第二章

―― 1 ――

 たった一週間。されど一週間。

 久しぶりの登校は懐かしさを感じるほどではないにせよ、自分の中にもそれなりに学校への愛着があったことを自覚させた。ペダルを踏む足に力が入る。

 誰もいない駐輪場に愛車を置いて、後ろの荷台にくくりつけていたバットケースとかばんを手に取る。中に入れている金属バットの重みが肩にずしっとかかっても、校門へ向かう足取りは軽かった。

 日差しが眩しい。九月にしては高い気温と遮蔽物しゃへいぶつのないコンクリ道路のせいで汗が滲む。

 かばんを左に持ち換えて、空いた右手で額を拭う。

 口笛を吹きながら歩くことにした。病室で過ごす退屈な時間に練習したレッド・ホット・チリ・ペッパーズ。口笛でロックを選ぶのが斬新ざんしんだと思ったけど、隣のベッドのおっさんからは『出来の悪いボイスパーカッション』と評されたのが記憶に新しい。ジェネレーションギャップってやつか、と呟いてささやかな反抗を試みたけど、よく考えたらおっさんの方がレッチリ世代ど真ん中なんだよなぁ。

 いいさ、そんな思い出もまたロックだろ?

 誰にともなく吐き捨てたところで、ようやく校舎が見えてくる。

 私立開帝学園かいていがくえん高等部。

 俺の通う高校は地元で一番の進学校ということになっている。いい大学に行きたければ、みんなここを目指す。おまけにスポーツや芸術も盛んで、持って生まれた才能を生かしたければ自然と開帝を選ぶことになる。受験時の倍率は六倍強、学校の中には右も左もエリートしかいない。周りの期待は大きく、悪く言えば監視の目も厳しい。

 俺には分不相応。

 勉強はそんなに好きじゃない。部活は自分で選んだものだけど、ないならないでそれでも良かった。ならなぜこうして歩くのかといえば……居場所だからだろうか。

 高校生の自分が、社会ではまだ子供と呼ばれる自分が、主体として扱われる数少ない場所。

 そこを離れていたもの寂しさが、ほんの少しだけこみ上げる。

 久しぶりで、ちょっと浸りすぎたかな。

「まて、財部たからべ左門さもん!」

 校門をくぐったところで鋭い声に呼び止められた。

「げっ」

「人の顔を見て『げっ』と発するやつがあるか。さすがの私でも多少は傷つくぞ」

「そうは見えませんけど」

「そう見せられるほど演技派ではないからな」

「それ少しも傷ついてないじゃないですか。御堂みどう先輩」

 真っ黒の長髪を風に揺らしながら、りんとしたたたずまいの女生徒がこちらに歩いてくる。

 御堂みどうなぎ

 学園の生徒会長にして風紀委員長も兼任しているエリート中のエリート。堅物中の堅物。

 伝統ある開帝の歴史でもたった二人しかいない女性の会長にして、すでに数々の伝説を打ち立てている生ける英雄。なんでも卒業後の進路はホワイトハウスに決まっているんだとか。

 その彼女が、二枚の腕章をつけた腕を組んでこちらを睨みつけていた。身長は俺より低いはずだけどライオンみたいな気配が存在感を膨らませている。というよりは俺の方が委縮して小さくなっているのかもしれない。

 会うのは初めてじゃない。けど、いつものことながらちょっと怖い。

「今よからぬことを考えていただろ?」

「いや、大きいなと思って」

「な、胸のことはいうな!」

「いってませんけど」

 なんか面白いぞこの人。

 くるっと背を向けた御堂先輩は組んだ腕を心なしか上に構えなおしている。

「財部、今は何の時間だ?」

「授業の十五分前です。ギリギリ間に合いそうでよかったなぁ」

「ホームルームが始まって五分過ぎている。ギリギリも何も普通に遅刻だよ」

「では、ホームルームに少しでも顔を出せるように、ここは失礼しますね。御免」

 横をすり抜けようとしたところで肩をがしっと掴まれた。握力、俺より強そうだ。

時代錯誤じだいさくごな去り方は諦めて少し手伝ってくれよ。ここの門、か弱い女子には少々重くてね」

「…………」

「何をきょろきょろしてるんだ?」

「か弱い女子を探してます」

 御堂先輩の鋭いチョップをひらりとかわして、スライド式の門に手をかけた。む、確かに重い。

 一週間の病院生活で鈍った体にはいい運動だ。これは確かにか弱い女子なら厳しいかもしれない。

「ありがとう」

 素直な感謝の言葉が後ろから掛けられる。

「どういたしまして。では御免」

「デッドボールだってな」

 これは……感謝の続きじゃなさそうだ。

「俺のこと、そんな風に伝わってるんですか?」

ちまたでは、そうだ。野球の知識などほとんど持たない一般の生徒に、自打球じだきゅうなどと言っても伝わらないからな。それに自分の打った球を頭に当てて気絶した男などと吹聴ふいちょうすれば、かっこ悪すぎて二度と学校に来られなくなってしまうかもしれん。いき配慮はいりょだろ?」

