第20話 転調
「今日もよく頑張りました。課題、しっかりやるようにね」
「分かってますよ」
「それじゃあね」
「はい。また」
夜空にただ一つ輝く満月のように優しい笑顔に見送られて、僕は明里さんの家を後にした。
帰り道。なんとなく、部屋に帰る気になれなくて、僕はマンションの目の前にある小さな公園のベンチに腰かけて、夜空を見上げた。
「デネブ、ベガ、アルタイル……」
ぼんやりと星を眺めて、一番の輝きを放つ一等星を指で追って、夏の大三角を描く。
「はぁ……」
やっぱり帰る気は起きない。
帰ったとしても、待っているのはただダラダラと読書をしている飛鳥だけ。癒しがあるだけでもない。そう考えると、心は醜い闇に侵食されていく。
「……帰るか」
ベンチから重たい腰を持ち上げて、ゆっくりとマンションに入った。
「ただいま」
「おかえり」
返ってくる飛鳥の怠けたような声に、いつもより多く怒りを感じてしまう。
「晩御飯は?」
「今から作るね」
なるべく自然に、怒りの感情に気づかれないように、僕はやさしくそう返した。
僕たちの間には、いつものように沈黙が流れる。耳に入ってくる、包丁がまな板を叩く一定のリズムが、前までは陽気な音楽のように聞こえてきていたのに、今では僕を呪おうとするある種の呪文のように聞こえてくる。
「できた」
一通り完成した料理を、テーブルの上に並べて飛鳥を呼ぶ。
「わかった……」
返事から少し遅れて、飛鳥はダラダラとソファーから起き上がり、僕の対面の座席に腰を下ろした。
「いただきます」
「いただきます」
二人で手を合わせて夕飯を食べ始める。目の前で、飛鳥の口角がクイと上がる。今はその表情にも魅力を感じなくて、特に価値を見出すことが出来なかった。
十数分の間、沈黙が流れる。箸が食器に触れる音。僕が作った料理が口の中で咀嚼されていく音。そして、ぐちゃぐちゃになったそれを飲み込む音までもが、すごく鮮明に聞こえてくる。以前はここで、飛鳥に話しかけていたんだろうが、今の僕にはそんな小さなことも面倒くさく感じてしまった。でも、さすがにここまでの静寂は気味が悪いので、僕は小さく口を開いた。
「いま読んでる本、おもしろい?」
あんまり興味はないけど、話題がないのでそんな質問をする。
「おもしろいよ」
口の中を見せないように、箸を持った手で口を抑えて飛鳥はそう言う。
「今度見せてよ」
「え~。やだよ」
分かっていた当然の返しだが、もしかしたらなんていう小さな期待に懸けた自分が馬鹿だった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
定型文のような挨拶を終えると、飛鳥はすぐに定位置に戻って読書を再開した。飛鳥が読書をしている間に、僕は風呂を沸かして、食器を洗って、と一通りの家事をこなす。
『お風呂が沸きました』
今の空気にはそぐわない軽快な音楽の後に、機械的な女性の声が響く。
「飛鳥。先に行ってきな」
「うん」
飛鳥は本にしおりを挟み、ソファーの上にちょこんと乗せて部屋を出て行った。
ガチャという扉を閉める音が、僕だけしかいないリビングに響いた。ようやくやって来た一人の時間。家事がはかどる。
「よし、オッケー」
洗濯物を畳んでタンスにしまった僕は、ダイニングチェアに腰を下ろしてテレビを点けた。テレビには、最近結婚した大人気女優のアツアツな新婚生活が映し出されていた。
『はい、あ~ん』
『うん、美味しい』
甘ったるい声を発する二人。そんな二人が、やけに羨ましく思えてしまう。
『ねぇ、雄君。私のこと好き?』
『もちろん大好き。奈々は?』
『私も大好き』
ただのバカップルな二人。以前までは吐き気を催すほどの苛立ちを感じていたのに、今は甘える人気女優も、その旦那も、とても愛おしく思えてしまった。
「ふぅ、気持ちよかったぁ。お風呂、空いたよ」
リビングに飛鳥の声が響いた。
「うん」
僕は短く返事をして、テレビの電源を落とした。
「なに見てたの?」
普段、自分から質問をしてくることなんかない飛鳥が、珍しくそんなことを聞いてくる。
「別に。無音だと淋しいからBGMみたいに流してただけだよ」
パッと思いついた嘘を吐いて、僕はリビングを出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます