紅物語
静沢清司
紅い糸
第1話 白河紅子編~紅い糸~
遠い記憶を見た。
ある少女と、追いかけっこをする
ある少女を、たすけたときの
ある少女から、言葉をもらったときの
そして──ある少女と、けっこんのやくそくをしたときの
一章 許嫁
「
母親に呼ばれ、俺は二階の自室をあとにし、階段を降りていった。
母はリビングにいるはずだ。だから俺はリビングへ入ったわけなのだが……。
すると父がテーブルの席に座っていた。
気持ち悪いぐらいに唇をつり上げて、笑顔を浮かべている。
俺を呼んでいたはずの母は台所で包丁を握っている。まな板の上にキャベツを置いてそれをみじん切りにしているところだ。
つまり、晩ごはんができたとかそういうことじゃないってこと。
なんだろう……嫌な予感がするんだけど。
「隆之、ここに座りなさい」
親父は、自分とは反対側の席を指さして言った。
俺はとりあえずおとなしくそれに従った。
「実はな──」
「あー、いや。俺さ、ちょっと用があったわ。親父、その話はまた今度に……」
「だめだ。たとえなんであろうとオマエには話を聞いてもらうんだ」
全く似合わない柔らかい笑顔を浮かべていても、性根は相変わらず頑固な人らしい。
「……わかったよ。聞くよちゃんと。それで、話ってどんな?」
「白河宗助──オマエ風に言うなら、ソウ爺なんだが」
「ああ」
覚えている。まあ爺と言うほどそこまで老いてはいないけど。あの人は親父と違って、なんなら誰よりも柔らかい満面の笑みが似合う優しい人だ。
親父によれば、家では親父よりも厳しいらしいけれど、とてもそんな話は信じられない。
「でも、もう一か月前に他界したんだろ?」
五十代手前で亡くなったのだ。
原因は衰弱死。もともと体の弱い人で、しょっちゅう貧血と吐血をしていた。俺もそれを目の前にして、今では血を見ると若干頭がくらくらするほどにトラウマになっている。
「あいつの遺言というか、昔交わした約束でな。ソウ爺はお前をすごく気に入っていて、ぜひうちの娘と結婚させたいと言っていたんだ」
なんだそりゃ……。
「それでそこで俺は言ったんだ。『宗助。俺もお前の娘のことは気に入っている。当然俺も、そう思っていたんだ』とな」
マジかよ嫌な予感的中したぞ。
「それで?」
おそるおそる俺は訊ねてみた。
「俺はこう言ったのさ。『よし。うちの息子を入り婿としてそちらに寄こそう』と」
「はあ!?」
俺は身を乗り出して言った。
どこまでこの親父は自分勝手なんだ、と俺は胸中で言った。
「あいつの最後の願いなんだ。宗助はもともと、人に頼み事をする奴じゃなくてな。そのあいつが珍しく俺に言ったんだ。だから、叶えてやりたいと思ってつい、な」
親父……。
ずるい。それはずるいぞ、親父。
たしかにソウ爺は誰かを頼ったり、何かをお願いしたりすることはない。自分でなんでも解決する人だ。そのため、自分ひとりでなんでも抱え込むことがある。
親父とソウ爺は幼馴染だという。親父もきっとそのことをわかっている。だからこそ、親父はどうしてもソウ爺の願いを叶えたいのだろう。
だとしても、だ。
それはつまり、白河家の娘と結婚させられるということ。もう決定事項だということだ。
俺だって、ソウ爺の願いは叶えてやりたい。それは親父と同じ気持ちなのだが……。
「結婚となると、ハードル高いな……」
「ああ、わかっている。でも頼む!」
親父は席から尻を離して、床に膝をつけて正座をする。
そして頭を床にこすりつけて……。
土下座だ。父親が、息子に対して頭を下げている。
明らかな立場の違和感に、俺は戸惑いを隠せずにいた。
「あ、ちょやめてくれ親父。頭を上げてくれ」
「そ、それはつまり……俺の頼みを聞いてくれるということか?」
「ううん、いやそれは、」
「頼む!」
「うわっ! ちょ、だから頭上げろって!」
それから親父の見事な土下座と奮闘すること十分。
俺はもうやけくそになって、承諾してしまった。
「ありがとう……ありがとう……ありがとう……!」
親父は涙を流して感謝の言葉をくりかえしている。
こんな姿は初めてだ。
「……はぁ……」
そして明日にはもう引っ越すことになっていて、夜遅く(二十二時)から荷造りをしている。朝にはもう俺の荷物は引っ越し業者が向こうへ運んでくれる。
明日は月曜日。学校だ。俺はとりあえず学校に行って、放課後に屋敷へ向かうこととなるのだ。
「はぁ……相手って、どんな人なんだろう」
仕方なく承諾してしまったが、予想通り、不安が胸につのってしまう。
相手がどんな人なのか、屋敷で迷わないかとか、きっと屋敷内ではマナーとか礼儀作法とか厳しいんだろうなあ、とか。
まあせめて。
相手が美人だったらいいなあ、とは思うのだ。
翌日。
朝の七時。学校での必要なものの準備はした。
引っ越しの荷物はもうあっちに届いたところだろうか?