「かっこ悪くてすいませんでしたね。本人を前にしてるんだからもっとオブラートに包んでくださいよ」

「で、そのデッドボールのケガは……」

「そのオブラートはもう破れてますが!」

「もう、大丈夫なのか?」

 本当に心配している風に、表情を和らげて御堂先輩が聞いてくる。ライオンの気配はなりをひそめているようで、今はただ世話のかかる後輩を気に掛ける先輩の顔だった。

 根はいい人なのか、それともやっぱり演技派なのか。

「打ち所が悪かったせいで検査入院がだらだら伸びただけですよ。砕けたヘルメットの破片でちょっと切りましたけど、それももうふさがってるし」

 説明しながら退屈すぎた一週間への不満が再燃してきた。

 まったく、俺の頭がおかしくないことを証明するのに一週間もかけやがって。

「どれ」

 御堂先輩の手が俺の頭に優しく触れる。

 さすさす、さすさす、

「何してるんですか?」

「ん? 痛かっただろうと思って撫でてやっているのだ」

「愛情表現が田舎のおばぁちゃんみたいですね」

 振りかぶった手、それが見える頃には衝撃が届いていた。

 額のど真ん中を狙った強烈なチョップ。

 くぅー、どうやらさっきのは手加減していたらしい。こんなの避けられる人間がいてたまるか。

「まぁ、無事ならいい。誰にも何事もないのが一番だ」

「無事じゃないですが! 頭が今割れるように痛いんですが!」

「ところで、財部。登校中、お前の後ろを歩く生徒はいなかったか?」

 何事もなかったかのように話題がすり替えられる。これ以上訴えても俺に得はないので素直に返事を返した。

「生徒、ですか? いなかったと思いますけど」

「そうか、いや、なら良い」

 ほんの少し視線を落とした御堂先輩の態度に鈍い俺でも感づく。生徒会長だって生徒は生徒。本来なら出席しているはずのホームルームの時間にかかってまでこうして門番を務めていたのは、まぁ当然だけど俺なんかのためじゃなかったわけだ。

「待ち人きたらずですか?」

「うむ、もう一週間以上姿を見ていない」

「俺より不良とはなかなかですね」

 自分で言うことじゃないだろうけど。

「一緒にするなよ。奴の普段の態度に、学校へ来なくなる理由など見当たらなかった。むしろ誰よりこの場を愛していた節すらある。少しの誇張こちょうもなく文字通りにな。それに理由があって来ないなら、私も心配などせんさ。しかし来れないのなら……」

 それはつまり何かがあったのなら、

「私の出番かもしれないな」

 それがどういう意味なのか、俺には分からなかった。

 高校生である自分に、子供である自分に、できることは限られている。

 けれど目の前にいるこの人は、自分と二つしか違わない彼女はそれでも必要なことをするのだろう。伝説だから。英雄だから。

 意思と覚悟が込められた瞳を、かっこいいと思った。

「あんまり見つめるなよ。くすぐったいだろう」

 英雄が表情を崩す。時々、ただの女子高生みたいな顔するよなこの人。

「財部、私はそもそもお前のことも不良だと思ったことはないよ。ただ教室に行く前にそのだらしないネクタイは結び直していけ。開帝の風紀を形作る大切なルールだ」

 言われて胸元に手をやる。そういえば、あまりの暑さに緩めてたんだったか。

「御堂先輩にとっても、」

 結び直しながら。

「いや、御堂会長や御堂委員長から見てもやっぱりルールは大事なものですか?」

「当然だ。ルールは開帝のためにあり、開帝は生徒のためにある。ついてはルールを守ることで自分を守ることにもなろうさ。また生徒にとっては、ルールを守る者というラベルが教師や大人に主張を伝える武器にもなる。ただ守れとは言わん。しかし守れ。ルールにのっとっている限り私はお前を含む、全校生徒の味方だ」

 俺の結んだネクタイを最後にクッと整えて、御堂先輩は去っていった。

 そっちは校舎じゃないけど、もしかしたら授業なんかもう受けていないのかもしれない。

 背後で鐘がなる。一限が始まる。

 遅刻の理由の半分くらいは俺のせいじゃないから、少し歩幅を狭くして歩くことにした。

「火曜の一限、なんだったかな……」




 ******




 自習だった。

 出欠だけ確認して、教師は緊急で入った職員会議に行ったらしい。つまり、遅刻して教室に入った俺はカウントされず、一週間ぶりの授業は欠席扱いになっている。

 これは御堂先輩を恨んでもいいよな?

「あ、左門君じゃん久しぶり。こっちこっち」

 エリートばかりの開帝とはいえ高校生は高校生。教師のいない教室で、半数くらいの生徒が席を離れて雑談に興じているようだった。残りは勉強か、あるいは読書か。中には自前のノートパソコンを開いて作業をしている者もいる。それで何をしているのかなんて、俺には想像もできなかった。

 自主自立を方針とする開帝では、ルール外のことはほぼ自由がきく様になっている。危険物でなければ大抵の物は持ち込み出来るし、自習時間に何をするかも決めるのは生徒自身。

 校則だけに拘束される。それを在り方としている。

 さて、自分の席はどこだったか。記憶をたどりながら歩いた。そういえば怪我の直前に席替えがあったばかりだったはずだ。

「左門君こっちだってば、やっぱり忘れちゃってるねぃ」

 バンバンと机を両手で叩く動作は、どうやら俺を誘導ゆうどうしようとしているらしい。周りの視線を集めてなお平然とした顔でこちらに手を振っている女子。

 色波いろは真智まち、エリートばかりのこの学校で数少ない気の合う友人の一人だ。

「真智、お前が隣だったっけか?」

「人の記憶に残らないことで有名な真智さんの能力『サイレントシークレットセイト』恐れ入ったか」

「お前それ他の人間には言うなよ。ものすげぇ恥ずかしい目で見られるからな」

 セイトだけ日本語のあたり特に。

「心配しなくても真智さんの能力はこれだけではない」

「言ってろ」

「まぁ、冗談はこれくらいにして、その物騒ぶっそうなものを置いて席につきなよ。左門くんが学校をサボっている間、この学校で何が起きていたのか。知りたくない?」

「バットは物騒じゃないし、俺はサボってたわけでもないけどな。そんな事より俺は、お前が冗談を冗談と認識できていることにホッとして気が抜けそうだぜ。ちっと待ってろ」

 教室の後ろに備えられた個人用のロッカーの中にバットケースを逆さまに立て掛けて、教えられた自分の席に腰をかけた。窓際の後ろから二番目。陽当たりは良好。

 隣の席から体を乗り出して、話したそうにうずうずした顔を覗かせるお隣さんがいなければもう少しいい物件だったかもしれない。

「さ、復帰早々悪いんだけど、左門君ってば何か赤っぽいもの持ってない?」

「お前いつも何か欲しがってるよな。なんなんだよ」

「いいから。ほら、赤っぽい。なんなら赤くても多分おっけ」

「なんでそんなにアバウトなんだ……」

 赤、赤か。

「あるけどないな」

「あるんじゃん、ちょーだい」

「あるけど、お前にはやれないからないんだよ」

「ふーん、まぁいいや。頭打ったって聞いてたけど、なんか平気そうじゃん。一週間もいないから半分ぐらいは機械になって帰ってくると思ってたのになぁ。あっれー、もしかして悪いのは中身の方だった?」

