第3話 劇場の魂になるまで3



「ここから地下へおりていくんだ」


 リュックが指さすのはレンガの壁に両側をはさまれた、人間一人がやっと通れるほどのくだり階段だ。暗闇がとくに濃く、底が見えない。


 ここへおりていくとなると、もうそれだけで不気味だ。ふつうの感覚の人間なら、誰しも恐れをなす。

 恐怖は人を錯覚させる。

 魔物の正体はこの深い闇が作りだしたのかもしれない。


「リュック。なぜ、おりないんだ?」

「おまえがさきに行けよ」

「ひよったのか?」

「ち、違う。いいから行けって」


 完全に顔がこわばっている。


「リュック。おまえ自身は魔物を見たことは?」

「おれは、ない。まだ。でも、歌声は聞いたことがある。舞台の近くだった」


「それは端役かなんかが練習してたんじゃ?」

「違う! みんな帰ったあとだった。うっかり書きかけの楽譜を忘れたから、とりにもどったんだ。そしたら……」


「裏口から入ったのか? でも、みんな帰ったあとなら錠がおりてるだろ?」

「劇団員の数人だけ、鍵の置き場所を知ってるんだ。裏口付近に隠してあって」


「隠し場所を知ってるのは、おまえのほか、誰と誰?」

「門番のマリオさん。道具長のポール。役者のなかではアルバディアスとマリアンヌ。グランソワーズも知ってるかな? あと花屋のフランチェスカ」

「わりといるな」


 話しながら、階段をおりていく。壁に片手をつき、反対の手に持ったランプをさしのばす。さきが見えないので、足をふみはずすんじゃないかという実質的な心配のほうが、ワレスには勝った。


 やがて、しめったイヤな匂いが漂いだした。かすかな水音。それに冷気。


「知ってるか? ワレス。皇都は古い都市だから、たいていの建物の下には、それより前の時代の遺跡が眠ってるんだよ」

「ああ。らしいな」

「劇場の下にもそういうのがあるんだ」

「まあ、あるだろうな」

「カタコンベだぞ?」


 なるほど。だから、やけに臆病風を吹かせていたわけだ。


「地下墓地か。安心しろ。何かあるとしても、ただの骨だ」

「おまえ、どんな神経してるんだよ。怖くないのか?」

「生きてる人間のほうが、ずっと残酷だよ」

「そうかなぁ」


 リュックは音楽家だから、こう見えて繊細なようだ。


 階段の最後の段をおりると、石の壁で補強された地下室だ。まだ劇場の敷地だ。


 水音のするほうへ歩いていく。石組みが見える。なかを流れているのは下水のようだ。世界でもこれほど下水道がしっかりしているのはユイラだけだ。


「変だな」

「何が? おい、ワレス。あんまりさきに行くなよ。迷ったらどうするんだ」


「清掃員が入るんだ。劇場の敷地内なら迷いはしないさ」

「おまえ、ほんとにどういう神経なんだ? 岩か? 鋼か?」


「下水のそばだし、カタコンベもあるという。臭気がこもるのは当然としても、なんとなく甘い匂いがしないか?」

「しないよ。そんなのするわけない」


「リュック。おまえ、声がふるえてるぞ。怖いんだろ?」

「違うね。これは寒いからだ」


 ピトン、ピトンと水滴のしたたる音がする。水路のすぐよこを通っているから水音が聞こえるのはあたりまえだが、それはあきらかに天井からたれてくる音だ。


「どこか雨もりでもしてるかな?」

「まさか。ちゃんと定期的に点検される。見つかれば、ただちに修繕だ」


 水路はどこまでも続いていく。しかし、そろそろ劇場の敷地を出てしまうようだ。行手に壁が立ちふさがった。


「穴があるな。ここからカタコンベに通じてるのか?」

「おれが知るわけないだろ! もう帰ろう」


 壁の一画が洞穴らしきものにつながっていたが、ワレスがのぞいたかぎりでは、地下墓所への入口だ。迷宮のように複雑な穴が続いている。それもところどころは崩壊ほうかいしている上、少しさきで鉄柵に遮断されていた。ここから劇場へ侵入することはできない。


「帰ろう」


 ワレスが告げたときだ。

 とつぜん、リュックが悲鳴をあげた。


「どうした?」

「ギャー! なんかに首をなめられた!」


 派手な声でさわぐので、ワレスは思わずクスクス笑う。


「おいおい。魔物か? だったら、魔物は姿が見えない」

「バカにすんな? ほんとだぞ。今、このあたりを……うわっ。なんだこれ? ネバネバする。魔物のヨダレだ!」


 リュックがなめられたという首筋をながめる。たしかにぬれている。が、さっきから水滴のたれる音がしていた。きっと雨滴だろう。それにしても、甘い匂いが強くなった気はしたが。


 すると今度はどこからか、ゴォーンと妙な音が響く。


「な、なあ、ワレス。うなり声じゃないか?」

「風の吹きぬける音だろ?」


 広い地下空間に反響して、わずかな音がとても大きく聞こえているらしい。高くなったり低くなったり、波のようながある。

 暗闇で恐怖にふるえる人間なら、それだけで魔物が出たと信じこむだろう。


 我慢ならなくなったように、リュックは走って逃げだした。

 ワレスもあとについていく。見るほどのことは、もうここにはない。


 階段をあがりきって地上に戻っても、リュックは文句を言っていた。


「ああっ、気持ち悪いな! このヨダレ。ネットリして髪が張りつくしさ。ちょっと洗ってきていいか?」

「かまわないけど、おれはさきに舞台を見に行くぞ?」

「……あ、ああ」


 一瞬、ついてきてほしそうな目をしたものの、リュックは一人で歩いていった。劇場の目の前に噴水がある。そこへ行くつもりだろう。


 ワレスは舞台をめざした。

 今の時間なら誰もいないはずだ。だが、暗い廊下を進んでいくと、歌声が届いてきた。


 歌声——

 この時間に、まさか人がいるのだろうか?


 ワレスは走った。

 静けさのなかに、しだいに明瞭めいりょうにその声は聞こえる。女声、あるいは透きとおるボーイソプラノ。


 だが、少々あせりすぎた。足音を警戒したのか、精霊は去っていった。

 ワレスがかけつけたときには、舞台袖のカーテンのすきまに、白い人影が吸いこまれていくところだった。

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