第7話 青春
いま現在、何が起きているんだか。どうして水無瀬さんは他人の家まで来て、読書をしているのか。全くと言っていいほど、状況がつかめない。僕たちの間には、当たり前のことながら、沈黙が流れている。彼女は自分の時間を、僕は頭が動かなくてボーっと、水無瀬さんの顔を見つめていた。
そんな、微妙な空気を断ち切るように勢いよく開かれた扉から、今の空気に似つかわしくないハイテンションの母が登場した。
「お茶、淹れてきたから。あとこれ、お菓子ね。よかったら食べて?」
ふだんは絶対に見せることのない、太陽のような笑顔を振り撒いてから、母は部屋から出て行った。母が出て行ったあとも、変わらず続く沈黙の時間。さすがに手持無沙汰になった僕は、目の前に置かれたお茶に手を伸ばし、ゆっくりと湯飲みに口を付けた。
「熱っ!」
部屋に素っ頓狂な声が響く。その声を聴いて、水無瀬さんはビクッと体を震わせて本から顔を上げた。
「あ、ごめん……。あの、水無瀬さんも気をつけて。相当、熱いから」
火傷した舌を出しながらそう言うと、水無瀬さんはいきなり持っていた本をパタンと閉じた。
「ど、どうしたの?」
本から上げられた視線は、まっすぐ僕の瞳に向けられた。水無瀬さんのつぶらな瞳に見つめられたら、視線を逸らすことすらも叶わず、そう聞いた。すると、
「あのさ。私と付き合いませんか?」
水無瀬さんの小さな口が開かれた、かと思えば、いきなり驚きの一言を僕に言い放った。
「あの、えっと。僕の、聞き間違いかな……? 今、なんて?」
僕の妄想の世界での出来事かと思ってしまい聞き返した。
「だから。私と付き合いませんかって言ったの」
向けられている水無瀬さんの視線も、声もすごく真剣で、冗談にもドッキリにも思えない。それに、二度も言われると妄想の世界でのこととも思えない。
――だとしたら、どうして僕……?
「あ、あのものすごく嬉しいんです。けど、どうしてこんな僕なんですか? こんな平々凡々。いや、それ以下の僕なんかよりもかっこいい人も、おもしろい人も、頭のいい人も、優しい人も――。挙げようと思えばたくさんいると思うんですけど……」
言葉にすると、自分があまりにも情けなくて手元に視線を落とす。
「確かに、君はイケメンでもなければ、頭がすごくいいわけでもない。それに、芸人さんみたくおもしろいわけでもない」
自虐は自虐だからいい。まっすぐ言い返されると傷つくことは少し前に学んだはずなのに。前よりもこころにグサッと深い傷を作った。二次応答とはいったい何なんだと、生物で習ったことを疑った。
「じゃあ、どうして……?」
涙で震えそうで、今にも消え入りそうな声で訊く。
「それでも私は、君と一緒にいるときが一番落ち着く」
水無瀬さんは、はっきりとした声でそう言った。
「え?」
視線を上げて、水無瀬さんの顔を見る。
「冬休み。お家に一人でいて、いつも通り本を読んでたんだけどね。どういうわけかぜんぜん落ち着かないの。なんかこう、ここがモヤモヤして。心に穴が空いたみたいな感じ。何かが足りない気がして。だからこうやって君のお家に来て本を読んでみたの。そしたらさっきまでのモヤモヤが嘘みたいに落ち着いて、言葉がおもしろいように心にスッと入ってくるの」
「……その、それはつまり」
珍しく饒舌な水無瀬さん。話の要点を聴くために訊いてみる。すると、水無瀬さんは少し躊躇した後、なにか決心して
「私は君のことが“好き”なんだと思います」
確かにそう言った。水無瀬さんの口から放たれた、そのたった二文字。それが、今まで聞いた言葉の中で、一番うれしくて、胸がはちきれんばかりに大きく弾んでいた。
「本田日向君。私の、彼氏になってくれますか?」
初めて呼ばれた僕の名前。それも嬉しいけど、その後ろの言葉で更に胸が締め付けられる。
真っすぐ向けられる水無瀬さんの視線。僕は、初めて自分から視線を合わせて、水無瀬さんの瞳を見つめた。そして、小さく微笑んで
「僕でよければ、喜んで」
震える声で、そう返事をした。
「そっか。ありがと……」
僕としてはこんなにも大きな出来事なのに、彼女は何の気にも留めていない様子で淡々とそう言って、目の前に置かれた湯飲みに手を伸ばして、すぐ口に運んだ。
「熱っ!」
デジャブのような光景に、僕はフッと噴き出してしまった。
「笑ってないで心配しなさいよ。彼女が熱がってるんだから」
可愛らしく舌を冷やすように口元をパタパタと仰ぎながら、それに見合わない強い視線を僕に向けてそう言ってきた。
「ごめん。今、こおり持ってくるね?」
確かに聞こえた“彼女”と言う言葉に、えもいわれぬ歓びを感じながら、僕は部屋を出た。
その後、二人とも無事に受験にも成功し、今は大学に通うために上京し二人で同棲生活をしている。
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