「残念そうにいうことじゃないだろ。俺はお前の頭の方が心配だぜ」

「ん、もう大丈夫なの?」

「おう、それなりに」

 普段の調子を思い出すように、くだらないやりとりを数回重ねる。失っていた日常を取り戻すのに、それは多分必要なプロセスなのだろう。まぁ、この何を考えているのかちっとも分からない同窓どうそうの友がそんなつもりでいるとは思えないけど。

 それでもようやく俺は、財部左門は居場所に戻ったのだと思った。

 そのはずだった。

「ね、何か気付かない?」

 少し声音を変えたひそひそ声で真智が言う。手を口元に添えて、これからする話題を他の生徒に聞こえないようにするための配慮に見えた。こいつは周りの目なんて気にしないと思っていたけど。

 気づくこと。

 こちらを覗く真智を見つめる。

 少しウェーブのかかった明るい髪は色も髪質も自前のものだと言っていたような気がする。地味とは言わないがあまり目立たない化粧も変わっていないし、服装は見慣れた制服。身長はまぁ一週間じゃ伸びたりしないか。

「…………」

「…………」

「ちょっと太ったか?」

「曲がりなりにもクラスの女子に言うセリフか! デリカシーの欠乏けつぼうで死んでしまえ!」

 違ったらしい。

「そもそも私の感想なんて左門君に聞くわけないじゃん。じゃなくてこのクラスのこと」

 なら初めからそう言えよ、という言葉は心にしまいながら教室を見渡した。

 自習時間の1年B組。俺の日常。俺の居場所。

「何か変わったか?」

「今はね、みんな席動いちゃってるから分かりにくいかな」

 真智が小さな声で続ける。



「な、」

 動悸どうきが胸を揺さぶった。

 最悪の事態を想像してもう一度、教室を見渡す。ここからでは人と人が重なって、うまく状況を把握はあくできない。誰がいて、誰がいないのか。

 入学から半年経っても、名前と顔の一致しない人間もちらほらいる。そんな有象無象には目を止めず、探す。探す。

「順番に話すよ。まず、先週の火曜日。あんた、財部左門が放課後の練習試合中に自身の打った球を頭に当てて入院」

「それはいい。次……いやまて、」

「あいよ」

「お前それ、新聞部のか?」

 冷静に、冷静に、話を聞く必要がある。正確に、確実に、事態を把握する必要がある。だからまずは自分が冷静であることを確かめるために、矛盾は指摘しておかなきゃいけなかった。

 こちらに話しかける真智の手には薄い紙束が握られている。薄いと言っても上等な、A4サイズの白いマット紙。

「そ、開帝通信。ほら、この学校すぐ人が消えるから、整理するためにその辺りの情報も生徒に共有されてるのね」

 真智はひらひらと文面をこちらに向けて、それからすぐに持ち直した。一瞬だったから内容までは読み取れない。

 開帝通信は新聞部が日刊で配布している機関紙だったはずだ。とは言っても受け取っているのは生徒の中でも一部の希望者だけで、ましてや購読している人間がいるとは思わなかった。もちろん俺は手に取ったことすらない。

「その紙面に、俺が自って載ってるのか?」

「ん? あ、……んにゃぁ、デッドボールだね。そうそうデッドボール」

「さっきと言ってること、違うよな?」

「違わない。真智さんのこと信用してくれないと、話が前に進まないよ?」

 とぼけた表情と上目遣いで、話を有耶無耶うやむやにしようとしているように思えた。

 焦る気持ちが視線を教室に戻す。探す。探す。まだ見つからない。

「いい、続けてくれ」

「ん」

 真智が一枚、紙をめくる。

「先週の木曜日、雨宮あまみや竜乃たつのさんが放課後の部活を最後に行方不明。部活って言っても顔を出したくらいで活動には参加してないみたいだね。それから家に帰らず、学校にも来てない。ほら、うちのクラス随一ずいいちのお嬢様だったから割とこれも大騒ぎしてるのよね。親御さんの通報で、警察も捜索してるって」

 雨宮……雨宮……

「あんまり、印象ないな」

「左門君が人に興味なさすぎるだけだよ。普通半年も経てばクラスメイトのことぐらいみんな把握してるって」

 そういうもの、だろうか。あんまリ真智の言葉が頭に入ってこない。

「で、次だけど。まぁ、雨宮さんも分からないなら、多分ピンとこないだろうけどね」

 これは昨日のこと、と続けながらまた一枚紙を捲る。


「今週の月曜日、逆巻さかまき紗香那さかなちゃんがお昼休みに屋上から飛び降りて自殺」


 全ての音が途切れる。

 それから一瞬遅れて、目の前が真っ白になった。

 耳が、脳が、言葉を理解するのを拒絶して、熱を帯びていく。

 飛び降り? 自殺? 紗香那が?

