第3話

「ねぇ、コウちゃんてさ」

「……なに?」

 ぱっちりと目を開いて公太の動作を追っていたヒナが口を開いた。公太は、怒られたのはお前のせいでもあるじゃないか、という理不尽さを感じながら返事をした。

「コウちゃんて、もしかしてすっごい鈍感?」

「は?」

 ついに変な事を言いだしたぞコイツ、と公太は思った。この期に及んで何が言いたいというのか。もう帰ってくれよ、と公太は思い始めていた。

「ココまでヒント出してるのに、気付かないなんてさ」

「ヒントってなんのことだよ?」

「あたしが何者なのか」

「いやだって、知り合いでもなんでもないんだろ?」

 自然と大きくなった声に、向かいの側のカーテンから咳払いが聞こえてきて、公太は声を潜めた。

「……そんなもん、わかるわけないでしょうが」

「んー、あんまりあたしから言いたくないんだけどなぁ」

 もったいぶるように、言い淀むヒナ。くるくると髪の先を指で回しながら、考え込むような仕草を見せている。

「……で、なんなの?」

 公太はヒナの沈黙に耐え切れず、先を促した。苛立ちのせいか少々乱暴な口調になってしまったと思ったが、気にしないことにした。自分だけが怒られた理不尽と比べれば、まだお釣りが来るくらいだろう。

 ヒナは公太のことを一瞬だけ横目で見たが、すぐに視線を戻し、床を見つめた。そして、髪をいじる指を止めて口を開いた。

「あたしさ、もう死んでるんだよね」

「……」

 まるで自分の嫌いな食べ物でも告げるかのようなそっけない口調で言ったヒナに、公太は絶句した。この子はいきなり何を言い出すのか、と思った。

 呆気にとられたまま数秒固まっていた公太だったが、開きっぱなしになっていた口を閉じてまばたきを数回してから、小さく首を左右に振って気を取り直した。

「いやいや、何言ってんの?」

「だから、あたしは、その……生きてる人間じゃないから」

「いやいや」

「いやいや、じゃなくてさ」

「い、いやぁ……」

 呆れたような顔をするヒナに見つめられながら、公太は自分の思考力が鈍っているのを自覚した。何度もまばたきをしながら、ヒナの姿を見る。透き通るような白い肌は病的とも言えたが、実際に透けているわけではなかったし、生きているとしか思えない。脚だって生えている。

「あたしのことはさ、コウちゃんにしか見えてないんだよ」

 黙り込んで自分の考えに耽る公太に向かって、ヒナは言った。

「だから、コウちゃんのお母さんの顔をあたしは見たけど、お母さんはあたしを知らない。事故を通報したのも、あたしじゃなくて通りがかった別のおじさん。あたしの声はコウちゃん以外の人には聞こえてないから、コウちゃんは今、とっても独り言がうるさい大学生と思われてる」

「ちょっ、まっ」

 喋り続けるヒナを、公太は思わず遮った。だが、もしヒナの言うことが本当なら周囲からはまた独り言と捉えられてしまうと思い、口をつぐんだ。少し考えてから、ボリュームを抑えた声で喋り出す。

「なんで俺には見えるのさ?」

「さぁ……死にかけたからじゃない?」

「死に、えっ、俺死にかけてたの?」

「三日も意識失ってたんだからそうでしょ。あたしお医者さんじゃないから、知らないけど」

「テキトーだな……」

 公太はそう呟きながら、昨日から今までのことを思い返していた。ヒナの服装は昨日も今日も同じようだったが、病院の関係者には見えない。そして、公太の記憶にもヒナのような人物はいないし、美雪も知らないと言っていた。だが、ヒナは公太のことを知っていて、母親から「コウちゃん」と呼ばれていることも知っている。何よりも、先ほど公太のことを注意した骨折男性の反応だ。言われてみれば確かに、公太の目の前にいるはずのヒナのことが、見えていなかったように思える。

