第29話「余波」

 いつの間に眠っていたんだろうか、朝の九時を指す港の鐘の音で目が覚めた。目の前には、ティナがすやすやと眠っている。


 いつもなら、ティナは日の出前に起きて剣の訓練をしているはずだ。ん? あぁティナの服装が変わっている。いつものタンクトップとショートパンツだ。


 きっと彼女は、朝早く目が覚めて日課をこなし、着替えてまた戻って来たのだろう。戻ってきて、そばで寝ている彼女が愛しく感じた。


 それにしても、よく寝ている。ティナの寝ている顔は、本当に安らかで普段の猛犬ぶりが嘘のようだった。顔だけ見れば、本当に整っているし小顔で髪は絹糸のよう、男は放っておかないだろう。そんな彼女に、昨日言われたことを思い出すと、自然と顔が熱くなっていくのを感じた。


「おっさんが、何を今更恥ずかしがってんだよ。気持ち悪い」


 俺は、起き上がって侯爵との謁見に備えた。今日は、肩ばった服を着ずに済んだ。侯爵が用意してくれたオーダー服は、平民では買えないような上質な普段着を用意してくれていた。


 侯爵との謁見は、昨日と同じく晩餐室で行われた。それも朝食を食べながらだ。港町なだけあって、多くの魚料理を出された。焼き魚や、塩漬けの魚、酢漬けの魚、どれも珍しくは無かったが、侯爵家の料理人だけあって、味はよかった。


 それでも、寿司や煮付けが食べたくなるのが、日本人だったということだろう。


「ショウゴ、随分と機嫌が良さそうではないか」

「はい、おかげさまでゆっくりと寝ることができました」

「そうか、その分だとファウスティーナへの贈り物が、無駄にはならなかったようだな」

「チッ」


 ティナは、短く太く舌打ちをした。よく我慢している方だろう。


「ふふっ、それはさておき、アレス商国の大使は三ヶ月後に訪れる予定だ。何か聞きたい事はあるか?」


 来た。俺は今日聞きたい事を頭の中でまとめておいた。


「アレス商国の酒市場は、どのような物なんでしょうか?」

「アレス商国も、我が国と飲まれる酒はあまり変わらないな。強いて言えば、多くの国が行き交う場所の為に、各地の民族が独自に飲んでいる酒があると聞くな。それと、アレス商国はワイン作りが盛んだ。そう言えば最近、酒精を強化したワインを開発したと聞くな」

「えっ?!」


 俺は思わず、酒精を強化したワインと聞いて、大声を出してしまった。場が少し、騒然となった。


「ショウゴ?」


 ティナが少し、不安げな顔で俺を心配してくれた。それは侯爵も同じ……ではなく、少し怪訝な顔を呈していた。


……酒精を強化したワイン。もしかしたら−−


「閣下、そのワインを全種類、私の為に購入していただけないでしょうか?」

「ほう、それがかの国との交渉を、有利に進める為に必要な事なのだな?」

「左様です閣下」

「良いだろう。造作もないことだ。届き次第、送り付けよう」

「感謝いたします」


 その後も、恙無く会談は進み、最後に貴族全員にウイスキーを酒瓶でプレゼントした。


「これが、閣下とアーネット卿を虜にした、ショウゴ殿の虎の子ですな」

「スタンプ閣下は、まだお飲みになられてないのですね」

「えぇ、閣下はこの酒を一口飲まれた瞬間、誰にも分けてくださらぬくてな、皆驚いたものでしたよ」


 俺の贈り物で、一番喜んでいたのはシールズ侯爵だった。自宅のワインセラーがあれほど充実していた人だ。見栄ではなく、本当に酒が好きなんだなあの人。その喜び用は、酒の入った瓶にキスをするほどだった。


 こうして俺は無事、アクアリンデル城を後にすることが出来た。帰りは、店の前までシールズ侯爵の馬車で送り届けてもらった。店の前には、今日もお酒を買いに来てくれているお客さんの行列ができていた。最近では、貴族街からも使用人が買い付けに来てくれている。