 早鐘を打つ心臓の鼓動が鼓膜を介さずに聞こえてくる。けれどそれはどこか遠く、いくつもの壁をへだてて起こっていることのようで現実味が薄い。

 震える右手を、震える左手でなんとか押さえた。

 視線はまだ教室の中を彷徨さまよっている。探す。探す。

「おーい」

 真智の手が、俺の視界を遮るようにヒラヒラと揺れている。

 鬱陶うっとうしいその指の隙間を縫って、探す。探す。紗香那を。

「左門君、どした?」

 焦りが吐き気に変わったように気分の悪さが胸を支配していた。

 ピントがぼやけて上手く視界が定まらない。探さなきゃ、いけないのに。

「おいってば、すごい汗だよ、大丈夫?」

 肩を強引に揺すられて、真智と目が合う。その瞳に呆然ぼうぜんとした顔の自分が写っている。それは現実に帰って来たように鮮明で、現実を見せられたように凄惨せいさんで、受け入れ難い事実と向き合わせる残酷な行為だった。

「あぁ……、おう、大丈夫」じゃない。

 もうつくろえない態度を自覚しながら、それでもなんとか言葉を返す。

「嘘つく意味ある? それ」

 俺の努力は評価されず、真智からハンカチを手渡された。

 受け取った手元に、視線を落とす。

 存在価値を見失った両目が、世界を徐々に曇らせていくようだった。

 俺の日常から、紗香那が消えた。

 俺の居場所に、紗香那はいない。

 冷や汗が頬を伝う。

 考えうる最悪の悪夢を、上手く飲み込めない。それなのに吐き出すことも叶わない。

 逆巻紗香那の顔がこの教室中を探しても見つからないという事実、それは真智の話すタチの悪い冗談みたいな話を真実と裏付けるのに十分なことだった。

 紗香那が欠席しているところなど見たことがない。早退や遅刻だって、一度もない。

 気づいていなかったわけじゃなかった。

 初めから、

 この教室に入ったその瞬間から、

 俺の目は紗香那をずっと探していたのだから。

「仲よかったっけ左門君、紗香那ちゃんと」

 伝った汗の雫が、水玉模様のハンカチに落ちた。

 答えに迷う。俺と紗香那の関係は少し難しいから。

 真智になら、いいか。

「紗香那とは幼馴染おさななじみだったんだよ。……家が近所で、よく遊んでた」

「へぇ、意外。左門君あんまりそういう話はしないからなぁ。なるほどねぇ……じゃあ、これ以上詳しい話はやめとく? 聞くのきついでしょ」

 真智が手元の紙を下げようとしたのを、俺は未だ震えのおさまらない手で制した。

「頼む、聞かせてくれ。大丈夫だから」

 大丈夫だから。俺は、大丈夫。自分に言い聞かせるように心の中で何度も唱える。

「なら話すけど、ちゃんと強がってよね。って言っても、わかっていることはそんなに多くないけど」

 自分の生唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。

「昨日のお昼、女生徒が屋上から飛び降りを図った。これがまず事実ね。落ちていく瞬間を目撃していた人がいるし、落ちたと思われるグラウンドには遠巻きに人だかりができてたらしいよ。ただ、飛んだのは特別教室棟側だったから、普通に自分の教室にいた私ら大勢は気づかなかったけどね。騒ぎがあったことを知ったのは救急車のサイレンの音が聞こえてから」

 真智が言葉を区切った。一瞬俺の様子を見て、それから紙面に目を戻す。

「奇妙なことが二つある。一つは、遺体を運んで救急車が学校を離れた後も、数人の隊員が残ったこと。彼らは現場の周りをかなり長い時間うろうろしてたらしいんだよね。様子を見ていた生徒は、まるで何かを探しているみたいだったって言ってる」

「現場の清掃をしてたんじゃないのか?」

「そういうのは別の業者が担当してたみたい。私も出入りしてるのを見たよ。そこから」

 真智が俺の背後を指差す。振り向くと、ちょうど窓から校門が見えた。

「けど、割と早く帰って行ったかな。もしかしたらそんなに遺体の破損が酷くなかったのかもね」

 あっけらかんと真智は続ける。

「で、二つ目。あんまり希望を持たないで欲しいんだけど……、飛び降りた女生徒が誰だったのか、まだ学校からは正式に発表されてない。この校舎で学んでいる全員が事件のことを知っているのに、どこのクラスの誰なのか、正確なところは分かってないってこと」

 張り裂けそうになっている心臓が一際大きく鼓動して痛みを発する。

「それは真智、飛び降りたのは紗香那じゃないかもしれないってことかよ」

「そう思っちゃうよね。けど、状況はそうは言ってない。これから説明するけど、いくつかの事柄から見て、やっぱり紗香那ちゃんで間違いないと思う。奇妙って言ってるのは、それだけの証拠があるのに学校が明言してないってことなんだよ。今やってる職員会議だってそのことが関係してるのかもしれないし、まぁそうじゃないかもしれないけど。いずれにせよみんなが、少なくともこのクラスでは全員が、飛び降りたのが紗香那ちゃんだって思ってる」

 理由も話すね、と。

「まず単純なことだけど、昨日の午後の授業から紗香那ちゃんはクラスにいなかった。午前中はいたんだよ。私、ちょっと会話したしね」

「何、話したんだよ」

「なんでもないことだよ。確か……そうだ、水玉模様のもの持ってない? って聞いたかも。で、快くハンカチを貸してくれたわけ。それ」

 これかよ。

 青い小さな水玉の、清潔なハンカチ。言われてみれば真智の趣味じゃないな。

「それから、理由その二ね。開帝通信によると、落ちた後の遺体を抱えて現場で叫んでいた女生徒が居たみたいなんだよね。離れて見ていた人たちが聞いていられない程悲痛な声で、確かに『紗香那』ってそう言ったらしいよ。少なくとも遺体に触れた彼女には判断できたってことじゃないかな」