 だが、やはりすぐには信じられなかった。目の前にいるヒナからは、生きている人間の息遣い、気配が感じられるのだ。

 思わず公太はヒナに向かってゆっくりと右手を伸ばした。もし本当にそこにいないのなら、この手はヒナの身体をすり抜けるはずだ。

「あたしには触らないほうが良いよ」

「えっ」

 公太の手がヒナの肩に触れる前に、ヒナの声で公太は動きを止めた。

「……なんで?」

 右手を宙に浮かせたまま、公太が訊ねた。

「コウちゃんは、あたしが目の前にいると思ってるでしょ?」

「まぁ、うん」

「でも実際には、いないんだよ。触ろうとしても、触れないと思う」

「だから、それを確かめようと……」

「やめといたほうがいいよ。認識と感覚のズレ、って言うのかな。とにかく、やめといたほうがいい」

 気が付けば、ヒナの顔からはいつの間にか微笑みが消えている。感情がないかのような冷たい表情に、公太は息を飲んだ。

 目の前にあると思っているものが実際に触れられないと、混乱するからだろうか。それとも、触れること自体に何か悪い作用でもあるのだろうか。

「……なーんてね! あたしのこと見える人なんてコウちゃんが初めてだから、よくわかんないけどさ!」

 急に声のトーンを上げたヒナだったが、公太は余計に不安になるだけだった。だが少なくとも、ヒナに触ろうとするのは控えておこうと思った。

「コウちゃん? 大丈夫?」

「あ? あ、あぁ」

 声を掛けられて、公太は我に返った。前かがみの格好になって公太の顔を見上げるヒナと視線が合い、思わず視線を逸らす。が、目を逸らしたせいで今度は、大きく隙間が開いたヒナの胸元に目が行ってしまい、どきりとした。無意識に顔の向きごと大きく視線を逸らそうとした公太は、首に痛みを感じて顔をしかめた。

 とても幽霊とは思えない存在感だったが、とにかく公太はヒナが幽霊である、と認識をあらためた。そのうえで、新たに浮かんだ疑問を口にした。

「ところで、なんでヒナはここにいるんだ?」

「えっと、それはどういう意味でかな?」

「なんていえばいいんだろう……幽霊がよく出る場所って、例えばお寺とか、廃墟とかさ」

「病院に幽霊がいるのは不自然?」

「うーん……いや、そうでもないか……?」

 なんとなくイメージと違う、というだけで言ってみたことだったが、たしかに病院ではよく人が亡くなるだろうし、さほど不自然でもないような気がしてきた。病院を舞台にした怪談というのもよくありそうだ。もっとも、深夜の真っ暗な病院での話がほとんどだろうから、もうすぐ昼時になろうという今の病院では、怪談など想像もつかない。

「ってことは、ヒナはこの病院で死んだ?」

「……違うよ。あとその言い方なんかイヤ」

「あっ、ごめん」

 眉根を寄せながら答えたヒナに、公太は素直に謝罪した。

「さっきも言ったけど、あたしはコウちゃんについてきたんだよ」

「ついてきた、って……どういうこと?」

 そういえば、ヒナは事故の現場にいたようなことを言っていたな、と公太は思い出した。

「コウちゃんが落ちた場所がちょうど見えるところに、あたしはずっといたの」

「えっと……地縛霊、とかいうやつ?」

「そうそう、ジバクレイね」

 公太はオカルトに詳しいわけではなかったが、それくらいは聞いたことがあった。だが、地縛霊なら一箇所に留まって動けないはずではないか、と疑問に思った。ヒナは、公太についてきた、と言った。ということは、つまり……

「地縛霊だと、土地に縛られた霊、って感じでしょ? なんかね、いまはコウちゃんに縛られちゃってるみたい」

「……えっ、いや、なんで?」

「なんでだろう? 派手に吹き飛んでたのが、面白かったからかな?」

「いやいやいやいや」

 満面の笑顔で答えたヒナに、公太は手を左右に振った。

「えっ、いや、それは困るでしょ? ずっと俺のそばにいるってこと?」

「そうなるかな。ジバクレイならぬ、ジンバクレイ、なんてね」

「えぇ……」

 漢字にするなら人縛霊、とでも言いたいのだろう。人差し指を立てながら自慢げに言うヒナに、公太は嘆息した。

 常に自分のそばに幽霊がいる、というのはいろいろと落ち着かないだろう。日常生活が全て見られてしまうということだろうか? トイレは? オナニーは? いや、よしんば全て見られているにしても、自分がそれに気付いていなければ問題はない。公太にとっての問題は、その幽霊と会話ができて、存在を認識してしまっているということだ。

