夏の亡霊は美少女だった

tabe

第1話

  ***


 左手でレバーを握り、クラッチを切る。左足を踏み込み、ギアを一段上げる。右手で握ったアクセルを調節しながら左手を開いていき、再びクラッチを繋ぐ。スムーズに繋がって、エンジンの回転がタイヤへ伝わり始めるのを感じると、ささやかな喜びが湧いてくる。

 大学二年生の萩原はぎわら公太こうたにとって、バイクを運転することは小さな達成感を日常的に感じられる、貴重な趣味だった。

 この日、公太はあてもなく愛車を走らせていた。特に目的地を設定するわけでもなく、ただ時間とガソリンを消費するだけのツーリング。客観的に見れば無駄以外の何物でもなかったが、全身を通して感じる風だとか、振動だとか、とにかく公太にとってはバイクに乗ってただ走ることが楽しかった。

 幸い、大学は夏休みに入ったばかりだ。特に予定もない日には、あてもなくバイクを走らせるのが常だった。

 公太が乗っているのは、スズキのガンマというバイクだ。一年生の夏休みの間に中型免許を取り、それから半年、バイトで溜めたお金でようやく買えた自分のバイクだ。大学の近所のバイク屋に置いてあった中古車で、ずっと売れなかったせいで値下げされ続けたらしく、諸々の手数料込みで15万円で購入したものだ。

 店に何度も通ったおかげで顔見知りになった店主から、引き取り際に「大事に乗ってくれよな」と言われたバイク。かなり古い型だったがよく整備されており、元気に走ってくれている。

 古いうえに長いこと売れなかったというのは、裏を返せば同じバイクに乗っている人間が少ないということでもある。公太自身も、自分以外にガンマに乗っている人を見かけたことなどなかったから、自分だけが乗っているというバイクという愛着も湧いていた。

 もっとも、公太の住んでいる地域ではバイクに乗っている人口自体が少ないこともあったし、バイクに乗らない人間からすれば、バイクの車種の違いなど右利き用と左利き用のハサミくらいの差しか感じないのかもしれないが。

「あぁ、良い天気だ」

 走っていても少し汗ばんでくるくらいの日差しに、公太は呟いた。バイクを運転している間は、何を喋っても誰にも聞かれないため、いつの間にか独り言を呟くことが多くなっていた。たまに歌を歌ったりもするくらいだ。

「どこまで行くか」

 特に目的地もないため、意味のない自問ではあるのだが、たびたび口にする言葉。運転中のお決まりのようなものだった。

 公太がバイクを走らせていたのは、大学やその周辺の地域から少し山奥へ入った渓谷の道だ。それほど厳しい傾斜やカーブがなく、かといって直線が多いわけでもないため、運転していて飽きが来ない。たびたびトンネルを通ることも公太の好みだった。周囲の木々から、なんとなく自然を感じられるのも好きだった。

「道の駅でも寄って帰るか」

 公太はそう呟くと、ハンドルにかけた右手を握り直した。

 その直後に、公太は違和感を感じた。なんとなく視界がブレたような感覚。今日は特に体調が悪いという感じはなかったが、目まいでも起こしたのか。

 通り慣れた道で身体が感覚を覚えているとはいえ、目まいを起こしながら運転を続けるのは当然ながら危険だ。片側一車線の狭い道ではあるが、とりあえずその辺に停めて休憩しようと、公太は思った。

 だが、意に反して身体は言うことを聞かなかった。ブレーキをかけようとした右手はおろか、全身が言うことを一切きかない。

 右手を少し捻れば、エンジンは回転を緩めるはずなのに、右手が動かない。

 左手でクラッチを切れば、動力は伝わらないはずなのに、左手が動かない。

 右足を踏み込めばリアブレーキがかかるはずなのに、右足が動かない。

 いっそ無理矢理ギアを変えようとすればエンストするはずなのに、左足が動かない。

 必死に身体を動かそうとする公太だったが、まるで金縛りにあったかのように硬直したまま動かない。たまたま直線の道路を走っていたから良かったものの、もうすぐカーブに差し掛かる。そのカーブと繋がるように小さな橋がかかっており、もし突っ込んでしまえば橋の下に転落してしまうだろう。

 記憶ではたしか小さい川だし、それほど高い橋じゃないから落ちても死なないかな、でも山奥だから石が大きくて落ちたら痛そうだな……そんなことを考えているうちに、公太のバイクはもうカーブの直前まで近付いていた。

(なんで動かねえんだよコレ、なんなんだよ)

 口にしたはずの言葉も、頭の中を空回りするだけ。出そうとした声も出てこない。もはや息ができているのかすらも自分ではわからなかった。

(なんで、なんでなんでなんで)

 ガードレールがどんどん近付いてくる。

 気のせいか、世界がスローモーションで動いているように感じる。

(あぁ、これが走馬灯ってやつだっけ)

