そしてそれは家となったか

 「おさむさん、治さん、ちょっと、ちょっと、これ見て、これ、曲がってない?」


 僕の妻は最近とても忙しそうだ。今日はお茶のお稽古に出かけるらしく、朝から着物と格闘している。僕はそんな彼女をとても愛しく眺めていたが、さすがに眺めていては仕事にならないので、自分の部屋に戻ってきたところだった。もう何度目のこの質問だろうか、時間は間に合うのだろうかと、僕の方が心配をしてしまう。


 「うん、大丈夫、さっきよりよくなってると思うよ」


 「ほんとぉ? なんか、こう触ってみると、なんか、歪んでるような気がして、ほら、ちょっと左に」


 「それは、君がそっちに身体を曲げてるからそう思うんだよ」


 僕はおかしくてたまらない。なんて可愛いんだと、前から思ってはいたが、半年ほど前に古い友人と再会したと、泣きはらした目で帰ってきてからの彼女は、以前にもまして可愛くなった。


 「よし、もういいわ。これで、じゃないと時間が間に合わないもん」

 

 「そうだよねぇ、もうこんな時間だもんね。大変だねぇ、着物って。普通の服でお稽古いっちゃダメなの?」


 「それはそうよ。いや、いいかもだけど、私だけ皆さんみたいに着慣れてないし、こういうのは何事も回数をこなさなきゃ、でしょ?」


 お茶のお稽古を始めてからまだ日が経たない彼女は、去年の秋のお茶会から帰ってきて、着付け教室へまず通った。でもそこで習った着物の着方をしてお稽古へと向かった彼女は、たくさんの紐の締め付けに耐えきれず、貧血で倒れてしまう。


 「バカねぇ、何本紐使ってるのよ、って、言われちゃった。でね、そこで全部脱がされて、お姉ちゃんが着せ直してくれたのね、そしたらびっくり。すごい楽なの」


 僕はおかしくてたまらなかった。全部とはどこまでなのか、物書きの僕としてはその描写をぜひとも書いてみたいと思ったものだ。それは悪代官にくるくるされるように脱がされたんだろうか、なんて想像したりもしてしまった。僕の書いている作品はそういう類のものではないけれども、だ。


 「で、今日はそのまま美子みこさんと一緒に食事に行くの?」


 美子さんというのは、彼女が再会したという同級生だ。再会してからというもの、頻繁に連絡を取り合い、今ではすっかり親友になっているようだ。僕にはなかなかそんな友人はいないので、少し羨ましくいつも思っている。


 「そうそう、あ! 思い出した!あのね、治さん、美子ちゃんがね、今度色々教えてくださいって言ってたよ。書いたもの見て欲しいんだって」


 え、それまたなんでと思ったが、そういえば、小説サイトで書いていると言っていたなと思い出した。愛しい妻はそのお話のイラストを書いてるらしい。


 「なんか、公募したいやつがあるから、ぜひプロの目でって、ダメ、かなぁ?」


 「いや、僕で良ければ。でも、役に立つかなぁ、兼業作家だし。本当のプロの先生とはちょっと違うかもだよ」


 「大丈夫! 大ファンですって言ってたし」


 ははは。そうなのか? でも正直嬉しいかもしれない。僕は会社に勤めながら小説を書いているが、実は何冊か本も出している。今時の若い子には少々面白味が欠けるかもだけれど、同じような年代の読者層からは、そこそこな評価をいただいていると編集部からも聞いている。…はずだ。


 「次はどんなのですか? って言ってたから、ちょこっと話しちゃった。ごめん」


 「大丈夫だよ、だって、君たちがモデルなんだから、美子さんも聞く権利はあるだろう?」


 「そういうと思ったの! で、どんな話だったっけ? 今日会う時もう少し教えてあげたいからもうちょっと、もうちょっとだけ、教えて」


 こういう話をするのは最近になってからだと僕はおもう。彼女はいつも僕の本ができてから僕の小説を読んでいた。完成した本の香りを味わいながら、世界にどっぷりハマりたいらしい。その気持ちは僕もわかる。僕もそう言うタイプだ。


 僕が小説を書き始めたのは、僕の祖父が書いた原稿を実家の本棚で見つけたからだ。いや、もしかしたら、なぜか実家に行かなきゃいけないと思うような夢を見たからだったかもしれない。営業職で働いていたが、うまく契約も取れず、しょぼくれた中年だった僕は、その原稿を見つけてから、急に何かを書いてみたくなって、何作か書いて公募に出しているうちに、ちょうど新人賞のコンセプトにあっていたのか、めでたく入選し、今に至る。


 祖父の残した原稿は、長い時間大切に眠っていたのがわかる色をしていて、何度も書き直した跡があった。そして、その内容は、確かにこれでは小説家にはなれなかっただろうな、と思うようなものだった。でも、そこに書かれている物語は、どこかあたたかく、何が大切なのかを思い出させてくれるようなものだった。


 ―― 戦争を知っているからか、貧しさを知っているからか。


 当たり前だと今の僕が思う事が、実は当たり前ではないと、全てが感謝の日々だと、そう感じるような内容だった。現代の何もかもが便利に揃う時代じゃないからこその、生き方。その中に本当に大切にしなきゃいけない宝物を見つけたような気分だった。


 ―― 僕の書くことの原点はそこにあると思う。


 「ねぇ、おーい、聞いてますかー、また潜っちゃったんですかー?」


 あぁ、と、意識を現在に戻す。すまないすまないといいながら、彼女がよく言う潜るとはどういう意味なのか、今度聞いてみようと思った。


 「そうだな、えっと、簡単に言うと、クジラ先生って呼ばれている精神科のお医者さんがいてね、海辺の町で奥さんと二人でカフェをやってるんだよ。そこにやってくる来談者の人からつながる物語なんだけどね」


 「それのどっかに私たちをモデルにしたお話が出てくると」


 そうそう、と言いながら、僕はおかしくてたまらない。お稽古に行く時間は大丈夫なんだろうか、でも、もっと聞きたい顔をしているのがわかる。


 ―― 愛しい人だ。


 「それはハッピーエンドよね?」


 もちろん、そうだよと僕が言うと彼女は、少しトーンを落として、僕を見つめ、


 「それじゃあ、その小説に出てくる私はいつか赤ちゃんができましたって書いてくれると嬉しいな」


 と言った。もちろんまだ諦めてないけれど、あなたがそう書いてくれたら、私にも赤ちゃんが来てくれるかもしれないでしょ、と言った。小説家さんは物語の創造主なんだから、そうしてあげて欲しいな、とも言った。そして、できたら女の子が理想的と最後に言い添えた。


 ―― そうだね、それもいい考えだ。


 そうだね考えてみるよと言って、僕は桜の花に包まれた愛しい妻を見送りに行く。柔らかい薄桜色の着物に、白地の帯が、ふわりと春風をさそい、僕たちに新しい春を連れてきてくれるような、そんな予感がした。



 いってらっしゃい、愛しい君よ。

 そして、帰っておいで、この家へ。


 僕たち家族の家へ。


 

 

 


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