母がアイロンをかけてくれたシャツを、噛み締めるように着る。
もうこれで母とも最後になる。
いや、もちろんそうとは限らない。
いつだって会おうと思えば会える。
けど、こうして振りかえってみると母には感謝するべきことがたくさんだ、と少し後悔していた。
恩返しなんて、あまりしてこなかったからだろう。
「一人分席が空くから、けっこうさみしくなっちゃうね」
母は少しさみしそうな、か細い声でつぶやく。
泣いているんじゃないか、と心配して何度も母の顔をちらりと見てしまう。だが実際のところ、泣いている様子など見られない。
たださみしそうな微笑みだけが、そこにあった。
「母さん。今までありがとね」
一言だけじゃ足りないほど、俺は世話になった。
今までは些細なことで口喧嘩をくりかえして、父が仲介役になることが多々あった。それでもそんなことでさえ、母との想い出なのだと思える。
「何言ってるの。別に会えないわけじゃないんだから。恋しくなったら、いつでもいらっしゃい。なんならお嫁さん連れてきてもいいわよ?」
といたずらに笑ってみせる母。
もう、と俺はつぶやく。でも、案外まんざらでもない自分がいることに気づいて、くすりと笑ってしまう。
そして朝食を食べ終えた。
「ごちそうさま」
「おいしかった?」
「うん、おいしかったよ」
「そう、朝から手間かけて作ったからね」
「はは、別にいつも通りでもいいのに」
俺は皿を洗って、食器棚に水滴を拭いた皿を収納する。
タオルで手を拭いて、テーブル横にある通学かばんを手で持って、リビングをあとにする。母もその後ろをついてきた。
「それじゃ、気をつけていってらっしゃいね」
「行ってきます」
それで俺は母に背中を向けて、玄関を開けようとしたとき──。
「ちょっと隆之、体調は大丈夫? ハンカチとティッシュは? あと──」
「もう。大丈夫だってば」
相変わらずの母なのに、それがどうもおかしくて、俺は笑って言った。その直後、今度こそ俺は玄関を開けて、外に出た。
「がんばってね」
そう言う母の声が、今までに聞いたことがないくらいに優しいものだった。それはもう、気を抜けば泣き崩れてしまうほどに。
俺は
うちは人並みよりは家はでかい。それに家の横には立派な道場がある。
真堂流だとかなんとか言って、カンフー紛いの格闘術をその道場で教えている。
それだけ聞くと門下生など一人もいないか、一人か二人ぐらいはいるか、のように思うかもしれない。
しかし、その数は多い。俺も親父にはよく習っていた。ちなみにうちの高校にもうちの親父にしごかれている奴はいる。
並木町。俺が住まう、東京都……ではなくそのとなりの県にある地方都市だ。
そこに二流の進学校がある。並木高校。そこが俺が通う学校だ。
ちなみに引っ越すには引っ越すが、通う学校までは変わらないらしい。そこが唯一の救いだ。
これで一日中、英才教育だのなんだのを受けるとなったら、おそらく抜け出すことが多々あるだろう。
「ま、親父によればある程度の特別教育はあるらしいけど……」
ここで小さなため息一つ。
ため息の一つや二つつかなきゃやってられない。それが今、俺が置かれている状況だ。
でも、今さら家に戻れない。
正直言えば戻りたいが、ソウ爺の最期の願いだ。なにより親父が、あの岩石みたいに硬い頭を床にこすりつけてまで頼んできた。
まったく……こんなの、承諾せざるをえないじゃないか。
……学校に着いた。
元の家から学校まではおよそ十五分で着く。
