怪底奇譚 ーKAITEI KITANー

碇屋ペンネ

第一章

―― 1 ――

 本当に怖いことなんてそうそう起こらない。

 そんな風に思いながら十六年間を生きてきたのは、きっと私だけではないはずだ。

 例えば幽霊や妖怪やおばけがいる、と仮定をしてみる。

 それらナニかは人を襲うものだとして、そうして人が姿を消してしまうものだとする。

 すると人が減る、その結果が現代においては数値に残る。

 だからナニかがいるのなら、あるいはナニかが起こるのなら、それはきっと目に触れるものとして私たちの前に現れるはずなのだ。

 そうであるならば私たちの日常はもっと穏やかでなく、もっとくすんだ色をして、きっと呼吸のしにくいものだったはずなのだ。

 怖いことなんて起こらない。怖いことなんて起こらない。

 数学はあんまり得意じゃないから、パスタで例えてみようと思う。

 一般的に、スパゲッティを茹でるときには茹で汁に1から1・5パーセントくらいの塩を加える。アルデンテに仕上げるなら7分。柔らかいのが好みならもう1分。時間は……、今は関係ないんだっけ。

 ほんの少しの塩分が、小麦でできたパスタのデンプンに作用して仕上がりをぐっと変えてしまう。別物へと変えてしまう。

 たったの1パーセントがここでは意味のある数字。

 入学した当時、私の通う開帝学園かいていがくえんには380人の生徒がいた。

 半年たって、そのうち9人が行方不明になっている。

 きっと彼らは死んでいる。

 理由は様々で、関連性も薄く、不明なことも多い。

 でもたぶん、みんな死んでいる。

 つまり、2パーセントの死を含む私たちは、少ししょっぱいスパゲッティなわけだ。

 必ずナニかがいる、ということではない。

 絶対にナニかが起こる、ということでもない。


 ただ、

 こうしてふと眺めるとどこにでもある、

 暗がりになった物陰の隅に、

 恐ろしいモノなど隠れていない、

 という確信がほんの少し揺らいでいるだけ。

 本当に怖いことなんてそうそう起こらない。

 そう、だよね?


 ******


「やっぱり電気は、通ってないんだ……」

 錆びた鉄製のスイッチが、カチカチと軽い音を返す。

 放課後に入ったばかりでありながら、私たちの歩く旧校舎の廊下に差し込む光は乏しい。ただでさえ少ない窓は長い時間手入れがされていないようで、付着した砂やほこりがその先にあるはずの景色を遮っている。

 そんな窓の向こうを、けれど隣の流花るかちゃんは近づくたびに覗き込んでいた。自分の今までいた場所と、どこか異質なこの空間との接点を探しているようにも見える。

 後ろ髪をひかれながらも彼女は前に向き直った。歩くたび、床が悲鳴を上げるようにきぃと啼く。重く、まるで引きずるような足取りが、流花ちゃんの中に渦巻いているだろう不安を表しているみたいだ。

 無理もない、そう思う。

 私たちの通う開帝学園の旧校舎といえば、それは学園内を飛び越え地域の誰もが知っているいわくつきの建物だ。

 戦前から立っていて、改築や使用予定もなく、ただ取り壊されない、木造のボロ屋。

 大した広さの敷地でないとはいえ、部室棟にしてしまうとか駐車場にするとか、立地は悪くないのだからいくらでも再利用の目途は立ちそうなものだけれど、隣に立つ新校舎を学び舎とする私たちの耳にすら、そんな話が届くことはない。

 だからここにはその理由となる何かがあるはず、となる。

 供養しきれなかった戦没者の霊が出るとか、かつて神降ろしに使われた儀式場だとか、NASAが隠している地球外生命体との接点だとか、その手の噂が後を絶たない。

 そんなはずはないのに。でもどうだろう、全部本当かも。

 流花ちゃんのローファーがカッとかかとを鳴らして、突き当りを曲がる。モデル体型の彼女に比べて歩幅の小さな私は少し足を速めて追いかけた。

 余り知られてはいないことだけれど、この旧校舎には住人がいる。

 住人という表現はいささか大仰おおぎょうにも思えるけれど、つまりはここを仕事場にしている人、ということだ。それは教師ではなく、もちろん生徒でもなく、管理人や事務の人でもない。

 司書、という肩書の不思議な人。

 開帝学園の図書室は新校舎の三階にあって、数万冊の蔵書をもつ立派な部屋だ。

 静かにしなければいけない場所というのは、どこに居てもにぎやかな学園の中では存外価値が高くて、ほとんどの人は自習室として利用している。私もその一人だ。週に三回は、放課後をその図書室の日の当たる窓際の席で過ごしている。

 にも拘わらず、だ。

 私はその図書室で、司書という存在に出会ったことがない。

 本の貸し出しや管理は図書委員会の当番の人が行っているし、掃除は各クラスが順番に担当する。カウンターの奥に図書準備室への扉があるけれど、何年も使用されてはいないらしく鍵も壊れて開かないんだとか。

 学校に司書がいることは、ちっとも不思議なことじゃない。

 けれど、司書が図書室にいないことは、やっぱり不思議に思えるよね。

 不自由な左目をかばいながら、視線を前方に向ける。

 長いだけの廊下。薄暗い天井。何もないはずの、旧校舎。

 ここに、いるらしい。

 誰にも言えない誰かの相談を、知っちゃいけない誰かの秘密を、聞くために。

「わ、」

 視界の端を何かが横切って、私は思わず後ずさる。私の発した声に驚いたようにそれは近くの教室に飛び込んだ。真っ黒な体は影に埋もれて、鈍く光る青緑の両目だけがこちらをのぞいている。どきどきした胸が少し痛い。

「いきなり飛び出してきて、驚いたのは私の方だよ黒猫ちゃん」

 当然だけど返事はない。少しなら、近づいてみてもいいだろうか。

 そう思うより早く、こちらを見つめていた二つの宝石は奥に消えてしまった。

 仕方ない、か。どうも私は昔から動物にうまく好かれない。

 向き直ると、流花ちゃんは壁に備え付けられた電話に受話器を置くところだった。建物中にいくつかある内線の一つだ。小さくカチャンと音を立てて、流花ちゃんが足を速める。

 追いつかなくちゃ、と駆け出したその時だった。


 ジリリリリリリ、ジリリリリリリ


 耳障りな音が頭の中をぐちゃぐちゃに搔きまわした。


 ジリリリリリリ、ジリリリリリリ


 金属同士のぶつかる不快な声が私を呼び止める。


 ジリッ、


 受話器を外した。少し迷った後で、耳に充てる。

 廊下の先を目で追ってみたけれど、流花ちゃんは角を曲がったらしくもう見当たらない。


「……もしもし、」

 自然と右手に力が入る。


「階段の先、四番目の扉に靴を脱いで入ってください。

 決して気づかれぬように」


 言葉が終わるのと同時、通話が切れたことが分かる。

 人の息遣いがしない冷たい沈黙に耐えられなくて、私はすぐに受話器を離して壁に戻した。

 階段はこの先だろうか。

 早まる鼓動とは反対に、足の動きが鈍くて重い。それでも踏み出して、廊下を進む。

 女性の声、だったように思う。冷たくはないけど、感情の見えない静かな声。

 聞き覚えはない、はずだ。けれど耳に残って離れない。

 ――決して気づかれぬように。

 そう言われた。

 ――決して気づかれぬように。

 誰にだろうか。

 階段に差し掛かると窓がなくなった。

 手すりを頼りに先の見えない暗がりを進む。一瞬でも躊躇ちゅうちょしたら、足が動かなくなってしまうような気がして、必死に足を持ち上げる。

 怖いわけじゃない。ただ、緊張はしているみたいだ。客観的きゃっかんてきに分析している自分が少し可笑しくて、気持ちがちょっぴり落ち着いた。せまい踊り場を折り返す。

 気が付いた。

 小さな気配が少し後ろをついてくる。

 振り返らない。それより、早く流花ちゃんに追いつきたかった。

 たぶんさっきの猫ちゃんだ。そうでしょ? にゃぁ。

 階段を登りきる。影の薄い廊下がまた続いている。

 けれどここは、さっきまでとは鏡合わせの逆の世界だ。

 窓は右手に、左には特別教室へ続く扉が並んでいる。

 どれも同じように見える扉だけれど、四番目、電話の声はそう言っていた。


 一つ。


 さきほどまでよりは軽い足取りで進みながら、通り過ぎた扉を数える。


 二つ。それから三つ。


 四番目、その前で立ち止まる。

 拍子抜けするほど何の変哲もない、ただの木造の古びた扉。

 だから別のものが目に入って、気になった。廊下の先。

「流花ちゃんもここに入ったはず、だよね」

 それなら、


 


 ぬるい風が這うように背後から迫って、小さな気配が私の足元に追いついた。

「ここでは、内緒の話をしてもいいって聞きました」

 あ、れ。

 隣から聞こえたのは流花ちゃんの声だ。

 私はソファに座っている。部屋の中にいるみたい。背の高い本棚に四方を囲まれた知らない部屋。

 歩いていたはずの廊下から、どうやってここまで来たんだっけ?

 記憶を辿ろうとしたけれど、うまく思い出せなくて空っぽの頭が混乱し始める。

 ここは……、えっと。

 あたりを確認しようとして失敗した。まるで金縛かなしばりにあったみたいに目が離せなかったからだ。机を挟んで向こうに座る、私をじっと見つめる眼鏡越しの鋭い視線から。

「司書の方、ですよね。旧校舎で会えるって聞いて」

水月みづきといいます。よく間違えられるのですが苗字です。司書の私でも抵抗がなければ、あるいは年上の私にその方が抵抗がないのであれば、どうぞ先生とお呼びください」

「水月……先生。私、1年B組の粕谷かすがい流花るかです。その、びっくりしちゃって。失礼ですけど、こんな辺鄙へんぴなところにいつもいるなんて、どんなお化けみたいな人なんだろうって思ってたんです。それがこんなに綺麗な人だから」

「流花さんは、お化けが怖いですか?」

「それは誰だって、怖いものじゃないですか」

 視線が少し、笑った気がした。水月先生がそこでようやく流花ちゃんの方へ向き直って、私は解放される。それまで呼吸するのを忘れていたみたいに、胸が苦しかった。自由になった首を右に振ると、黒髪を下した流花ちゃんが会話に興奮しているように少し前のめりな姿勢で座っている。私には目もくれないけど、まぁそういう子だ。

「ここは、なんの部屋なんですか?」

 私が考えていたことを、流花ちゃんが聞いた。

 一泊おいて、向かいの先生が答える。

蔵書室ぞうしょしつと呼んでいます。新校舎の図書室には入りきらない本や、古くなって入れ替わりになった本、破損して修理待ちのものなどが収められているんです」

「へぇ、初めて聞きました。薄暗くって雰囲気ふんいきがあるから、読んじゃいけない本とかもありそうですよね。禁書きんしょとかって言うのかな」

 棚の本を眺めながら言う流花ちゃんに、水月先生は答えない。含みがあるような、ないような。ようやく収まってきた心臓の音に安心しながら、首を振って私もあたりを見渡した。

 本棚と本、それにアンティーク調の家具が数点配置されている。学校の施設という雰囲気はなくて、水月先生の私室と言われた方が説得力があるようにも思えた。棚の本は古かったり汚れていたりして、確かに図書室にあるものとはおもむきが違うようだ。

 読んではいけない本があってもおかしくはなさそう。けれど私はそれより、棚に並べられた本と本の隙間が気になった。不規則に、無数に開けられたその空間は、部屋の暗さも相まって奥が覗けない。そんなの不思議でも何でもないはずなのに気になってしょうがないのは、まるで私たちの方こそ覗かれているような、そんな感覚が拭えないからかもしれない。

「あまり、眺めない方がいいですよ」

「え、」

「どんな本にも、人を狂わす魔力があります。特にここにある本は、ここにあることそのものに意味があるモノ。人の目に触れることに慣れていないのです。あまり、刺激しない方がいい」

「あ、すいません」

 流花ちゃんは謝ったけれど、私はうまく反応できなかった。言葉の意味が分からなかったからかもしれない。いや、分かったからかも。棚から目を離す。

「粕谷さん、本題に入りましょうか」

 肩にかけたカーディガンを羽織はおり直して、水月先生が流花ちゃんを促した。

 空気が変わる。息をのむ音が隣から聞こえた。

「今日のこと、あの、お昼休みのことです。どのくらい知っていますか?」

「誰でも知っている程度のことは、耳に入っています。けれど、どうか気にせず、粕谷さん自身の見たままをお話なさってください。知っていること、感じたこと、恐れていること」