 真智の言葉で紡がれる事件の詳細が、否が応にもその瞬間のことを想像させる。

 日の高い青空、照り返すグラウンド。

 その端で、はるか上の屋上から飛び降りて形の崩れた人の体を抱きながら叫ぶ生徒。離れて見ていた自分はゆっくり近づいて、遺体の顔を覗き込む。

 血に塗れた紗香那の表情は上手く形容できない。

 泣いているようにも、苦しんでいるようにも、笑っているようにも見えない。

 ただ俺がそうしているように、光を失った紗香那の目もこちらを覗き込んでいる。

 逃げ出したくなる衝動を抑えてもう一歩近づく。生徒の叫びが耳を焦がし続けている。

 したたるる赤が地面に落ちて黒になり、高い気温のせいですぐに揮発きはつして、鼻につく異様な匂いが辺りを充満していた。もう一歩。

 そしてもう一歩。触れることすら叶う距離。

 よく見ると遺体の口が、紗香那の口が、小さく動いている。

 何かを訴えるように。

 あるいは何かを、呪うかのように。

「左門君、まだ聞ける?」

 真智の声が、俺の意識を教室に引き戻した。

 はっとして、ハンカチに落としていた目を真智に向ける。

「あぁ」

 生温い返事を返す。

「でね、その生徒。開帝通信の中では匿名なんだけど、候補はすごく絞られてるわけ。特別社交的な訳でもなかった紗香那ちゃんが、入学からこの半年で作る交友関係なんてたかが知れてるし、普通は知り合いの死体を見つけたってなかなか近寄って触れたりできない。例えば左門君がそこらで死んでても、真智さんならすぐ警察を呼ぶね。それだけ。触らぬ神に祟りなしって、まず近づかない。でも多分ほとんどの人がそんなもんなんじゃないかと思うわけ」

「人を勝手に殺すなよ」

「左門君、人を殺すときに断りを入れるタイプ? まぁ、それはいいんだけど。つまり、その生徒は紗香那ちゃんとかなり親しかったと思うんだよね。それだけで、ピンとこない?」

 紗香那と仲の良かった奴……。思い出そうとしてみる。けど、うまくいかない。

 ここへきて、一週間のブランクが足を引っ張っているのかもしれない。

「ほんと左門君てば、クラスメイトに興味がないんだね。流花るかちゃんだよ。粕谷かすがい流花るかちゃん。紗香那ちゃんと仲が良かったことは誰の目から見ても明らかだったし、昨日のお昼休みはこの教室にいなかった。午後の授業にはいたけど、ずっと俯いてたからね。真智さんの推理では間違いなく彼女だと思うわけ」

「それは、つまり粕谷に聞けばその遺体が本当に紗香那だったのかわかるってことだよな?」

 おぼろげな記憶を辿って粕谷流花の顔を思い浮かべながら、改めて教室に目を向ける。

 確か、粕谷流花はおしゃれ三つ編みっぽい髪型の割と背の高い女子だったはずだ。

 椅子から腰を浮かして、探す。けど、それを制止するように真智の手が俺の制服の裾を引いた。

「やめなよ。無駄だから」

「は? なんでだよ」


「今日、流花ちゃん学校に来てない」


 思考が一瞬止まって、それからゆっくりと動き出す。

 粕谷流花の欠席。それが偶然のはずはない。仲のいい友人だった紗香那の死を目の前で見たのなら、当然の反応のように思えた。

 心が耐えられるわけがない。自分のことのように、そう思う。

 だからこそ、この場に粕谷流花の姿がないということは何よりも残酷なことだった。

 真智のこれまでの言葉が、そして確かではないはずの推論が、現実味を増してゆく。

 逆巻紗香那の自殺という事実が、裏付けられていく。

「担任は欠席の連絡があったとだけ言ってたよ。職員会議に急いでたからね。誰もそれ以上聞けなかった。ただちょっと嫌な予感がするんだよねぇ」

 真智が勿体ぶるようにため息をつく。

「開帝通信に、何か載ってないのか?」

 聞く。

「ん? んーと、ないよ。ないない。あるわけないじゃない。流花ちゃんに関しては今日のさっきの出来事なんだから。ないよ。ない」

 なぜか目を逸らす真智が、そのままあらぬ方向を向きながら口を動かす。

「ただ、今日の担任の口ぶり、雨宮さんの時と全く一緒だったんだよねぇ」

 雨宮――雨宮竜乃。行方不明になったクラスメイト。

 不吉な類似が胸の中に気味の悪いしこりを残す。

 御堂先輩の言葉が蘇った。

 ――理由があって来ないなら、私も心配などせんさ。しかし来れないのなら……。

 この学校で俺の知らない何かが起こっている、ということなのだろうか。

「呪われてんのかな、うちのクラス」

 真智の小さな呟きが、教室の喧騒けんそうの中に溶けていく。

 見えないそれを、少しの間目で追った。

「ダメ押しだけどさ、三つ目の理由。紗香那ちゃんってほらお昼休みはいつも屋上で、」

「あぁ、それはわかってる」

 あえて言葉をさえぎるように答えた。

 紗香那のことはわかってる。あの、男のことも。今はその名前を聞きたくなかった。

 窓の外に視線を移す。九月の空、雲の少ない気持ちのいい空が場違いに思えた。場違いなのは、ほんとはきっと俺の方なのに。

 一つ大きく息を吸って、おもむろに立ち上がる。自習が始まって三十分、残りの時間をこの賑やかな教室で過ごす気分にはどうしてもなれなかった。どうせ勉強をする柄でもない。

