ヘプタワイズ

T・ブルー

身勝手な願い

プロローグ

「大丈夫、私ならきっとできる」

 仄暗い通路で先に見える光を目にしてそうつぶやいた。先に控えるアリーナへと続く入り口からは大地を揺らさんばかりの歓声が響き渡る。緊張からか思わず握ったこぶしには力がこもっていた。そんな中で誰に向けることもなく独り言をこぼしたのは自分への鼓舞に他ならない。この七年間の努力を遺憾なく発揮する集大成の場、かつ自分の卒業がかかった大一番で失敗は許されない。


 十六年生きてきて初めて感じるほどの緊張が否応なしに手足を震えさせる。これが武者震いというものなのかと思うと何か不思議な感覚だった。さっき口をついて出てきた言葉もこの緊張を和らげるために無意識のうちに出たものなのだろうか。それにしては何かしらの物語にでも出てきそうなひどくありがちなものだった。こんな場面であのような言葉しか出てこないのは、やはりというか今まで自分が読んできた本の趣向が色濃く反映されているのだろう。刷り込まれた週間というものは何とも恐ろしいものだ。ありがちなものしか思い浮かばない自分の程度が知れる。


「棄権も逃げもせずによくまあここに来られたわね。とはいってもわざわざ無駄に負けに来るなんて馬鹿みたいだけど」


 隣に立つ対戦者がそう言い放った。左を向いてその表情を伺おうとしたが、この場所の薄暗さではよく表情が読み取れない。けれど、やけに棘のある皮肉めいた言い方にももう慣れた。少し前までならいちいち気にしていたかもしれない言葉も今となっては適度に受け流してあしらうことも造作もない。というよりそのようなことを気にしているような弱々しいメンタルではそもそもこの場に立ってはいないだろう。その点以前と比べて随分と肝が据わったのだと我ながら感心した。


「そんなことないよ。それにもう、些細なことで諦めないって決めたから。私自身のことも、それにもちろんリィちゃんのことも」

「なにが〝諦めない〟よ。今までまともに魔法なんか使えたことないくせに」


〝リィちゃん〟とそう呼ばれたことを不快に感じたのか先ほどの余裕を感じさせる雰囲気から一転、声に余裕がなくなったように聞こえる。しかし、緊張を紛らわせるための挑発の類などではなく、ただ思ったことを口にしたまでだった。


 思い返せばこの意志固めるまでで相当な時間がかかってしまった。うだうだしては曲がりくねって折れ曲がってはそのたびに修正して戻ってきて。当初思っていた信念や願いが今も寸分たがわず抱けていることが不思議なくらいだ。


 あの時のように弱い自分もくだらない迷いもない。ようやくここまで来たのだ。あとは用意された舞台で全力を尽くすしか道は残されていない。盛大にミスをして笑いものにされた挙句に苦渋を啜るのか、はたまた華々しい勝利に酔いしれるのかはその場に立ってみなければと分からない。ただ、それ自体には何も不安はなかった。むしろ今は期待感と大きすぎる緊張感に包まれてコンディションは良好に保たれていた。

依然として表情が見えない彼女を横目に二人の名前が放送されるのを待った。薄暗い通路は壁から伝わるひんやりとした空気も相まってか落ち着かない雰囲気が漂っていた。夜に一人で立てと言われれば誰もが全力でそれを拒否するだろう。そんな場所で互いに顔も見合わせずに長いこと待たされていた。


通路自体は両手を伸ばした大人が三人は横並びになれるほどのスペースがある。せめてここに小さなライトとベンチぐらいおいてくれてもバチは当たるまい。訓練場だとか図書館だとか主だった施設は充実しているというのに学食の座席数が全生徒数に対して全く足りていない点といい、こういった場所に落ち着ける場所がない辺り学院の事務関係者は少し抜けているところがあるのではないか。


 そんな風にどうでもいいことを考えていた時、突如として頭上に魔法陣が現れた。仄暗い通路の中でも色形が細部にわたってわかるほどに淡い光を放っている。鮮やかな淡い青――つまり水を発生させる複合の魔法。


「冷たっ!」


 気づいたときには頭の天辺からつま先まで大量の水をかぶってずぶ濡れになっていた。一瞬のことに何が起きたかわからなかったが次第に理解が追い付いてくる。


「あっはははっ。びしょ濡れになって、どうしたのそれ」


 通路に甲高い笑い声が鳴り響いた。この魔法が誰のものなのかを考えるまでもない。その証拠に彼女の右手にはわざとらしく魔法陣と同じ色をした魔力の粒子が漂っていた。


 前髪はすっかり額に張り付いて毛先からは未だに雫が滴っている。足元に目を落とすと自分の周りにだけ水たまりができていた。相当量の水が降り注いだことが見て取れた。


「……そっか」


「早く乾かさないとね。そのままで試合なんてできないし。それともここで棄権しとく? まあどっちにしてもまともに魔法が使えないんじゃどっちも今すぐになんて無理だろうけど」