だが親父によれば、白河の屋敷から学校まではおよそ三十分。元の二倍だ。十五分だけでも退屈だってのに、それが二倍となると先が思いやられるのだ。
「お、よう隆之」
正門。
そこで会ったのが高校入学からの付き合いである、中村祐介だ。サッカー部のキャプテンで、頭もまあまあ良いし、それなりにはモテる。
見た目はさわやか系のさらりとした茶髪。鼻も高い。若干童顔なのがウリらしい。
「おはよ、中村」
いつも通り、右手をあげて、あいさつをする。
「なんか、お前涙目じゃね? どしたん?」
「いや、なんでもないよ」
「ああ、そう。なにか困ったことがあるんなら、いつでも相談しろよ?」
「ああ、ありがと」
この通り、すごく優しい。これもウリ、なのだそうだ。
正門を抜け、靴箱に向かう。
「ところで先週の中間テスト、どうだった?」
「いや、まあまあなんじゃない?」
俺は曖昧に答える。
「まあまあって……便利だよなぁ、その言葉」
まあ確かに便利だ。答えに困ったとき、だいたいこれを言えば会話は成立する。
「てか、隆之。いつも、そんな曖昧な言葉言わねえか?」
そう言われればたしかにそうかもしれない、と俺は思った。
「そうだっけ?」
靴箱に着いて、いつもの場所から靴と上靴を交換する。
「そうなんだよ。まあ別に否定するわけじゃないんだけどな」
でもそれは、中村が気にすることだろうか。いや別に迷惑だとか、そういう話ではないんだけれど。
「いや、俺は別に誰かと話すのが面倒だとか、嫌いだとかそういうわけじゃないんだ。ただ──」
俺たちは上靴を履いて、中央階段を上り、二階に向かう。
「ただ?」
一階に上がり、そのまま二階へ上る。
「どうすればいいのか、わかんなくなるから、かな」
二階に着いて、突き当りを右に曲がるとすぐに二年三組の教室にたどり着ける。
「……」
「おい、そこで黙るなよ」
「いやまあ、なんだそりゃって思ってな」
教室に入り、自分の席に向かう。ちなみに俺の席は窓側のはじっこで、俺のとなりが中村である。
「それこそ、なんだそりゃ、だよ」
自分の席に座って、かばんから教科書やノートを出して、机の引き出しに入れる。
「ま、いいんじゃね。なんていうか、お前らしいや」
「あっそ」
「てか、もうホームルーム始まるな」
「え」
そうだった。いつも通りの時間に出ると、けっこうぎりぎりになる。
となると出る時間をもう少し早くしなくちゃいけないな。
「はぁ……」
ここでため息一つ。俺、ため息をつくことはあまりないというのに。
そして始まりのチャイムが鳴った。
三時間目の国語の途中。
俺は窓の向こうの校庭を見ながら、これから世話になる白河家のことを、考えていた。
そういえば俺は、一度白河の屋敷に招待されたことがある。
本当に親父とソウ爺は仲がいいもんで、しょっちゅう二人で屋敷の食堂で食事したことがあるらしい。
それでいつの日か、ソウ爺は
そのときは、こんな広い家があるんだと思わず心が揺れ動いてしまったものだ。童心ながら、あちこち行ってはひょっこり戻ってきたのだ。
ずっとそんな調子だから親父に怒られることもあった。まあそのときは、場所が場所なだけに声の大きさは控え目だったが。
ああ、思い出した。
まったく。なんでそんな大事なことを忘れていたんだよ、俺は。
ちょうどその時にはもう、ソウ爺の娘に会っていたじゃないか。名前は
なつかしい、なんて思ってしまった。
まあ、どうせあとで会えるんだ。こんなことを考えるのはやめよう。そう思い、俺は視線を黒板に戻した。
「じゃあ、真堂。続き読め」
「え?」
やべ。授業、全然聞いてなかった……。
昼休み。
