう言って、封筒に入った状態の原稿用紙を渡された。どうやら私が思う編集らしいことは出来なさそうだ。まあ早めに訪問しても大丈夫だったし早めに終わりそうだし結果オーライ。

「共同執筆者──いや、ライバルがいてくれたのもあって、スムースに進んだよ」

「ライバル……と言いますと?」

「この右手さ」

「は?」


 思わず間抜けな声が漏れる。右手? そういえばお茶を用意するときもずっと辞書を右手に持っていたが、何か関係があるのか?

「いや、正確には──あの猿の手かな」

 そう言って指さす方向には……なんだろう、猿の腕の剥製? 普通、客間の飾りとして、木彫りの熊とか信楽焼の狸がいそうな場所に、なんだかよくわからないものが、模造刀のように置かれている。そのものはボロボロだが、この空間にまだ馴染んでいないような印象を受ける。最近購入したものなのだろうか?


「……」

 ますます混乱する。その腕が先生の腕とどう結びつく?

「と言っても、これじゃあまるでわからないだろうね。ちゃんと説明するから……時間に余裕はあるかな?」

「あ、はい」

「じゃあ先に事の顛末を話そう。そのあと読んでもらって感想や誤字脱字を聞かせてもらおう、最後に──これがわざわざ早めに完成させて頼みたいことなんだが──」

 そう語ると、恐らく床の間に続いているふすまを開け、何かを取りに行ったようだった。依然として辞書は持ったまま。帰ってきた先生の左手には紙箱が。何が入っている?

 「──このタブレット端末を、僕が使えるように説明してくれないか」

 ……あれ、もしかしてアナログ卒業するの?


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