「どこいくの?」

「どっか」

 こんなときにいく場所は決まっているけど、真智には適当に答えた。ついてくるようなやつじゃないけど、一人になりたかった。扉へ向かって歩き出す。

「そっか。じゃあ、一つ真智さんから助言をしてあげよう。中庭の鶏小屋の方は行かないほうがいいよ。昨晩小火ぼや騒ぎがあって今日は職員が巡回してる」

 ヒラヒラと紙を振る。開帝通信に書いてあったと、便利だな。

「そっちの方にはいかねぇよ。まぁ、二限の時間には戻る」

「あの、さ」

 それは強い言葉じゃなかった。ただ真智にしてはしおらしい、らしくない言葉。

 だから、止まるつもりのなかった足が止まった。

 振り返る。いつも通りの真智がいつも通りの真智の表情で、飄々とこちらを覗き込んでいる。

 それなのに少し、背筋をすーっと寒気が走った。


「左門君、いけないことしてるでしょ?」


 答えを待たずにバイバイと手を振る真智に背をむけ、言葉を返さずに教室を離れた。

 喧騒が遠ざかる。

 振り切るように、足を早めた。




 ******




 開帝の新校舎には、誰も近づかない区画がある。

 特別教室棟の四階、その西の端。

 理由は単純で、主要科目の授業を行う普通教室棟から最も離れたその位置はアクセスが悪く、またそのせいか一般の生徒にとって用事のある施設が近くにないからだった。

 誰もそんなところまでは行きたがらない、というだけのこと。

 旧校舎のように何かのいわくがあるわけじゃない。ただ、人が寄り付かないだけ。

 普段でさえそうなんだけど、今日に限っては階段を三階まで上がったところで、人の気配がなくなった。職員会議の影響もあるのかもしれない。多分生徒は、みんな自教室にいるのだろう。

 しん、とした静寂の中で、乱暴に鳴る自分の靴音とその反響だけが耳に届く。視界の中に、自分以外の動くモノを見つけられない。

 いつもならそんな孤独を好んで歩くところだが、その静けさが今は都合が悪かった。

 余計なことを、考えるから。

 沈んでいた気分がズブズブとさらに沈んでいくのを感じて、真智との会話を思い出さないように、無理矢理口笛を吹く。

 リズムだけは不器用に真似た、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ。そのビートが微かに窓を揺らす。体だって揺れている。形だけは。

 廊下の終わりが近づいて、俺は少し歩調を緩めた。

 そこには三つの壁に面して、三つの扉がある。

 右から第二音楽準備室。

 突き当たりの第三屋上侵入口。

 で、向かって左にあるこの女子トイレ。

 ノブを回して、素知らぬ顔で中に入った。

 当然、中に人がいることを心配する必要なんてない。使う人がいないので、掃除当番すら充てられていない場所なのだから。

 カチャ、と小さな音を立てて扉が閉まる。

 陽の入らないこの空間は、他よりいつも気温が低い。

 多分、水けを意識したタイル張りの床も影響しているのかもしれない。

 並んだ洗面所の一つに近づき、固い蛇口を捻ってぬるい水道水で顔を洗った。鏡に映る自分が疲弊ひへいしたひどい顔をしてこちらを覗いている。無理矢理頬を引き上げると、笑われたような気がしたので目を背けた。自分で言うのもなんだけど、見ていられない。

 締め切られた室内はよどんだ湿気で空気が悪く、嫌な匂いが立ち込めている。突き当たりまで歩いて窓を開けた。ハンドルを回して押し込むタイプの小さな窓。横の換気扇にも手をかける。

 そのまま壁にもたれかかった。今この瞬間までなんとか気を張っていた膝から力が抜けて、重力に負けた体がくずおれる。タイルに尻餅をつくと制服越しにひんやりとした感触が伝わってきた。


 紗香那が、死んだ。


 先ほどからずっと、見ないふりをしてきた胸の奥で、その言葉が反芻はんすうされている。

 昨日とはいえ、俺が学校にいない一週間のうちに起きたことだった。

 何もできなかったのは、単に運が悪かったと言えるかもしれない。

 どうしようもなかったこと、そう割り切ろうとした。こういう運命だったのだと。

 頭の中では、そんな結論に何度も到達しては、都度押し寄せる自責と後悔に飲み込まれてまた遭難そうなんを繰り返している。咀嚼そしゃくしきれない感情が飽和して、まだ全てを呑みこむには時間がかかりそうだった。

「くそっ」

 コンクリートの肌を露出させている手頃な壁を殴りつけた。

 乱暴に、何回も。何回も。

 骨のぶつかる硬い音が心地よかった。

 痛みは鈍く、遠く、まるで他人事のように自分の行為を見つめている。

 やがて壁が汚れていることに気がついて、拳を寄せた。にじんだ赤を舐め上げると、鉄っぽい味が口腔こうくうに広がって、ぼやけた頭が少しだけ覚醒したような気がした。

 紗香那が、死んだ。どうして、

 どうして、と問いかける。どうして止められなかったのか。どうして自分はその時、この学校にいてやれなかったのか。どうして、

「どう、して……?」

 俺は、何か根本的な間違いを犯している。そんな気がした。

 失ったものの大きさに混乱をしている。その自覚はある。そのせいで自分を責めることばかりに取り憑かれ、目を向けずにきたことがある。

 まるで当たり前のように、受け入れてしまっていた事実。でもそれは本来謎そのものだ。

 真智は、何も言っていなかった。

 それは多分わからなかったからだ。開帝通信には載っていなかったから。そして友人としても回答を得られなかったからだったはずだ。

 紗香那が、死んだ。

 紗香那が、死んだ。どうして、

「どうして……、紗香那は自殺したんだ?」

 冷静に、冷静に、情報を精査する必要がある。正確に、確実に、何が起こったのかを見極める必要がある。

 そのために、ズボンの後ろポケットへ手を回したその時だった。

 視線が上がって、気が付く。

 俺が入ってきた扉の、ちょうど人の頭がくる高さにあるすりガラスの小窓。


 そこから


 背筋に悪寒が走った。

 思わず伸ばしていた手を引っ込めて、すぐにそれを後悔する。動くべきじゃなかった。

 まだ、自分の存在に気づかれていないことを前提に体をなんとか静止させる。

 すりガラスは解像度の低いデジタル画像のように向こうをあらく映し出していた。こちらからは人の顔の輪郭りんかくしか見えず、表情などはもちろんわからない。性別も、生徒か教師なのかも。かろうじて眼窩がんかに当たる部分が暗く埋没まいぼつして映る程度。