四時間目の体育を終えて、くたくたの体をイスの背もたれに預け、ぐったりとしていた。
「はぁ……疲れたぁ」
俺がつぶやくと、となりの中村が言ってきた。
「いやオマエ、疲れてるようには見えねえぞ?」
「いやそんなことない。めっちゃ疲れてるぞ」
「嘘つけ。いくら何周走っても汗もあんまかいてないし、息だって全然乱れてないし。なにより、走ったあとだってのに涼しい顔してたじゃねえか」
言ってしまえば運動はそこまで嫌いじゃないし、どっちかと言えば得意だ。仮にも親父にしごかれていた身だ。嫌でも運動に耐性はついてしまう。
まあ、そもそも俺から親父に習いたいと言い出したわけなんだが。
「まあいいや。それよりオマエ、弁当?」
「いや、違うけど」
「え、珍しいな。いつもおばさんが作ってくれるだろ」
「まあ、今日は特別だからな」
実際のところ、母も作ってあげると言っていたのだが、さすがにそこまで手間はかけさせられないと俺が遠慮したのだ。
いつも作ってもらっていたくせに、とは思うが、その代わりに朝食のほうを力入れて作ってほしいと言った。
「そっか。ならいいか。なあ隆之。食堂で食べない?」
「うん、いいよ。俺も食堂で食べるつもりだったし」
俺たちは席から立ち上がり、教室から出て、食堂へ向かった。
そして食堂へ着き、そこで食券を買って、食堂のおばちゃんに渡した。それから少し待つと、俺が頼んだカレーがやっと来た。
「はい、お待ち」
「ありがとうございます」
と言って、俺はカレーを受け取って、あらかじめ中村が確保していた席に座る。
「おお、カレーか」と中村は言った。
「まあ定番だし。安いし。安定でおいしいし」
そう言って、俺はスプーンですくったカレーをぱくりと口に入れる。
「つか、お前とこうやってメシ食べるの久しぶりじゃないか」
「そうだっけ」
たしかに言われてみればそうかも。前に一緒に食べたのが先週の月曜。珍しく中村が弁当を持ってきたということで一緒に食べたのだ。あれからまるまる一週間経っている。
ちなみに中村が食べているものはきつねうどんだ。
「メシの時に言うのもアレだけどよ。ついに四人目らしいぜ?」
「四人目って、なにが?」
「いやほら。話題になってるだろ? 失踪事件だよ」
「はい?」
俺は首をかしげた。
「連続失踪事件だよ。その四人目がうちの高校なんだってさ」
「そうなのか?」
俺はそういって、スプーンですくったカレーを口に入れた。
「ああ。だから職員会議が長引いたんだよ」
へえ、と俺はから返事をした。
「うっすいなあ、反応。もうちっと面白い反応できねえのか」
「いやこう見えて驚いているよ。けっこう気になる話題だし」俺は首を左右に振りながらいった。
「あっそう。まあいい。でもよ、気になってたことがあるんだが」
中村は俺の顔をのぞきこんでいった。
「なに?」
カレーをすくうスプーンの動作を止めて、中村と視線をあわせた。
「オマエ、ずっと窓の外を見てただろ? 隆之って基本、考え事をするとしても黒板の方向をずっと見てるし。珍しいなと思ったんだけどよ」
「……そうだっけ」
俺は少し小さな声でつぶやいた。カレーを口に入れる。
「そうだよ。覚えてないのか? ほら、先生にあてられて結局話聞いてなくて、注意されたやつ」
「ああ、それか」俺はわずかに顔を縦に振ってつぶやく。「実は引っ越すことになってさ。それで……引っ越し先のことを考えていたんだ」
「引っ越す……?」
どのあたりだ? と中村はまぶたを大きく開けて言った。
「白河の屋敷」
「へ? なんでそんな他人の家に?」