「そう、ですか」

 流花ちゃんは目線を机に落とした。

 続く言葉を待つ、重い静寂せいじゃくが降りる。

紗香那さかなとはこの学校に入ってからの付き合いで、だからまだ半年……くらいなんですけど、親友みたいに思っていました。同じクラスで、同じ部活で、選択科目も同じものを取って。気が合うというよりは、気を使わなくても一緒にいられる姉妹みたいな、そんな感じで」

「素敵な出逢いだったのですね」

「そうなんです。高校での出逢いは一生ものって聞くけど、あぁこういうことを言うんだなって嬉しくて、毎日バカみたいなことを話すのが楽しくて、恋バナなんかもして浮かれちゃっていて、」

 だから、と続ける声が詰まる。

「ゆっくりで構いません」

「いえ……大丈夫です」

 流花ちゃんは、目元を乱暴に両手で拭って、けれど視線は落としたまま言葉をつむぐ。

「だから、気づかなかったんです。

 紗香那が屋上から身を投げ出すほど思い詰めていたなんて」

 流花ちゃんの手が震えているのが、隣にいる私からでも見て取れた。

 水月先生は静かに立ち上がると、部屋の中で唯一の窓に近づいて、重そうなカーテンを少しだけ寄せる。

「お昼は外の声が旧校舎のこの部屋まで届くほどの喧騒けんそうでした。当然のことだと思います。それなのに放課後の今も休校とすることなく部活動を始めている。生徒たちに広がっていた動揺どうようも収まっているようです。少し、この学校は人の死に慣れ過ぎてしまっているのかもしれませんね」

「でも私には他人事ひとごとじゃない!」

「わかっているつもりです」

 一瞬、水月先生がこちらに顔を向けた。窓かられる光で隠れたレンズの向こうで、何を考えているのかはわからない。

「話はそれだけじゃないんです。ここに来た理由。その、私怖くて」

「続けてください」

 こく、と流花ちゃんがうなずく。

「今日のお昼、私は三階の廊下を歩いていたんです。日直で、先生の所に届けなきゃいけないクラスのプリントがあったから家庭科準備室に向かっていました。天気がいいなぁなんて何気なく窓を眺めていて、それで……目が、合っちゃったんです」

「紗香那さんと?」

「そう……です。頭が下で、逆さまに落ちていく、紗香那と」

「どんな顔をしていましたか?」

「え?」

「表情も、うかがえたんじゃありませんか?」

「あぁ、一瞬だったので確かじゃないかもしれませんけど、多分驚いた顔をしていたと思います。きっと、あんな場面で私を見つけたから」

 頭を抱えるように額を抑えながら、続ける。

「持っていたプリントなんて全部投げ出して、すぐに階段を降りました。それでももう下には人だかりができていて、落ちた体が投げ出されていて、紗香那って叫びながら駆け寄ったんです。私はそれが紗香那だって知っていたから、だって落ちていくところを見たんです。そりゃ一瞬だったけど、私が親友を見間違えるはずないじゃないですか。だから名前を呼んで、抱きかかえて。それなのに……それなのに、他の誰にもそれが紗香那だってわからなかったんです」

「それは、なぜですか?」

 流花ちゃんが顔をあげた。


「……頭が、見当たらなかったから」


 小さな狂気が場を支配し始める。

「どこにもないんです。つぶれた風じゃなくって、だってぐちゃぐちゃに血は広がってたけど紗香那の体は形がなくなるほど壊れてなかったし、それに千切れたわけでもないんです。どこかに転がったのなら探せばすぐに見つかるはずなのに、どこにも、どこにもないんですよ? そんなはずないのに、確かに見たのに、まるで、」

 まるで、

「何か重い刃物で切られたみたいに断面が整っていたんです。屋上から落ちて、地面にぶつかって、どうしたらそんな風になっちゃうのかわからなくて。でもあれは、紗香那なんです。誰も、誰に言っても、わかってくれなかったけど、」

 パンっという軽い音が響いて、流花ちゃんの言葉が止まった。振り向くと水月さんが胸の前で手を合わせている。

「少し落ち着きましょう。必要以上にその時のことを思い出す必要はありません。記憶は思い出そうと努力をすればするほど書き換わり、事実と解離かいりしてしまう厄介やっかいな物ですから」