 それは、相手にとっても同じことのはずだ。扉から離れた対面の壁に、小さくうずくまる俺の姿が向こう側からは見えるはずがない。動かなければ。

 祈りながら、扉を睨み付けた。ここにいることが教師にバレるわけにはいかない。

 人影も、じっと不気味にこちらを向いたまま動かなかった。

 緊張感のある時間が、居心地の悪い間が、続く。

 部屋の気温がさらに少し低くなったように感じるのは気のせいだろうか。

 まだ九月のこの時期に、腕には鳥肌が立っている。本能が危険を、あるいは恐怖を訴えているようにも思えた。心臓の音がやけにうるさい。

 ジリジリと精神を削られていく。体力も同じだ。

 音を上げたくなる気持ちを殺して、今はただ耐えるしかない。

 そういうのは苦手だった。

 だからいつか負けるのは俺の方だと思った。それほど長くはもたないことがわかっている。

 やがて、

 すぅ、と小窓に映る顔の影が離れた。

 すりガラスは廊下から入る光を雑に乱して取り入れる、ただそれだけのものに変わる。

 警戒する心が、その変化に対応するのに時間が掛かった。

 ゆっくりと、音を立てないように立ち上がる。決して足音が響かないように気をつけながら、慎重に扉に近づいた。

 誰もいないことを確認するために。ここがまだ、俺の居場所であることを確かめるために。

 小窓に変化はない。その向こうから、気配は感じられない。

 だから油断していたとでもいうのだろうか。

 、と。


 俺が伸ばした手がまだ届かない、ほんの五センチ先でノブが回った。


 息を呑んだ。背筋が凍る。

 逃げることを考えて、諦める。

 隠れることを考えて、諦める。

 説得や、言い逃れを考えて、全て諦めた。

 取れる手段は、そんなに残されていない。いや、最後の手しかないのかもしれなかった。

 焦りが空回り、正常な思考をしていないことが自分でもわかる。

 怯える手を、引いた。それに呼応するように扉が内側に開かれる。

 暗い室内に場違いな光が差し込んで――

「あ、財部くん、みーっけ。何怖い顔してんの?」

「なんだ、お前かよ」

 入ってきた女生徒が、それまでの緊迫した空気を台無しにしながら話しかけてくる。

 顔馴染みだったのは、不幸中の幸いと言えるだろうか。

「ここ、一応女子トイレなんだけど。財部くんてば変態さん?」

「誰も使わないトイレに女子も男子もあるかよ。しかも授業中だぜ? 真面目な女子生徒が来る方がおかしいんじゃないか?」

「それを君が先に言うかね」

 さも楽しそうにケラケラと笑う。様子からして、部屋本来の用事でここにきたわけじゃなさそうだった。

「何しにきたんだよ?」

 いまだにバクバクと鳴っている心臓の音を隠しながら問いかける。

「何って、多分君と同じだよ。真面目に教室で自習なんてする気にはならなくてさ」

 すれ違うように横を通って、俺の開けた窓の方へ移動していく。変なステップだなこいつ。

「天気はいいけど、学園は憂鬱ゆううつだねぇ」

 同感だった。朝はこんな気分じゃなかったはずなのに。

「話きこーか?」

「なんのだよ」

「なんだっていーよ。財部くんの話したいことならさ。そのピクリとも笑わない顔、落とした肩、ついでにその痛々しい手を見せられたら、友人として何かできることを探してしまうのは普通の感覚なんじゃないかな?」

 拳を隠す。

「お節介せっかいだよ」

「心外だなぁ。私は心配をしているつもりなのだけど」

 ケラケラと。笑っているような喋り方で、言葉が続く。

「実はナイーブなのは私も同じでさ。境遇きょうぐうの近い人間をなぐさめることで、自分自身の心の安定を保とうという魂胆こんたんなんだよ。だからエゴだと思ってくれてもまぁ、構わないや」

 はーあ、とわざとらしいため息をこちらに投げつける。

 聞いて欲しそうに、こちらを誘っているようにも見えた。のっかってやる。

「お前は、じゃあなんでそんなに気分が沈んでるんだよ」

「そう見える?」

「いや、そこまでじゃない」

「ははっ、財部くんは正直だなぁ。でもそうだね。私だけ一方的に尋ねるのはフェアじゃなかったのかもしれないし、答えてあげてもいいかもね」

 猫のような瞳が、逃げようとする俺の目を捉える。


「昨日、友達が死んじゃってさ」


 それは俺の心から漏れた言葉に思えた。でも違う。間違いなく彼女の唇が動いて、発した言葉。

 紗香那の死が、ここで俺たちを引き合わせたってことなのか。

「お前もかよ」

 短くそう答えた。

「お前も? 君は、誰のこと?」

「誰って、一日に何人も死んでたまるかって」

「そうだね。ははっ、それはそうだ。うん、確かに」

 確かに、とうなずいてこちらに笑いかける。していた話題を間違えたのかと錯覚するほどの明るい表情に脳が混乱する。

「生きている人間からすると、人の死はいつだって不測だよね。突然起こるから、予定を立てられない。ちゃんと死ぬ日を教えてくれていたら、最後の時間をどんな風に過ごすかも、やり残したことをどの順番で消化していくのかも、きっと違っていたはずなのに」

 残念、とつぶやく彼女は手持ち無沙汰を嫌ってか、換気扇から伸びる紐を何度も引いて遊んでいる。モーターが回ったり停止したりする耳障りな音が、広くはない冷たいトイレに断続的に響く。

「どうして、」

 俺の口から疑問が漏れる。それは一瞬忘れかけていた、けれど決して見逃してはいけない謎。

「どうして、自殺なんかしたんだろうな」

 紗香那は、どうして屋上から飛び降りる必要があったんだろうか。

 ケラケラと、場違いな笑い声が雑音に混じる。

「自殺、ね。普通はしないよ。精神や、頭や、それから体が正常だったらしない。だってそれは殺人と同じだもの。他人を簡単には殺せないのと同じで、自分を殺すのだって簡単じゃない。よっぽどの目的が必要になる行為だよね」

