第28話 和解

「あんたさ、トイレの個室にいる時に汚水をかけられて笑われたことある? 弁当の中にゴキブリを仕込まれたことは? みんなの前で卑猥な悪口を言われたことは? 制服を切り刻まれたことは? 埃臭い体育倉庫に閉じ込められて長時間放置されたことは? 毎朝ビクビクしながら靴箱を開ける気持ちは?」




 淡々と那月は言う。


 伊織は言葉に詰まり、何も言えなかった。




「ないよね? その時私がどんな惨めな気持ちになったか、分かる? 分からないよね? あんたたちは楽しそうに笑ってたもんね。あの最低な気持ちが理解できるなら、絶対に笑えないものね!」




 那月は声を荒げた。


 そして、伊織の胸倉をつかんで、睨みつけた。




「あんたが何者なのか、教えてあげる。人の気持ちを理解できない人間もどきの畜生ごとき。何かの間違いで人間の姿かたちで生まれちゃって、本当に哀れ! 私はあんたと違って出来た人間だから、あんたみたいな人間未満のゴミクズにアドバイスしてあげる」




 憎しみの宿った那月の眼差しを受けて、伊織の全身は震えている。




「お前はこれから一生、自分が人間じゃないと自覚して行動しろ。ほんの少しでも気を抜けば、どうせろくでもない犯罪に加担して、警察のお世話になるに決まってる。そんな税金の無駄遣いは許せないから、せいぜいぼろが出ないように気をつけろっ!」




 今にも泣きだしてしまいそうな表情の伊織を乱暴に突き放し、嘲笑を浮かべた那月が続けて言う。




「……さっきも言ったけど、あんたにされたことを気にしていないのは本当よ。あんたみたいな人間じゃないゴミクズがやったことを一々気にするだけ、時間の無駄だから」




 伊織は両手で顔を覆う。


 せめて涙は見せたくなかったのかもしれない。




「だから、もう私の前から消えてくれる?」




 那月はそう言って、伊織を睨みつけた。


 伊織は一言。




「……本当にごめんなさい」




 と呟いてから、屋上から出て行った。


 俺は伊織の背と、無表情の那月を交互に見る。




 ……那月には、一人で落ち着く時間も必要だろう。


 そう判断して、俺は伊織を追った。




 屋上を出ると、蹲ってすすり泣いている伊織がいた。




「伊織、大丈夫か……?」




 しゃがみこんで、俺は伊織に問いかける。




「最低だねっ、あっきー」




 俺の声に、伊織は冷たい声で答える。




「なんでトワの方に来たの? 平気そうに見えても、それは本心じゃないって知ってるでしょ? トワよりずっと那月の方が辛いんだから、あっちについてなきゃダメじゃん……」




 伊織は嗚咽を漏らしながらも、そう言った。


 自分だって辛いのに、それでも伊織はそう言ったのだ。




 ……彼女の言う通りだ。


 那月はただ怒っていたわけじゃないのは、十分に分かっていたのに。


 俺は那月と向き合うのが怖くて、伊織を言い訳に逃げてきただけだ。




「俺も、那月に謝ってくる。……ありがとう、伊織」




「早く行ってあげなよ」




 伊織は俺を見ることもなく、そう言った。


 肩を叩いて励まして、「よくやったよ」と言ってあげたい。


 でもそれをすればきっと、俺は伊織に本当に軽蔑をされてしまうだろう。


 俺はもう一度、扉を開いて屋上へと踏み入った。




 俺は肩を落として立ち尽くす那月に、声を掛ける。




「俺も、那月に謝りたいことがある」




「あいつをここに連れてきたこと? それなら別に良いよ、すっきりしたし」




「そうじゃない、俺自身が謝りたいことなんだ」




「……自己満足の謝罪の言葉は、聞きたくない」




 那月はそう言って、縋るように俺を見てきた。


 これ以上、彼女を追い詰めるべきではない。




 そう、確かに思う。


 だけどこれは、本当に彼女を思ってのことなのか?


 俺はまた、彼女と向き合うのを逃げようとしているだけなんじゃないか?




「……ずっと那月が辛くて、惨めな気持ちになっていた時に、俺は気づいていたのに見て見ぬふりして、他の奴らと一緒に笑っていた。自分の手を汚すことなく、安全圏から高みの見物。人の気持ちを考えることのできない、本物のクズだった。……本当にごめんなさい」




 那月を救うと決めたのに。


 人の気持ちを決めつけて、分かったつもりになって、結局何もできなかった。


 いくら年齢を重ねても、いくら高校生活を繰り返しても、俺は無能なグズなんだ。




「あんたは……他の奴らと違うから!」




 那月は首を振って、俺の言葉を否定した。




「そうだ、俺は他の連中と違う。那月を傷つけてきたのに、まるで自分は改心しましたって顔をして、まともな謝罪もしないまま、お前の隣に居座った……誰よりも最低なクズだ」




「だったら!」




 俺の言葉を聞いた那月は、泣きそうな表情で叫んだ。




「……本気で悪いと思ってるなら。ここから飛び降りてくれる?」




 初めてここで話したあの日の繰り返しのように、那月は手摺りの向こう側を指さし、俺に言った。


 だけど今は、あの時とは違う。




「那月が本当に俺に死んでほしいなら、俺は死ぬ」




 俺は前回のループで、一線を越えた。


 痛みと苦しみと恐怖を、俺はきっともう一度乗り越え、この手で自らの人生を終わらせることが出来ると思う。


 ……当てつけのように今宵の前で死んだのに比べれば、よほど上等な死だ。




「だけど、少しでも俺が生きることを許してくれるのなら。那月を残して、俺は死ねない。……俺は、那月と一緒に生きたいから。ここから飛び降りることは、出来ない」




 俺の言葉を聞いた那月は、俺のジャージの裾を掴んで、その場に崩れ落ちる。


 しゃがみこんで、彼女の表情を覗き込んだ。




「あんたには……あんたにだけは。私がこんなに酷い人間だって、知られたくなかったのに」




 那月は、泣きそうな声で、諦観を浮かべて呟いた。




「あいつが勇気を出して私に謝りに来たのは、分かってる。それでも、あいつの全部を踏みにじらなきゃ気が済まない私のほうが……よっぽど人間じゃないよ」




 懺悔するように、那月は自らの感情を吐露した。


 ……それが懺悔であるならば、彼女は誰に許しを乞うているのだろう?




「人間だよ」




 俺は神でも仏でもない、ただの……いや、人一倍愚かな人間だ。


 だからこそ、俺は彼女の罪も愚かさも、全てを許せる。




「嘘を吐くし、人を傷つけるし、他人の気持ちが分かっても、自分の感情を優先させて他人も自分も傷つける。俺も、那月も……どうしようもなく、どうしようもない人間だ」




 俺や那月がこの先、他者に優しい人間になれるかは分からない。


 那月はこれまで、あまりにも人を遠ざけ過ぎた。


 それが自分を守るために仕方なかったとはいえ、今のままのコミュニケーション能力では、この先もっと苦労することだろう。


 このまま社会に出れば、近い将来必ず躓く。




 躓いて、転んで蹲った時。


 俺は彼女の傍らで寄り添うことはできるのだろうか。




「何それ、最悪」




 俺の言葉を聞いて、那月は呆れたように、微かに笑った。


 立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。


 那月は俺の手を掴んで、立ち上がった。




 那月はまだ、落ち込んでいる様子だった。


 俺は、彼女に言う。




「明日、一緒に文化祭を回らないか?」




 那月は一度俺を見て、それから弱々しく微笑んだ。




「やだ」




「そう……か」




 俺は一言で応じる。


 前回は、俺の誘いに応じてくれたのに、今回は断られたということは……心を閉ざされたということだろうか?


 俺がそう憂慮してたところ、那月は続けて言った。




「私、あのギャルに言い過ぎた。でも、私からは絶対に謝れないから……あんたがあいつを文化祭に誘って、元気づけてあげて」




「……俺は、那月と一緒にいたい」




 俺の言葉に、彼女は困惑を浮かべてから、照れ隠しのようにわずかに笑う。




「お願い」




「……分かった。その代わりに、こっちからもお願いがある」




「あんたは私にお願いできる立場なわけ?」




 苦笑を浮かべて、那月は俺に言う。


 できる立場ではないと即答できるが、俺は構わず彼女に言う。




「少し先の話だけど。クリスマスイブの日、一緒にどこか行こう」




 俺の言葉を聞いて、那月は呆れたようにため息を吐いた。




「クリスマスイブ? 良い? 私たちは受験生なんだから、そんなイベントなんて関係なく、勉強しなくちゃいけないの! 受験前の最後の追い込み、一日だって無駄に出来ないの!」




 那月は俺の胸を人差し指で小突きながら言う。 


 クリスマスイブも、ダメだったか……と気落ちをしそうな俺に、彼女は続けて言う。




「だからその日は……ちゃんと、勉強してから出かけることにするわよ。それで、良いわよね?」




 照れ臭そうに、那月は俯いていた。




「うん、楽しみにしてる」




 俺の言葉を聞いて、那月は顔を上げた。




「私も、楽しみよ」




 那月はそう言って、クスリと微笑んだ。

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