「ろくすっぽ魔法が使えないんだもんね。本当にそう……」


 言葉尻とは裏腹に全く動じていなかった。たとえここで全身がずぶ濡れだろうと関係ない。静かに目を閉じると前髪から滴り落ちた雫が床に波紋を浮かべるのを感じた。


 瞬間、体内で一斉に魔力が動き始めた。あわただしくも秩序的に統制された魔力は体内を時計回りに廻る。次第に速度を上げてまとまり始めた魔力を今度は左手に集める。端から糸を紡ぐようにして一つ一つのまとまりを新たな魔法として編み上げると、天井に向けた手のひらに紅色をした陣が出現した。


 詠唱は、必要ない。


「それは……!」


 彼女が全て言い終わる前に魔法陣が〝爆発〟した。本来発動するはずだった火柱の魔法の代わりに陣の上下から噴き出した高熱の黒煙が一瞬で通路を満たした。

 煙を吸い込まないように口を手で覆い隠して何度か咳き込む。隣からはそれよりも大きな咳が聞こえる。


「……っ何するのよ!」

「今の、中級の魔法は使えないかもしれないけどさ。代わりにほら、これでちゃんと乾いたでしょ?」


 黒煙が流れ霧散し徐々に視界が開けると、確かに服は乾いていた。その代わりに服の裾や袖、壁さらには頬にも煙と同じような黒い煤がこびりついていた。これが無事なのかどうかはさておいて、くだらない理由での棄権がどうこう考える必要はこれでなくなった。ついでに足元の水たまりも消えており、このことで後で呼び出されることもなさそうだ。


 少女が和やかな笑顔を隣に向けると彼女の握る拳は小刻みに震えていた。


「よくもやってくれたわね。あとでどんな目にあっても知らないから」

「うん、私も負けないよ。お互い頑張ろ」


 そういって正面に向き直る傍ら小さく舌打ちが聞こえた。


 そろそろ時間だ。目の前の光の中から大きな歓声が一層に大きくって響き渡る。揺れ動くほどの圧が空気を、肌を震え上がらせていた。数か月前まで考えることも億劫だった今この時を今か今かと心待ちにしている自分がいる。少女の心はいつになく高鳴っていた。これが期待なのか不安なのかそのどちらでもないのか。本番を前にして難しいことは分からないが、もう逃げないという確固たる意志はそこに携えていた。


『レイアス・セリルメルト、リリィライト・ソケートの両名は入場ゲートより入場してください』


 事前に収録された無機質な機械音声で二人の名前が読み上げられる。いよいよ出番だ。思っていた以上に緊張していたらしい。頭の隅の方から思考が真っ白に更新されていくような感覚を覚えた。つたないとはいえ、せっかく覚えた魔法の使い方を土壇場で忘れなければいいが。


『やめておいた方がいい。失敗なんてしたら先は救いもない暗闇だ。恥をかくくらいならここで不戦敗になった方がマシだ。やめておいた方がいい』


 今になっていつぞやの甘いささやき声が耳元でした。誰のものかは分からないが、心配そうにかけられる声は、今聞いても自分をいたわるような柔らかく包み込む優しさがにじみ出ている。そして心なしかどこかで聞いたことのあるような気もした。この声に身を委ねてこのまま諦められたらどれだけ素晴らしいのだろうか。きっと何の苦労も心配も悩み事すら存在しない平和で穏やかな日々が待っているのだろう。自身の願いがかなわないことを除いては。


 それだけは何に代えても嫌だった。それに、あいにくここですべてを投げ出すほどの勇気と度胸など既にどこかでなくしてきてしまった。それゆえにここまで来てしまったとも言えるが。


 その代わりになるかは定かではないが、険しい茨の道を進めるだけの覚悟は持ってきた。今はこれだけで十分だ。これだけあれば何があっても光の方を向いていられる。そんな根拠に乏しい確信があった。


「大丈夫、私ならできる」


もう一度小さくそうつぶやくとレイはゆっくり深呼吸をして拳を固く結んだ。体の震えはいつの間にか大きくなっていて、既に抑制が効く状態を逸脱していた。止まらないのならもうそれでもいい。耳障りな優しい囁きがずっと消えないのなら引き連れてそのまま進もう。一本しかない道はもう後戻りも立ち止まることも許されないのだ。たとえ両端が奈落に通じていたとしてもこの道を選ぶと自らそう決めた。落ちるかもしれないという杞憂は無用だろう。渡り切った後に振り替えればそれで十分だった。


「せいぜい死なないように頑張れば? まあ手加減なんてしてあげないけど」

「うん。私も手加減なんてしない。今出せる全力でリィちゃんに立ち向かって見せる」


 正面の光に目を向けたまま向き直りもせずに二人は言葉を交わす。それ以上は何も要らず何も語らず。二人はゆっくりと同じ歩みで光の中へと消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る