(2)

 ガブリエルの城は先ほど述べた通り、格安で売り出されていた瑕疵かし物件である。なんでも、その部屋で殺人があったばかりではなく、夏のあいだにしばし異臭を振りまくまで前の住人が放置されていたという物件だ。


 湧いた羽虫と、べったりとフローリングに染みついた前の住人のなんやかんやをすべてなかったように見せかけられているから、事情を知らなければ単なる格安物件に見えるだろう。


 このマンション自体は、もともとは中流家庭向けに作られた賃貸マンションであったから、住み心地は悪くない。オートロック式だから安全面もそれほど悪くはない。


 悪いのは周囲の治安と汚臭くらいだろうか。一帯はなんだかドブくさい異臭がするし、近所でガラの悪い男たちがたむろしている姿も珍しくはない。


 ドブくさいにおいを嗅いでいると、この部屋からしばらく異臭が垂れ流されたとしても、だれも気にしなかっただろうなあなどとガブリエルは考える。


 住めば都……というほどこの部屋に越してきて長くはないのだが、それでもこの城をガブリエルはそれなりに気に入っていた。


 治安がよくないせいで、たまに言葉を交わす顔見知りの住人たちが明らかにアウトローばかりなのは、ちょっとどうかなと思うこともある。しかしまあ及第点は与えられる程度に、ガブリエルは今の生活を気に入ってはいた。


 昼間はごちゃごちゃとした印象しかない窓から見える景色も、日が落ちれば多少は見られるものになる。


 ネオンサインが輝く繁華街にほど近いため、窓を開ければ外の喧噪や熱気がこちらまで押し寄せてるような感覚に襲われる。


 一〇〇〇万バオルンの夜景と言うにはショボすぎるが、しかしこの部屋から見える景色も、ガブリエルはそこそこ気に入っていた。


 コンビニエンスストアで買ったお高めのカップアイスをほおばる。小さなヒーターに当たりながら食べるアイスクリームがもたらすささやかな幸福感を味わう。


 しかしそれもスマートフォンのバイブレーションが水を差した。通知欄には見慣れたチャットアプリのアイコンと、受信したメッセージが表示されている。送信者は――。


「まーたジョンか」


 ガブリエルはカップの角に残ったアイスクリームをスプーンでこそげ取りながら、すぐにはスマートフォンを取らずに放置する。


 メッセージを読まなくとも、ガブリエルはすでにジョンの用向きを理解していた。だからすぐに既読マークがつくような操作は行わなかった。それは、ガブリエルなりのささやかな抵抗だ。


 アイスクリームがすっかりなくなって、水っぽい紙カップの中をざっと水道水で洗うと、それをゴミ箱に放り投げる。ついでに使ったスプーンもささっと洗ってしまう。


 そうしてからようやくガブリエルはスマートフォンを手に取って、チャットアプリを開いた。


『明日14時、いつもの場所で』


 いつも通りのそっけないテキストメッセージをしばらく眺めたあと、ガブリエルは『了解』とだけ返信する。


 しかし気が滅入る。ガブリエルはまた簡素なテキストメッセージを眺めてみるが、その文面が変わることはなかった。当たり前だが。


 気が滅入るが、ガブリエルは生まれ持っての霊能力で糊口を凌ぎながら、惰性で生きていると言っても過言ではない木っ端霊能力者。


 対するジョンは、いわゆるギャングのボスなのだ。木っ端霊能力者のガブリエルなぞ、一晩で煙のように消すことくらいいくらでもできる。ジョンは、そういう力がある男なのだ。


 ガブリエルが懐に入れた例の三〇万バオルンの出どころもジョンなのだ。そんな男に逆らうのはどう考えても得策ではない。ガブリエルだってそれくらいのことはわかる。


 それでも気が滅入る。しかし、「行かない」という選択肢はハナから存在しない。「人生はクソゲー」という言葉がガブリエルの脳裏をよぎって行った。


 だがいくら考えても、現状がくるりと変わる……などというミラクルは起きないとわかり切っていたので、ガブリエルは早々にベッドへと向かう。


 マットレスだけに金をかけた安物のベッドに飛び込んで転がると、ペラペラの掛け布団を体にかける。


 明日がくるのが憂鬱だった。




「あー? なんだテメエ」


 エレベーターの扉が開いてすぐ近くにいた、どこに出しても恥ずかしいチンピラ男にすごまれる。金髪をオールバックにしたそこらにありふれているチンピラの威嚇など、ガブリエルには怖くもなんともない。しかしいきなり殴られたりするのは勘弁だったので、あいまいな笑みを浮かべた。


 ガブリエルは既にこの事務所へは何度も足を運んでいたが、今目の前にいるチンピラの顔は初見であった。最近入ったばかりの新顔なのかもしれない。歳は二〇歳前後に見える。ガブリエルよりも確実に年下であった。


「おい、どうした?」


 どうやってこの場を切り抜けようかとガブリエルが思案していれば、廊下に顔を出した壮年の男がチンピラに声をかける。チンピラが振り返って名前を呼んだ。先ほどまですごんでいたのが嘘のような、しおらしい声であった。


 チンピラが口にした名前は、ガブリエルにも聞き覚えがあった。ジョンの部下の……それもまあまあ、下の方の部下だ。そんな男にしおらしい声を出すのだから、チンピラは組織の末端も末端だということがうかがえる。


「アッ、ガブリエルさん!」


 きっちりとスーツを着ている壮年の男は、先ほどまでいかにも「カタギじゃありません」といった顔をしていたのに、ガブリエルの姿を確認するや途端に生真面目なサラリーマンのように顔面に笑みを浮かべる。


 チンピラは目を白黒させてガブリエルを見た。ガブリエルは居心地の悪い思いをしながら、またあいまいな笑みを浮かべる。


 するといつの間にやらガブリエルたちのもとにやってきていた壮年の男が、勢いよく頭を下げた。


「ウチの新入りがすいません!」

「あー……気にしていないので……。それよりもジョンさんは――」

「ハイッ、ボスなら事務所にいます!」

「ありがとうございます」

「いえいえ……」


 ようやくチンピラから解放されたガブリエルは事務所の扉を開く。ガブリエルの家の扉と違って、たてつけもいいし蝶番の油も足りている。


 ……そんな、どうでもいいことで頭をいっぱいにしても、どうしても背後の会話が耳に入ってきてしまう。


「だれっすか?」

「バカッ! ガブリエルさんはなあ……ボスの知り合い……ということになっているが、ボスの情婦イロだって言われてる」

「マジっすか」

「まあ、噂だけどな……でもボスに近づけるオンナはガブリエルさんくらいだ……」

「マジっすか」


 ガブリエルは今すぐ背後でおしゃべりをしている男ふたりのツラを張り飛ばしたい衝動と戦う。


 張り手を食らわすまでいかずとも、噂を否定したかったが、それはできない約束をジョンとしてしまっている。


 結局ガブリエルは心のうちでジョンを罵ることしかできなかった。これから当のジョンに会うのだが、もちろんギャングのボスなどという物騒なご職業をお持ちの彼に文句など言えない。だからガブリエルは頭の中でジョンをボコボコにすることで、どうにかこうにか溜飲を下げるしかないのであった。

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