第63話「通商条約締結会談 Part5」
俺の左手は軽い捻挫で済んだ。とはいえ、捻る動きを加えるとかなり痛いのは確かだった。手当てを終えて今は侯爵の騎士先導の元、侯爵の待つ晩餐の間へと向かっていた。
お姫様抱っこは手当てを終えた今尚も継続されている為、すぐ近くからティナの声が聞こえてくる。もちろん、目の前には眼福な彼女の胸もある。触れない様にするのが大変だった。
「大丈夫か?」
普段の芯の入った声色からは想像出来ないほど、不安と心配に満ちた優しい声がすぐ側から聞こえてきた。
「うん、見た目ほど重症じゃないよ。一週間もすればきっと治るんじゃないかな」
「そうか、私が付いていながら本当にすまない。私はお前の守護騎士だというのに……」
(あの男はなかなか出来るやつだった。そんなもの何の言い訳にもならないが、私の慢心でショウゴを危険に晒してしまうなど、未熟者にも程がある。なんと痛々しい左手だろう、ショウゴはあぁ言っていたがすごく腫れて痛そうだった。
私が怪我をすればよかったのだ、好きな男が怪我をすると自分の事以上に辛いものなのだな。この後悔は、決して忘れないぞ!)
ティナの顔には、後悔の色が浮かんでいた。眉間を顰め、歯を食いしばり苦痛に満ちていた。俺はそれを見て、本当に愛されているんだと感じた。そして彼女にそんな思いをさせてしまった己の不甲斐なさのせいで、心に鋭い痛みが走った。
俺は彼女の眉間を人差し指でぐりぐりと揉み解した。
「な、なんだ?!」
彼女は、苦痛に満ちた顔から一転して驚いた顔になった。
「うん、その顔の方がずっと可愛いよティナ」
「ばっ// 馬鹿を言うな。今は、そんな気分じゃないんだ」
「て言うかさ、そろそろ降ろしてくれないかな。さすがに侯爵にこの情けない姿は見せたくないんだ」
まさか、お姫様抱っこをされている状態で侯爵と大使に会う訳にはいかない。しかも、俺はまた吟遊詩人みたいなコスプレをされているのにだ。
「だめだ! 今日は絶対に、ショウゴを手放しはしないぞ。お前はか弱いからな」
グサッ! っと来たよ今の言葉は……。見てくれは二十歳そこそこの若者でも、中身は三十のおっさんが好きな女から、か弱いって……あぁ死にたい。
こうとなれば、無理にでもティナから脱出するしかない。そう、ティナの弱点を突くのだ。それは初心な乙女心を責めるべし! 一見堅牢な城でも、人の心を崩せば何とやら!
俺は彼女の豊かな胸に抱きついて、顔を埋め、そのまま顔で彼女の胸を撫で回した。おほほ〜何これ幸せすぎるっ! ティナの胸は本当に柔らかくて、それでも鍛え上げられた胸筋が時折顔を覗かせる。その強弱が何とも心地よかった!!
さて、名残惜しいがこれだけやればティナも俺を手放すだろう。そう思って彼女の顔を見上げたのだが、ティナは褐色の頬とその長い耳まで真っ赤に染めあげていながら、毅然とした態度で俺を見下してきた。
「だ、駄目なものは駄目だ。お前が怪我をするくらいなら、辱めを受けた方が……まっマシだ」
彼女は恥ずかしさのあまり目を回している様で、しかもセリフに至ってはカミカミだった。それでもその予想外の反応は、俺に効果抜群だった。
「…………そっそう、ですか」
ナチュラルに恥ずい、えっ、待って、ティナ俺のこと好きすぎるでしょ!!!! こうして俺の抵抗も虚しく、いつの間にか晩餐の間に辿り着いてしまったのだ。
同行していた騎士が、俺たちの名を読み上げて到着を知らせる。そして無常にも羞恥心の扉が開かれていくのであった。
ティナはズンズンと晩餐の間に入っていく。俺は恥ずかしさのあまり顔を赤くしながら目を瞑っての入場であった。侯爵の抑え切れない笑い声が漏れ聞こえてくる。畜生!!
しかし、ここでティナは俺を手放してくれた。驚いて目を開くと俺は椅子に座らせられていた。そしてそのすぐ背後にティナが軍人の様に手を背後に回して仁王立ちしていた。なるほど、是が非でも俺から離れる気は無いということか。
「随分な登場であったなショウゴ?」
先程までも十分笑ってくれていた侯爵が声をかけて来た。俺は揶揄われている事に気付きまた顔を赤くした。
「申し訳ありません閣下、お見苦しい所をお見せいたしました」
「まぁ良い、ファウスティーナ卿の頑固さは私がよく知っているからな。それよりもショウゴ、貴様に紹介しよう。右手に居られる方がアレス商国、カシーム・ボンク大尽、此度の会談の為に参られた大使殿だ。貴様のウイスキーを痛く気に入られた様でな、貴様に色々と話を聞きたいようなのだ」
「初めましてショウゴ殿、まさかこの素晴らしいウイスキーを造った職人が、かように若い方だとは夢にも思いませんでした」
あぁ、驚いた。
俺は目の前にいる、ちびでデブで醜悪な外見をした怪物を見ていた。まるで、董卓だよ、酒池肉林の権化だよ!! 見た目の醜さを隠すように見るからに高そうな生地で誂えられた衣装と、その小さな体に所狭しと飾り付けられた貴金属と宝石達が泣いている様に見えた。
あっ、その背後には厨房で出会ったケモミミお姉さんもいた。会った時は、黒い襤褸を着ていたのに、今は美しい青いドレスを着ていた。何で彼女がここにいるんだろう……。
「ショウゴ!」
「あっ、はい!」
「全く貴様という奴は、大使殿に早く挨拶をせぬか」
「は、はい。お初にお目にかかります、酒職人の翔吾です。よろしくお願いします」
侯爵はこんな強欲の権化みたいなやつと戦ってたのか〜。でも見た目の割に目下の奴にも結構丁寧に接するんだなぁ。
「ほう、名をショウゴ殿と言われるのか、家名をお聞きしても宜しいかな? さぞやご高名な酒職人一門の方だと思うのだが」
なんか大使の目がギラギラ光ってて怖いんだけど、まるで獰猛な野犬が豚の丸焼きを見つけた時みたいな野蛮さだ。
家名? あぁ、苗字のことか。そういや、俺ってこっちの世界来てから苗字名乗った事ないな。
「水谷です。翔吾、水谷です」
「ミズタニ? ふーむ失礼ながら聞き覚えのない家名ですな」
「私も初耳だ。まさか貴様が家名を持っていたとはな、驚きだよ」
「あはははははっ、はははっ、は……」
あっやべ! 侯爵が俺に対して咎める様な鋭い視線を飛ばして来ていた。声色にも若干の棘がある。この世界の常識はユリアからだいぶ叩き込まれていた筈だった。なのに、うっかり前世の苗字を名乗ってしまうとは……なぜこういう時俺はもっとよく考えないのか。
自分の考えなしのせいで、いろんな面倒ごとに頭を突っ込んでいる気がする……。とにかく笑って誤魔化してみたものの。
大使が怪訝な顔を浮かべた。醜い顔がさらに悍ましいものへと変わった。
「侯爵もこの者の名を知らなかったのですか?」
「いやこれはお恥ずかしい。この者は美味い酒を造ってくれる故、平民でありながら自由にさせていたのだが、そのせいで少々管理が行き届かなかった様ですな、ハハハッ」
平民という言葉を聞いた大使が体をびくつかせたのを俺は見過ごさなかった。
「平民? 侯爵閣下、私の聞き間違いでなければですが、この者は平民なのですか?」
その声色には明らかに不満や憤りと言ったものが含まれていた。雲行きが怪しくなってきたな。
「えぇ、その通りです。平民の身でありながら、このウイスキーを造った天才と説明すれば宜しいかな?」
おぉ、なんか褒められたけど俺はそれよりも気になるものを見ていた。グロテスクなものって、怖いもの見たさでつい見ちゃうよね。大使の顔が茹で蛸の様に赤くなり、プルプルと肩を震わせて、額、こめかみ、顎に青筋が浮き出てきた。
そして遂に大使は爆発した。両手で大理石の机を強打し、小さな体で椅子に立ち上がり、大声を張り上げたのだ。
「侯爵閣下あまり私を苛めないで頂きたい! 貴方がこのウイスキーなる酒の製法を私にお譲りして頂ける。私はそう聞いたのです! その代わりに、私は貴方の条件を飲んだのですよ?」
あぁー! 何となく、俺がここに呼ばれた理由がわかってきたわ。俺の勘違いでなければ、うん、間違いなくこれ。
俺の事、ダシにされてるよね?
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