 公太は、常にそばにいる幽霊という概念に、別の単語を思いついた。

「ああそうか、もしかして、いわゆる守護霊ってやつになったんじゃないのか?」

「守護霊?」

「そうそう。よくあるじゃん、ご先祖様の幽霊が守ってくれる、とか」

「守る? あたしが? コウちゃんを?」

「うん……まぁ、その反応は、違うんだな」

 手応えのなさを感じ、公太は目を伏せた。

「あはは、何もできないのに何から守るってのさ」

「あぁ……」

 公太は顔を上げながら、そういえばナースコールも押してくれなかったもんな、と思った。

「でも例えば、悪霊が出たら追い払ってくれるとか、ないの?」

「うーん、もしあたし以外の幽霊と会ったとしても、お互いに体が透け合うんじゃないかな?」

「あぁー、なーるほどね……」

 いよいよもって何の役にも立たなそうだな、と感じる。むしろプライバシーを侵害される分、邪魔なだけなのではなかろうか。

「まぁまぁ~、悪いようにはしませんって」

「誰の真似だよそれは」

「越後屋かな」

「はぁ?」

 公太にはヒナの言っている意味が理解できなかった。何かの暗喩だろうか。冗談が通じなかった公太の様子を見たヒナは、居心地悪そうに咳払いをひとつすると、座り直して公太に向き直った。

「それじゃ、あたしは一旦いなくなるからね」

「え?」

「大丈夫、見えなくなるだけで近くにはいるから」

「いや、それもどうかと思うんだけど」

 昨日、ヒナがいなくなった後のことを思い出す。母と話をしたり、医師の診察を受けたりしていた時から眠りにつくまで。そして、今朝目が覚めてから先ほどヒナが再び現れるまで、ヒナの気配は一度も感じなかった気がする。

「もしかして、幽霊も疲れたりするの?」

「さぁ、それはよくわかんないけど」

 姿を見せられる時間に限界でもあるのかと思って質問した公太だったが、的外れだったようだ。

「ほら、あんまりずっと一緒にいると、コウちゃんがあたしのこと好きになっちゃうでしょ?」

「えぇ……」

「ふふっ、半分冗談。それじゃ、またね。気が向いたらまた話に来るから」

「あ、うん。また。えっ?」

 ヒナの言葉に釣られて言葉を返した公太だったが、気が向いたらまた、という言葉の意味が全くわからないことに気付いて疑問符を口にしていた。だが、まばたきをした次の瞬間には、ヒナの姿は消えていた。思わず声を出しそうになった公太だったが、独り言も含めて全てヒナに聞かれているかもしれない、と思い口を抑えた。それに、半分冗談、という妙な含みを持たせた言い方も気になる。半分は本気で言ったのだろうか。

 公太はそのまましばらく、ベッドの上のヒナが座っていたあたりを眺めていた。ベッドの上は誰かが座っていたような様子はひとつも感じられず、公太がベッドから抜け出した時のままの乱れ具合だった。

 現れた時と同様、唐突にヒナは消えてしまったが、疑問はいろいろと残っている。どう扱えばいいのかわからないし、どういう態度をとれば良いのかもわからない。少なくとも危害を加えられる類のものではなさそうだと思ったが、このまま放っておいて一生付きまとわれる、という展開も御免だ。ヒナとはまた話し合う必要があるな、と公太は思った。

「お前を消す方法」

 公太は、ふと思い浮かんだ言葉を呟いた。どっと疲れが湧いたような気がして、公太は大きくため息をついた。

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