 整理をしましょうか、と。

「ここまでのお話が事実であったとして」

「私、嘘なんて言っていません!」

「もちろんそのつもりで聞いています。大事なのはそれらを踏まえて粕谷さん、あなたがなにに怯えているのかということです」

「だって、怖いじゃないですか。少し前まであったはずの紗香那の頭が見つからないなんて、なんだか……呪いみたいで」

 呪い。突飛とっぴな言葉が出てきて私は困惑する。

 だけど水月先生は顔色も変えない。

「呪いというのは、誰にとってのものでしょうか? 紗香那さんですか? それとも粕谷さん自身?」

「そ、そんなのわかりませんよ。ただ何となくそんな風に思っただけで」

 粕谷さん、と一拍前置いて、

「隠していることがありますね?」

 これまでの水月先生とは違う、鋭い声音で彼女はそう言った。

「隠しているというのは、言葉が意地悪過ぎたかもしれません。言い換えますが、まだ話していないことがありますね? それも意図的に避けていることです。あなたはお友達を失ってショックを受けているように見える。死に方が不審ふしんで気にしているようにも見える。けれどあなたはそのどちらも怖がってはいない。そこが確信なのでしょう。あなたが本当に恐れていることは何なのですか?」

「な、」

 流花ちゃんが驚いたように目を見開いた。

 私が初めてみる表情。困惑した顔で、言い訳を考える小さな子供みたいに目を泳がせている。失った言葉を探して、短い吐息だけが口から洩れた。

 心地よくない沈黙が、肌に触れる温度を少しずつ下げていく。

 ふと視線を感じて私は振り向いた。

 誰もいない。当たり前、だよね。隙間だらけの棚と斜めに傾いた本があるだけ。

 ぽつり、と。

「私、おまじないをしたんです」

 やがて観念かんねんしたように、ささやくくように、流花ちゃんが小さな声で語りだした。

「友達から教わった簡単なもの、なんです。紙に人型を書いて、その真ん中に……名前を書きました。紗香那の、です。それから体を横切るように数本の線を引いて、それで終わりっていうたったそれだけの、本当に簡単なおまじないなんですけど」

 ぞわっと、鳥肌が立つのを感じて私は右腕で肩を抱えた。

「願いを込めましたね?」

「……はい。その、紗香那は最近、私が憧れている先輩と仲が良くて。私の気持ち、紗香那は知ってたはずなのに。だからちょっと意地悪をしたいって軽い気持ちだったんです。二人の仲がこじれたらいいなって思って。こんな、こんな大事になるなんて考えてなくて、ましてや死んじゃうなんて」

「願っていなかった?」

「当り前じゃないですか! 親友だったんです。姉妹みたいに思ってたんですよ!」

 そうですか、とだけ淡白に答えて水月先生が目を瞑る。

 やがてゆっくりと、はじめと同じ穏やかな口調で話し始めた。

「粕谷さんの懸念していることはわかりました。あなたは自身の行ったそのおまじないが、親友を殺してしまったのではないかと怯えているのですね」

 安心してください、と。

「この蔵書室には、いくつか呪いを扱うものが存在します。それらによれば、呪いは大きく二つの構成要素を持ちます。一つは『目的もくてき』、もう一つは『犠牲ぎせい』です。呪いによる効果は加害者の意図を超えることはなく、また大きな目的には相応の犠牲が必要になります。儀式の形式はほとんど影響しません。つまり、粕谷さんの行ったその行為が逆巻さんの死に関係しているとは考えにくいです」

「そう、ですか」

 流花ちゃんがほっとした顔を見せる。

「例えばどんな犠牲を払っていたら、人を殺せてしまうんですか? 命を奪うんだから、相応っていったら別の命、とか?」

「そうなれば払う対価が大きすぎて誰も呪いなど扱わなくなるでしょうね。しかし現実はそこまで優しくはないのです。大抵は切り落とした指が使用されることが多い」

「指、ですか。それじゃあ一人で十人を呪い殺すこともできちゃいますね。あ、足もいれたらもっとか」

「それは自分で体の一部を切り落としたことのない人間の意見でしょう。簡単なことではありません。人によっては、それができずに望みを諦めてしまうこともある。試してみますか?」