「一身上の都合でね」
「またそれかよ」
中村は毒づくようにして、そういった。
俺はこういった込み入った事情を話したくないときに、この「一身上の都合」という単語を愛用する。この一言で込み入った事情があるのだなと察することができるからだ。
「まあいいや」
中村は一つ大きなため息を吐いて、うどんを急ぐように口に入れる。
「ふう。食べ終わったぜぇ」
中村は満足したふうに目を細めて、イスの背もたれに体を預ける。
「いや早いな、お前」
「いつものことだろ」
放課後。
授業は全て終えて、もう俺たちは自由に動けるようになった。大半は友達と自宅へ帰り、あるいは部活動だ。中村も今日は部活である。だから俺は自然と一人になる。中村ほど親しい友人はあまりいないのだ。
いや、もう一人くらいはいるか。
「仕方ない」
と言いつつ、日課のようなものだ。
図書室。俺がこうして一人になるとき、いつも向かう場所は図書室だ。あそこでは無料で多種多様な本が読める。本好きの俺からすれば楽園と言ってもいい。
そこでは例の友達がいる。
「あ、真堂くん」
俺が図書室に入ると、いつも本棚の前に立って悩んでいる少女が一人。二年一組の同級生、黒岩真奈美である。
流麗な黒髪は後ろで結っていて、ポニーテールになっている。吸い込まれるような茶色の瞳。小顔で、少女らしい整った輪郭。
それで性格も、誰に対しても公平で優しいのだから、男女ともに人気があるのもうなずける。
「よ、黒岩」
そして、そんな人と親しい俺は幸運なのだろう。
俺がいつも通り、図書室でいると黒岩もいる。どうやら同じ本好きらしく、気が合い、いつの間にかこうして気軽に挨拶を交わせるようになった。
「今日は何を読んでいるの?」と黒岩は俺の右隣に座って言った。
「今日はファンタジー。海外の小説だよ」
俺が持っている本の表紙を黒岩に見せるようにして言った。
「お、面白そう」表紙を見て言った。「ていうか、これシリーズ化してるんだ。一巻はどこにあるの?」
俺が読んでいるのは二巻目。つい最近、読み始めたのでまだ進んでいない。このシリーズは短編集含め、十作以上刊行されている。
「あそこにあるよ」
と俺はファンタジー小説が並んでいる棚を指差した。
「ふうん。ちょっと見に行かない?」
「俺もか?」
「うん」
当然、と言わんばかりに大きく首を縦に振る。
「ふう……わかったよ」
「ありがと」
俺は机に手をかけ、体重をかけて立ち上がる。目的の棚はすぐそこにあるけれど、俺が先導して歩み寄っていく。
「ここ」と俺は指差す。
そこには俺が持っていた小説がずらっと並んでいる。
「ほほう……」興味深そうに一巻を手に取る黒岩。
「どう?」
黒岩は本を開いて、ページをぱらぱら適当にめくっている。
「よし、借りてみよっかな」
なんて言って、本を閉じた。
「借りるのはいいけど、決断早くないか?」
俺は少し苦笑して言った。
「いいの。真堂くんとは本の嗜好まで似てるんだから。わたしが読んだって、面白いって結論は変わんないよ」
とんでもないことを笑いながら言った。それは……俺を信用してくれているということだろうか? いや、やめよう。そんなことを考えるのはやめよう。
「そっか。じゃ、二巻目貸すよ」
「え、いいの?」
まぶたを大きく開けて言う。
「うん。もう読み終わったしね」
実は黒岩が来るまで、もう最後まで読み終わっていたのだ。俺は机のほうに戻って、机の上に置いてある二巻を手にとり、黒岩に差し出す。
「じゃ、カウンター行こうか」
「うん!」
と、ひときわ大きい声でうなずきながら言った。
