デイドリーム・ビリーヴァー
日野原 爽
プロローグ
「人生の定期航路におさらばした連中だね」
と、正志は言った。
僕の頭の中に、水平線の彼方に小さくなっていく、白い大きな船の姿が浮かぶ。見送る僕は冷たい水の中、必死に手を振り、助けてくれと大声で叫ぶのだが、無情な船はどんどん、どんどん、どんどん遠ざかっていく。僕を広い大洋のどことも知れない一点に残して。やがて、力尽きた口中に塩辛い水が侵入してくる。
僕は恐ろしく心細くなって、弱々しく抗議の声をあげた。「それはひどいよ。レールからはずれるって言った人はいるけど」
「同じことさ」
正志はきっぱりと断定した。「シベリア横断鉄道からはずれてみろよ。シベリアの夜は氷点下四十度だぞ」
「凍死するね」
「地面が凍りついてて墓も掘れない」
シベリアの荒野にさらされた、哀れな自分の骨を想像した。
「そうなりたいか」
正志の声には死刑宣告を下す裁判官の冷厳がある。
「もちろん、いやだよ」
野ざらしなんて。
「ならば、この会社、絶対に受かるんだ。この仕事は俺のものだ、誰にも渡さない。その意気込みでいけ」
正志は体育会系だ。僕はいつも、鬼監督に呼び出された新入部員のように、首うなだれてやつの説教を聞くはめになる。
「今の世の中、非正規は人間じゃない。ひとなみに暮らしたかったら何がなんでも正社員の地位を手に入れろ。邪魔な奴は蹴り飛ばせ」
「そんな無茶な……」
「無茶じゃない。おっとり構えて暮らせるほど、世の中甘くないんだ。お前はずっと世間をなめてきた。ここらで死にもの狂いにならないと、末は……」
「わかってるよ」世間の塩辛さは。
「しっかりやってこい」
「でも、どうだろ。ハローワークでも、採用枠は一人なのに、もう五十人以上が応募してるって言ってたし、競争きつそう」
「じれったいなあ、お前は。それよこせ」
正志は僕から履歴書と職務経歴書の入った封筒をひったくると、家の奥に向かった。築四十数年。昭和に建てられた家は、ちまちました小部屋が無駄に多く、今時、和室の四畳半がある。薄暗くかび臭いその部屋には、祖父母の位牌を収めた、趣味の悪い金ぴかの仏壇が置いてある。正志は封筒を仏壇にお供えして、ちん、とリンを鳴らした。
「おじいちゃん、おばあちゃん。登はこれから、大事な就職試験に臨みます。登がめでたく合格して、正社員になれるように、どうぞ見守ってやって下さい」
再び、ちん、とリンを鳴らし、ぱんぱんとかしわ手を打って、手を合わせた。
「ほら、お前もちゃんとお願いしろ。本人なんだから」
言われてしょうがなしに、僕は手を合わせ、「よろしくお願いします」とつぶやいて頭を下げた。この際、わらでも神仏でもご先祖様でも、すがりたい気分には違いなかった。
「これで大丈夫。お前きっと受かるよ。そしたらみんなで祝杯あげようぜ」
正志は封筒を僕に返して、にこにこした。
「だといいけど……」
僕はあやふやに言った。
「なんだよ」
体育会系のこの言葉には、文句あるのか、という脅迫が潜んでいる。
「かしわ手って、神様にするものじゃなかったっけ。仏様にするのは変だよ」
僕は純粋培養の文系だ。この手の無用の知識だけは豊富に持ち合わせている。
「いいんだよ、そんなこと。孫なんだから、ゆるしてくれるよ」
体育会系は身内の寛容には絶対の自信をもっている。従兄というのは、DNAの八分の一を共有している計算になるそうだが、僕はかねがね、正志と僕との共有率はゼロに近いんじゃないかと疑っている。言葉にしたことはない。家庭争議の基になる。
「祝杯ってのは本気だからな。『うまい屋』の特製スモークサーモン、おごってやるよ」
「本当?」
「お祝いだからな」
悪い奴じゃないんだ。
「聡美も呼ぼうぜ」
前言撤回。
妹の聡美は、短大を出た後、市役所に勤めてる。子供の頃から僕とは気が合わない。第一、妹のくせに兄貴を呼び捨てにするのが気に食わない。「登、年を考えなさいよ。ボヘミアンなんて、社会に順応できない落ちこぼれよ」「適性なんてどうでもいいの。真面目に働いて、社会に貢献できる人材が、今、求められているのよ」
常に正論を吐く奴で、長く一緒にいると、某新聞を一週間分、一気読みしたような気になる。
履歴書を郵送して二週間後、書類審査合格、面接の知らせが来た。仏壇の奥のご先祖様に報告しながら、僕は、かしわ手のバチが当たったんじゃないかと真剣に疑っている。
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