「いや、そんな、冗談ですよね?」

「えぇ、冗談です」

 怯えた顔の流花ちゃんに、水月先生は口元だけで笑って見せた。

「ときに、おまじないをあなたに教えた人物を教えていただけませんか? 確かご友人でしたか」

「え、……あ」

「その方をどうこうというわけではないのです。ですから、口にしたくなければ無理にとは」

「そういうんじゃないんです。ちょっとおかしなことに聞こえるかもしれないんですけど、私実はあの子の名前知らないんです。聞いたんですけど……『ヒミツだよ』ってはぐらかされちゃって」

 流花ちゃんの名前の知らない友達。記憶のどこかに眠っているのかもしれないけれど、私は聞いた覚えがなかった。当然、名前なんてわかるはずもない。

「結構です。その程度のおまじないなら、あまり気にすることもないでしょう」

 ただ、と水月先生は続ける。

「簡単なものでも、ちいさなものでも、その手の儀式にはできるだけ触れないようにしてください。それにより願いが叶うほど、あるいは叶わぬほど、人は見境を失って呑まれていく。底へ底へと沈んでしまう。怖いのは決して呪いそのものや、それによって起こる現象ではありません。自身の苦痛を伴う犠牲を払ってでも、人を不幸に落としたいと願ってしまう『人』の方なのです」

 水月先生が立ち上がり、すぅっと歩いて扉に手をかけた。カラカラと小さな音を立てて扉が横に開く。

「会話はここまでにしましょう。これ以上遅くなると帰りの道が真っ暗になってしまいますから」

 いつの間にかカーテンの隙間すきまから差し込む光が小さく、か弱くなっていた。

 夜が来る。来た道を考えるとそれは確かに恐ろしいことだった。

 隣の流花ちゃんが立ち上がって、一度深くお辞儀じぎをする。

「遅くまですいませんでした。でも、話せてよかった。紗香那のことはショックが大きいけど、私のことは関係なくて、それなら純粋に悲しむことができるから」

 失礼しますと断って、扉の向こうへ消えていく。

 私も駆け足で後に続いた。暗い廊下をもう一人で歩きたくない。

「失礼しま――」

 扉の手前で、右腕を掴まれた。

「きゃ、」

 硬く、冷たい手。まるで人の物とは思えないその感触に本能が悲鳴を上げる。

 振り返った。私を掴んだ腕の先では、表情のない水月先生の顔がじっと私を見つめている。

 後ろでカラカラと、扉の閉まる音がした。

「もうあなたは粕谷さんを追いかける必要はありません。守ろうとすることはないのです」

「で、でも」

「優しいのですね。しかし彼女は」流花ちゃんは「もう手遅れですから」

 掴んだままの腕を引かれ、強くはない力で誘導ゆうどうされた。さっきと同じソファのさっきとは違う隣の席。流花ちゃんが座っていたところ。

「しかし疲れました。会話をするのに気を遣う相手というのはいくらかいますが、彼女はその典型でしたね。巧妙こうみょうではないけれど狡猾こうかつで、話す言葉の半分が嘘でできている」

 水月先生は対面に座って、既視感きしかんのある動作でカーディガンを羽織直した。


? 逆巻さかまき紗香那さかな


 私は口調が同じまま態度を変えた水月先生にどう反応していいのかわからなくて、言葉を慎重しんちょうに選んだ。質問には答えない、多分相手もそれを望んではいないから。

「私、やっぱり死んじゃったんですか?」

「難しい質問です。しかし順を追って物語を辿たどっていけば、いずれわかることになるはずです。物語という言葉ではいささか美しすぎるかもしれませんね。この場合は『奇譚きたん』と言い換えてもいい」

 不吉と不安が渦巻いて、胸を圧迫するほど膨れ上がっていた。

 奇譚。それは現代において、怪談かいだんとほぼ同じモノを意味する言葉。

 本当に怖いことなんてそうそう起こらない。

 そう思ってはいても、流花ちゃんが心配でたまらなかった。

「答え合わせをしましょう」

 水月先生はそんな私の感情を全て見通して、まるでゲームでも楽しむようにそう言った。

「こたえ、あわせ?」

「そう。まずは……そうですね、ずっと気になっていたことから」

 水月先生の目は、笑わない。


「粕谷流花さん、彼女最近髪形を変えませんでしたか?」

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