 バイクの前輪がガードレールに触れた直後、襲ってきた衝撃に公太の身体は動きを取り戻した。正確には、バイクから投げ出され、乗ったままの姿勢を保っていられなかった。

 急に早回しになったような視界で、ぐるぐると回る景色に翻弄されながら、公太の身体は橋の下へ落ちていった。手足をばたつかせる時間すらない一瞬の後で、公太は自分の身体が地面にぶつかるのを感じた。

 痛みを感じる前に意識が途切れたのは、公太にとって幸せなことだったのかもしれない。


  ***


 目が覚めて最初に視界に入ってきたのは、薄暗い中にぼんやりと映る白い天井だった。腫れぼったく感じるまぶたに邪魔されていささか見えづらかったが、少なくとも自分の知っている天井ではないと思いながら、公太はそのまま天井を見つめ続けた。

 たっぷりと時間をかけて、どうやら自分が仰向けに寝ているようだと認識すると、公太は周囲を見回そうとした。だが、首を動かそうとした瞬間に寝違えたような痛みを感じ、公太は顔をしかめた。

「あ、起きた?」

 足元のほうから聞こえてきた声に、公太は片目だけを開けて視線を向けた。誰かいるようだが、ぼんやりとしていてよくわからない。声からすると女性のような雰囲気を感じたが、声が高い男性のような気もする。天井の近さや、声が聞こえてきた位置からして、少なくとも自分がベッドの上で寝ている状態なのだということだけを認識しながら、公太は質問した。

「誰……ですか?」

「わぁ、ひどい声」

 自分の口から出てきた声があまりにもかすれていて小さな声だったため、公太は自分自身でも面食らった。確かにひどい声だ、と公太は思った。謎の人物の反応にも頷ける。そういえば、喉がカラカラだ。半日以上も惰眠を貪った日なんかに、こうなったことがある気がする。

「あたしは、えっと……ヒナ! そう、ヒナって呼んでくれていいよ、コウちゃん」

「ヒナ……?」

 謎の人物が名乗った名前を聞いて、公太は自分の記憶を探った。名前や喋り方から女性だとは思ったが、大学、高校、中学……ざっと思いつく範囲で知り合いの顔を思い浮かべたが、ヒナという名前に該当する人物はいなかった。

 だが、ヒナと名乗った人影は、公太のことをコウちゃんと呼んだ。少なくとも、公太のことを知っている、ということだ。

「同級生?」

「同級生?」

 声を出すのが億劫で単語だけ出した公太の言葉に、ヒナ(自称)はオウム返しをした。

「……大学とか?」

「大学? そんな風に見えるんだ?」

 少し嬉しそうに声を弾ませるヒナ。公太はあらためて何度かまばたきをしながら、ヒナのほうを見た。ようやく目が覚めてきたのか、先ほどよりもハッキリとその姿が見える。

 髪は黒くて細く、あごの下くらいの高さまでほぼまっすぐに降りている。肌は病的なほど白く、顔は自分と同い年か、少し年下くらいの少女に見える。今は夕方くらいだろうか、夕焼けと思しき光を背中から浴びている。細い髪の毛が光を通して、まるで朱色の光に包まれているように見えた。

 どうやらヒナは、ベッドの脇の椅子にでも座っているのだろう。ベッドに両肘をついて、体重を乗せているような姿勢になっている。いかったような形になっている肩は線が細かった。

 ついでに言えば、胸も薄いようだった。襟元が開いた水色っぽい無地のシャツと、首元の肌との間にずいぶんと隙間ができている。おそらく上から覗き込めば下着が見えてしまっていることだろう。

「ねぇねぇ、コウちゃんから見てあたしって、どう見えるの?」

「……美少女?」

 訊かれてつぶやいた公太の言葉に、ヒナは顔に微笑を浮かべたまま硬まった。そして、しばらく経ったあとで両手で口を抑え、吹き出した。

「びっ、美少女!」

 公太の答えが笑いのツボにでもハマったのか、両手で口を隠してはいたものの、明らかに堪えきれない様子でヒナが笑う。公太としては長い文章を喋るのが億劫で、つい思い浮かんだ単語を口にしただけのつもりだったが、面と向かって「美少女」などと言ってしまったことに今更恥ずかしさを覚え、顔が熱くなるのを感じた。

 笑い続けるヒナを尻目に、公太は周囲を見回した。あらためて眺めてみれば、どうやらここは病室のようだった。公太が寝ているベッドを中心に、あまり広くない空間をベージュ色のカーテンが三方から囲んでいる。

 公太は過去に入院したことなどなかったし、入院している誰かの見舞いをしたこともなかったが、テレビかなにかで見たような気がする景色だった。どうやら個室ではなく、複数のベッドをカーテンで仕切っている共同の病室のようだ。ドラマなんかに出てくる病室は窓際のベッドが定番だと思ったが、公太が寝ているのは窓際ではなく、病室の入口側のようだった。外の景色が見えないことを公太は少し残念に思った。