 ただ、権力を傘に横柄な客がいるのも事実で、こうやって大々的に侯爵の馬車から俺が降りれば、そんな客も減ると良いのだが……。


「旦那! お帰りなさいっす!」

「ただいま、カイ。暑い中ご苦労様」


 店の外で、お客さんの相手をしていたカイが出迎えてくれた。


「こんなの何でもないですよ!」

「相変わらず元気がいいな、お前は。それでユリアは?」

「中で、接客してますよ」

「そう。ありがとう」


 俺は、分かりきっている事をカイに聞いてしまった。何となくだが、罪悪感が……。俺は、何事もなかった様に勤めて、店の中に入っていった。


「あら、ショウゴお帰りなさい」

「おう、ショウゴ! 昨日は侯爵家にティナと泊まったんだって?」


 ベン殺す!! ナッツの親父も隣でニヤニヤしやがって。彼らが、この事を知っているのは、侯爵家の使いが昨日、店に泊まることを知らせてくれていたからだ。

 俺は必死に、営業スマイルを取り繕った。


「いらっしゃい、ベンにナッツの親父も。それと、ただいまユリア」


 この世界では、親しい人間とハグをして挨拶するのが割と普通だ。その為、俺は近づいて来るユリアを軽く抱きしめる。


 その時だった。


「あとで、話があるから」


 俺の心臓は、破裂するんじゃないかってくらい。飛び跳ねた。


「あ、あぁ」


 俺は、怯えてるのか承諾しているのか。わからない、生返事を返すのが精一杯だった。だ、大丈夫だ。悪い事は一切していない。


 それに、ユリアがうちの店員になってから、一切手を出していないし。


「う、売上の方はどんな感じだい?」

「そうね、街の皆さんはウオッカを買っていくわね。お金持ちは、フレーバードウオッカの天使の息抜きとかシナモンウオッカを買っていかれるわ」

「そっか、新商品が新たな客層をうまく掴んでくれたみたいだね」


 ふう、何とか会話が変わった。このまま、何事もなければいいんだけど。


 その日一日の営業が終わり、やっと家に帰れる段になった時だ。馬小屋から、ベッラと一緒に馬車で店に戻った時。


 店の前では、戸締りを終えた三人が揃っていた。そして、カイとユリアの手には大きな革鞄が握られていた。彼女たちはこの一週間とちょっとを、街の宿屋で寝泊まりしていた。


 というのも、俺がユリアと一緒には住めないと話していたからで。


「ユリアさん?」

「はい、何ですか?ショウゴ


 ユリアは、凄くいい笑顔を浮かべながら、返事をしてくれた。でも、閉じられたその目は笑っていなかった。俺はこの時点で、少し叫びそうになってしまった。


「あ、いや、そ、その荷物は一体……」

「それは、旦那が姐さんというものがありながら、ティナさんと一緒に住んでるは、侯爵家ではお楽しみだはで、姐さんが可哀想だからにぃぃぃいい!」

「カイ、あなたは黙ってなさい」

「は、はぃぃい」


 ユリアは、張り付いた笑顔のままカイの頬を強くつねって黙らせた。


「カイが言ったことは、忘れてください」

「えっ?」

「忘れてください」

「は、はい」

「ティナさんにお聞きしたんです。何でも、ショウゴさんの家には部屋が余っているとか」

「ティ、ティナ?!」


 彼女は、口笛を吹きながら、知らないふりをしてくれやがった。なぜ彼女がユリアの援護をするんだ? あれだけユリアの事毛嫌いしてたのに……女ってわからん。


「ですので、私たちもそこに泊まらせていただければ、宿代も浮きますし、ショウゴさん共々幸せなんじゃないかと」


 ユリアが、俺のことをさん付けで呼んでくることが、これ程怖いことだったとは思わなかった。


「いや、それは」

「ショウゴさんは、幸せじゃないんですか?私がいると」


 とうとう、ユリアは目を開いて笑うのをやめた。見開かれた目には、光はなく、俺は返答を間違えれば死ぬと思った。もう脅迫だよこれ……でもそんなダークなユリアも好きだと思ってしまう俺は……素直に喜ぶべきか、ははっ。


 しかも、幸せかどうかという問いは、含意が広すぎて全く否定できる気がしない!俺はわずかばかりの説得の可能性を、あきらめるほかなかった。


「チョーシアワセデス。イッショニカエリマショウ」


 こうして、俺たちは正真正銘一つ屋根の下で、過ごすことになった。ユリアの無言の圧力で、彼女は俺の隣の部屋に住むことになり、ティナとカイは二階だ。珍しく、ティナはユリアに何も言わなかった。


 俺はティナに、何故急にユリアに優しくなったのか聞いてみた。


「ん? それはほら、私はもう剣士の誓いによって、お前のそばに一生いられる訳だし、あの女にもそれなりのチャンスは与えるべきだろう」

「え、えぇぇ」


 こ、こいつ! やられたからマウントを取り返しただけじゃねぇか! ほんとティナは剣以外の事はてんで子供でやんなっちゃう。


 剣士の誓いってそういう、やつ、なのねぇ。後で少し、後悔するのは俺の方だったの、ね。いや、悲しいとか嫌とかじゃないけど、重い、重いよその想い。でもまぁ、問題があるからと言って見捨てたくはない。


 俺自身謂れのない罪を被って不当解雇され苦しんだ。それでも歌舞伎町でやっていけたのは、周りの人間がよくしてくれたからだ。ティナは確かに問題があるが、俺にできない汚れ仕事を引き受けてくれる。俺の代わりにその手を血で染めてくれる。そう俺は手を汚さないでいられるのは……ティナのおかげだ。


 俺は計り知れない借りがティナにあるし……言葉にはできないティナへの好意もある。騎士様に守られるお姫様のような安心感と信頼……あれ少し泣けてきた。


 それはそうとその日から、俺の家兼酒蔵は大変賑やかになった。


 カイとユリアは護身用に、朝の時間を使ってティナに剣術を習い始め、その後二人はベッラと街へ行き店番に、ティナは地下で俺の酒造りを手伝い始めてくれた。


 こうして、過ごしていたら俺の家の方に、珍客が訪れたのであった。


 そのお客は、ここより北東にあるウラヌス山脈に根付き、様々な鉱物を採掘し、加工しては、その匠の技を磨き上げてきたドワーフである。

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