ここの図書室にはあまり人が来ない。いるとしても気だるげな図書室の先生。
そうして本を借りて、そのあと靴箱へと向かった。
中村が部活のときは、いつもこうやって図書室で過ごし、最終的には一緒に帰ることになる。
あまり経験がない俺としては最初こそ緊張したものだが、今となってはだいぶ慣れて、途端に多くなる心拍数も緩和された。
「今日はありがとうね」
「いや、いいんだ。俺としても喜んでくれて嬉しかったから」
上靴から靴に履き替えて、玄関から出た。
空はもう朱色に染まっていて、そこで夕暮れなのだと初めて知る。
「じゃ、またね」
と黒岩は俺に手を振る。一緒に帰る、なんてのは実は大げさな表現である。実際は正門まで一緒に行って、そこで右に黒岩が、左に俺が、というふうに別れる。
「いや、これからはこっち」
「え、引っ越したの?」
黒岩は振っていた手を止めて、こちらの顔をじっと見る。
「うん」俺はうなずく。「ほら。あそこの住宅街に場違いな屋敷があるだろ? そこで暮らすことになったんだよ」
「へえ……」と両手を後ろにやって、顔を伏せる。「じゃ、じゃあさ。一緒に……」
「一緒に帰ろうぜ」
「え?」と黒岩は顔を上げて、きょとんとする。
「途中まで一緒なんだし、帰ろうよ。それとも、嫌だったりする?」
そう訊いてみると、黒岩は数秒ほど間をおいて、ぱちぱちと瞼を動かせて言う。
「う、ううん! 嫌じゃない嫌じゃない! ま、まあ途中まで一緒だしね。一緒に帰るのは、まあ、いいよね」
なんて、慌てて両手と首を左右に振って言う。そんな、ヘンな黒岩を見て、珍しいなと笑っていた。
「あれ? わたし、なんかおかしい?」
「いや、おかしくないよ。とりあえず行こうか」
「そ、そうだね!」
声が若干高い黒岩が気になって、黒岩の顔に目をやる。
「……いや、やっぱおかしいよ黒岩」
「へ?」
「すっげえ顔赤くなってる」
「え、嘘!?」
なんて言って、顔を覆い隠して視線を下にやる黒岩。一応気をつかって、俺は黒岩から視線を外す。
そんなわかりやすい黒岩に、俺は──、
「ねえ、真堂くん」
「ん?」
不意に名前を呼ばれて、俺は黒岩に視線を戻す。さっきまで赤かった顔はもう直っている。
「好きな人って、いる?」
「いや、いないな」俺は即答した。
「そっか……じゃあさ」黒岩はゆっくりとこっちを向く。「真堂くんが誰かに告白されたとしてね。もし、その誰かさんが悪い人だってわかったとき、やっぱり断る?」
意味のわからない質問に、俺は少しだけ首をかしげた。少し俺は考え込んで、黒岩から視線を外して、目の前のアスファルトの車道に目をやる。
俺はそこで足を止めた。
顎を撫でながら、考えてみる。
そうだな、俺なら──、
1,受け入れる、と思う。(○)
2,怒る、と思う。
「受け入れる、と思う。普通だったら断ると思うけど、俺はまず、自分の目で相手がどんな人なのかを知るべきだと思うんだ」
たとえ世間では悪事を働いた人であっても、俺にとっては善人に見えるかもしれない。つまりは、見てみるまでわからない、ということだ。
こんなことを言ったって、この言葉に何か確証があるわけじゃないけど。
「そっか……そっか……優しいんだね、真堂くん」
黒岩は嬉しそうに微笑んで言う。そのあとも「そっか」と何度かつぶやいた。今日の黒岩はやはり何だかおかしい。
そうして黒岩とは途中で別れて、俺は屋敷へと向かった。
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