 落ち着いて耳をすませば、新聞をめくるような音が聞こえる気がする。同じ部屋に別の人もいるらしい。いまだに笑い続けているヒナに、公太は眉をひそめた。

「お静かに」

「えー?」

 公太の言葉がよく聞こえなかったのか、それとも聞くつもりがないのかはわからなかったが、ヒナはとぼけるような声を出した。

 公太は先程よりも喉の調子がよくなってきていることを感じると、何度か咳払いをしたあとで声を潜めながら喋り出した。

「ここ、病院でしょう? ちょっと静かにしてくださいよ。その……ヒナ、さん?」

「あたしのことは、ヒナでいいよ。さん付けは無し。丁寧語もいらないよ」

 片目を閉じ、人差し指を立てながら答えたヒナと目が合い、公太は思わずツバを飲み込んだ。見た目からは清楚な印象を受けたが、言動からは茶目っ気があるように感じられる。そのギャップに当てられたのかもしれない。

「いや、その……じゃあ、ヒナ。他の人に迷惑でしょう」

「あっはは、なに、コウちゃんて真面目クンなの? 大丈夫だよ、どうせ聞こえないから」

(いや、そんなに大口開けて笑ってたらさすがに聞こえるだろう……)

 公太はそう思ったが、これ以上諭すのも面倒になり口をつぐんだ。

「それよりさ、コウちゃん」

「……なに?」

 丁寧語は不要だ、と言われたことを思い出しながら、公太はヒナの声に答えた。ヒナはいくらか申し訳無さそうな、微妙な表情で続けた。

「その……まずは、看護婦さんでも呼んだほうが良いんじゃない? 目が覚めたことだし」

「……?」

 公太はヒナの言っていることがよく理解できず、混乱した。

 目が覚めただけで看護士を呼んだほうが良い? なぜ? そういえば、そもそも自分はなぜ病院で寝ていたのだろうか?

 ここに来てようやく、公太は自分がバイクで事故を起こしたことを思い出した。そういえば、ガードレールに突っ込んで転落したところから記憶がない。

「もしかして俺、重傷なのか?」

「あはは、思い出した? コウちゃんがこの病院に運ばれてから、今日はなんと3日目です」

「……え?」

 公太は耳を疑った。たしかに、長時間眠っていたあとの寝起きのような感覚はあったが、3日も眠っていたなどと言われても、にわかには信じられない。口を開けたまま呆然とする公太に、ヒナが言葉を続ける。

「ちなみに、何か違和感とかない? 左腕に点滴の針が刺さってるけど、他にも、その……股のあたり、とか」

 そう言われて公太が自分の股間のあたりへ右手を動かすと、ガサガサと紙を擦るような感触があった。

「はい、オムツです♪」

「……」

 楽しそうに言ったヒナとは対照的に、公太は表情を失った。赤ん坊や老人ならともかく、この若さでオムツのお世話になるとは思わなかった。なるほど、何日も意識不明だとこうなるのだな、と思いながら、感情を押し殺す以外に公太は自分を保つ手段がなかった。

「ちなみに、コウちゃんが寝ている間にオムツは看護婦さんが2回……」

「やめてやめて言わなくていいから」

 公太はヒナの言葉をさえぎりながら、今履いているオムツが綺麗なままであることに感謝した。

「それと、尿を取る管もささってるから、気をつけてね」

「あっ、はい……」

 それはオムツを履かされていることに気付いた時から感じていたことだ。自分の秘部に管が刺さっている。あまり考えたくなかったことだが、言われてしまうと意識せざるを得ない。何に気をつければ良いのかはわからなかったが、少なくともこのまま運動はできなそうだと感じた。

「ほら、そこの棚の上にボタンあるから、看護婦さん呼んだらいいよ」

 そう言いながらヒナは公太の頭の後ろを指差していたが、首を動かせば痛みが出ることがわかっていた公太は寝たままの姿勢で答えた。

「押してくれよ」

「ダメ。っていうか、ムーリ。あたしコウちゃんの親族じゃないし」

「……え?」

 ヒナの言ったことの意味を少し考えた公太だったが、結局理解できなかった。

「それにほら、せっかく目が覚めたんだからちょっとは体を動かさないと。錆びついてるんじゃない?」

「怪我人に無茶言うなよ……」

 呻きながら、公太は身体の左側を下にしてゆっくりと向きを変え、ベッド脇の棚へ手を伸ばそうとした。身体の節々に痛みは走ったが、今のところは、首に感じる痛みが一番大きい。ギブスを嵌められていたりするわけでもなく、どこかが麻痺したりしている感じもしない。深刻な怪我はしていないようであることに安堵しながら、公太は時間をかけて右腕を伸ばすと、棚の上に置かれていたオレンジ色のボタンを押した。コンビニの入店音に似たような音が響き、しっかりとボタンを押せたことを確認すると、公太は指を離した。

 伸ばした腕を引き戻し、そういえばヒナが静かになっているな、と思いながら公太は再び身体の向きを変え、仰向けの体勢に戻った。

 だが、先ほどまでヒナがいた場所にはもう誰の人影もない。忽然と消えていた。公太の瞳には、微動だにしないカーテンだけが映っていた。

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