「目的?」

 その言葉には違和感があった。

 想像してみてよ、と彼女はいう。

「自分が今まさに自殺をしようとしていたとする。それはどんな時かな? 人生に絶望したのか、それとも何かとっても嫌な事があったのか。なんでもいいよ、全部同じだから。それで、財部くんは自分の心臓にナイフを突き立てようとしている。鋭くて切れ味のいい刃に震えながら両手でを握って、振り上げる。なんのためにかな? どうなるためにかな? それに答えるのも簡単な事じゃないよ。だってそんな行為に思い至るには、どこかが壊れていなくちゃいけないもんね」

 饒舌じょうぜつな彼女の言葉が俺の頭を支配する。

 刃物を握る手。それを直視できない目。決断するのを躊躇ためらうように答えを先送りにする頭。

 その刃を振り下ろすべきか長い間、ずっと迷っている。刃物を構えてからの数瞬の事じゃない。眠っていても、目を覚ましても、歩いていても、学んでいても、あるいは誰かとたわいのない会話をして形ばかりは顔が笑っている時も、迷っている。

 止めるのは簡単なはず、だ。

 それを理解している。

 間違いなく認識できている。

 自分がやらなければ、それは起きないこと。

 やめることも、できる。

 それでも迷っているのは目的があるから。

 自殺をする理由ではなく、自殺をする目的が。

 教えてあげるよ、といつの間にかそばに来ていた彼女が耳元でささやいた。

「自殺はね、何かを呪うための正しい犠牲なんだよ。彼らはね、自分の中に積み重なってどうしようもなくなってしまった恨みを晴らすために何をすべきか知っている。壊れた時に、みんな知るの。だから仕方なく、やむなしに、本当は納得していなくても、自分を殺してしまうんだね」

 刃が胸を貫くのを、頭がゆっくりと認識していく。

 皮膚を突き破る鋭い痛み、それが一瞬で、無理矢理肉の中に異物がねじ込まれる違和感に変わる。肋骨の折れる鈍い音。刃に触れている体の内側が燃えるように熱い。けれど他の全てが冷たくなって、命の流れる感触が伝うのを呆然と眺めている。

 まだ、迷っている。

 でももう、止まらない。

 痛みだけが輪郭りんかくを失いながらも、ぼやけた意識に寄り添うように付き纏っていた。

 それを遮断する。危険を自覚する必要はもうないから。

 そうして何も感じなくなるのに時間はかからなかった。

 胸にたった一つ残るのは、歪で醜い微かな達成感。

「あんまり、熱中しちゃダメだよ。君まで壊れたらどうするのさ」

 耳元の声で引き戻される。

「何か、収穫はあった?」

 そう聞く彼女に、荒い呼吸を整えながら首を縦に振った。

「わかった事がある」

「うんうん、ならよかったよ。もうすぐ一限も終わるし、私はもう行くね」

「あ、お前、」

 きびすを返して扉に向かう彼女を呼び止めた。スカートをふわりとひるがえしながら振り返るのを見て、気になっていたことを告げる。

「聞いた事なかったよな。名前、教えろよ」

 ケラケラと、笑う。それはとっておきに意地悪な、それでいて上品にも見える笑い方。


「ヒミツだよ」


 、と小さな音を立てて扉が閉まる。

 それを俺は呆然と見つめていた。

 額から、嫌な汗が伝う。

 さっきまでの実感を伴うリアルな想像のせいなんかじゃない。

 扉をくぐる彼女の身長が、小窓にちっとも達していなかったからだ。

「なん、だったんだよ」

 自分以外の誰もいなくなった冷たい空間に吐き捨てて、近くの壁に寄りかかった。

 スマホで時間を確認しておく。チャイムまではほんの少し、猶予ゆうよがありそうだ。

 思えば、ようやく一息をつく事ができる。

 ズボンの後ろポケットに手を回して、マルボロの赤箱から一本取り出す。ガスの少ない百円ライターで火をつけて、苦い煙を胸いっぱいに溜め込んだ。

 吐き出す。

 白い吐息が緩やかに換気扇の方へ逃げていくのを目で追いながら、思考を整理する。

 わかった事。

 俺の知る紗香那は、優しすぎる人間だった。たとえ自分に危害きがいを加えるような相手であっても、その身を心配できるような。過度に、優しい人間。

 紗香那が何かを、あるいは誰かを呪うために身を投げるなんて、想像できなかった。

 恨み言を吐く姿すら、イメージができない。

 その事実は、この事件が学園に広まっているものとは全く違う側面を持っていることに気づかせる。

「紗香那が死んだのは自殺なんかじゃない。誰かに、殺されたんだ」

 隠していた灰皿にタバコを押し付ける。その指先に、必要以上に力が入る。

 誰も、気づいていない。でも、犯人がいるはずだ。

 紗香那を失った悲しみが、奪われた怒りに変わっていくのを感じた。

 紗香那を屋上から突き落とした誰かが、この学園にいる。

 俺が、見つけなきゃいけない。そんな使命感が胸いっぱいに広がった。

 憤りで熱くなっていく頭を冷やすのに、もう一本火を着ける。大きく吸い込むと、先がチリチリと燃えて灰に変わっていく。

「屋上、か」

 一限の終わりを示すチャイムが鳴った。

 授業の始まりまではまだあるから、この一本だけは最後までたのしむことにする。

 ふと、真智の言葉を思い出した。


 ――左門君、いけないことしてるでしょ?


 白い煙を吐きながらそれまでの言動を思い返す。

 それらしいことを口走ってはいないはず。

「真智のやつ、なんでわかったんだ?」

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