ふたりの時間

 その日は、シュウタといっしょにコンビニへ買い物に行った。

 シュウタは自転車を持っていなかった。平衡感覚が健全に育たなくて、乗れないんだそうだ。もともと二足歩行をするにも精いっぱいだった状況だと聞けば、それも納得する。

 歩くときにふらふらするのも納得だ。


 だから、ふたりで歩いていくことにした。自転車で五分の道のりだから、十五分も歩けば着く。


 ふらふら歩くシュウタの肩を掴んでたまに道の真ん中に戻してあげたり、靴紐がほどけそうだったら結んであげたり。

 ……ひさしぶりにいっしょに散歩をしているみたいだった。

 私はよくシュウタをお散歩につれていった。いまにして思えばとてもお金持ちだった私のかつての家の、広い庭で、季節の花々を見ながら四つん這いのシュウタの首輪をリードで曳いていっしょにお散歩していた――。


 五月になって、ずいぶん日が延びてきた。

 紅く染まる世界に、今日はひとりぼっちじゃない。

 あぜ道を歩いて、大きな国道沿いのコンビニへ。

 シュウタは、そっと――私の手を握った。

 私も、握り返した。


 コンビニで好きなものをありったけ買った。ありったけ。

 数種類のポテトチップスや、限定品のスイーツ。

 シュウタはスナック菓子が好きで、ポテトチップスばかり食べているらしい。そのわりに細いねと言ったら、怜さんもそれはおなじと返された。たしかに、私のかごには今日も甘いものばっかりだ。しょっぱいものは、いまだに味がよくわからないから。


 帰ってくるころには日もほとんど暮れて、世界は群青になっていた。

 コンビニで買ったものをローテーブルに並べて、食事の時間。

 シュウタはポテトチップスとコーラ、私はクリーム大福と限定品のチョコスナックに、いちごミルク。

 ポテトチップスの袋を開けるのにシュウタが苦労していたので、私が代わりに開けてあげた。手先の器用さもあまり発達しなかったせいで、袋を開けるといった日常的な動作も苦手なんだそうだ。リハビリのおかげでどうにかできるようにはなったけれど、時間がかかる。五分はかかってしまうらしい。


「……怜さん、あの」


 すこしだけ言いづらそうに、シュウタが言い出した。


「床で……食べてもいい? いつも、床に出して食べてるんだ」

「そっちのほうが、……落ち着く?」


 シュウタはこくりとうなずいた。

 私は開封したポテトチップスの袋を持って、立ち上がる。


 シュウタは座ったまま私を見上げている。

 私は、あえて立ったまま――ポテトチップスの袋を持っていない右手の手のひらを、シュウタの前に突き出した。


「シュウタ。……まて」


 彼は、なかば反射的に。

 おすわりの体勢のまま、居住まいを正して――首を持ち上げて、まっすぐな瞳で私を見た。

 ……何年経っても。

 覚えている、ものなんだなって。いちど仕込まれたしつけは――そう簡単には、消えないんだなって。身体の奥底に、深いところに、きっと刻み込まれている――。


 シュウタは、ちゃんといい子で待っている。

 私はしゃがみ込み、シュウタの前の床にポテトチップスをぱらぱら、置いた。

 ……床が汚れてしまうけれど、それはたとえばドッグフードとかでもおなじことだから。あまり、気にならない。


 シュウタはポテトチップスを見下ろしたあと、私をまたまっすぐに見上げる。

 私はそっと、微笑んだ。


「……いいよ」


 シュウタの、まて、を終わらせる言葉は、うちではこの言葉だった。

 彼は嬉しそうに、四つん這いになって床から直接ポテトチップスを食みはじめる。

 はぐはぐ。はぐはぐ。……はぐはぐと。


 私はポテトチップスを食べるシュウタの頭を、撫でた。


「よしよし……いいこだね……シュウタは、いいこだね……」


 よく、こうしていた。

 シュウタはいつも厳しいしつけをされていて、……かわいそうだったから。

 エサを食べるときくらい、安心してほしかったから。


 それにしても、床に直接というのは少しかわいそうな気もする。

 今度、可愛いエサ皿でも買ってあげようかな……なんて思っていたとき。


 ぽたり、と。

 うつむいたシュウタの顔から、小さなしずくが垂れた――ポテトチップスの欠片を口につけたままのシュウタが顔を上げると、彼は、泣いていたのだった。


 こういうことも、よくあった。

 当時は、本物の犬だとばかり思っていたから理由を聞くこともできなかった……ただ、悲しいのかなって思って。どうしたのかな、って思って。どうしたの、って実際に言って。でも、言葉での返事は、期待できなかったから。よしよし、よしよしってすることしか、できなかったけれど。


 私は彼の頭を撫でたまま、だから、訊いてみる。


「……どうしたの、シュウタ」

「わかんない、けど、すごく……」


 シュウタは食べるのをやめて、私の胸にすがりついてくる。

 必死に、私を、……見てくる。


「怜さんにこうしてもらうと、すごく、しあわせ……」


 胸が、締めつけられるようだった。

 もしかしたら。ずっと、彼は。

 むかしから、仔犬だったあのころから――そんなふうに思って、涙を流してくれていたのだろうか。


 私はポテトチップスの残りを袋から取り出し、シュウタの口の前に持っていった。

 さく、さくり、と。

 当たり前のように、シュウタは私の差し出したポテトチップスを食んでくれる。

 それが、なんだか、嬉しくて。……嬉しくて。


「私も、しあわせだよ」


 私は、いつぶりだろうか、心の底から微笑んで――あんまりの愛おしさに、シュウタを身体ごとぎゅっと、……ぎゅうっと、抱きしめた。

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